因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

studio salt×マグカル劇場 青少年のための芝居塾公演2017 『万!万!歳!』

2017-08-26 | 舞台

*椎名泉水作・演出 特設サイトはこちら 神奈川県青少年センターホール 27日終了
 昨年の『7 2016ver.-僕らの7日目は、毎日やってくる-』に続いて、studio salt(以下ソルト)とマグカル劇場のコラボ公演である。ソルト劇団員を中心とするプロの俳優8人と、芝居塾の塾生25人が4カ月に渡って作り上げた。収容人数800人を超える大ホールだが、客席はセンター部分を中心に仕切られている1,2,3,4,5,6,6`,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20)。
 
今回の舞台にはさまざまな仕掛けや趣向が凝らされている。若い塾生たちが衣装や髪型、メイクを変えることなく若者の外見のままで、「認知症の高齢者」を演じること、時空間が70年あまりを飛び越え、戦争に壊されていく人々の暮し、老いてなお癒えぬ傷を抱えている様相を描いていること、ミュージカル仕立てで、歌やマイムによって物語が運ばれていくことなどである。これらが活かされた面と、もっと活かされればと感じた両面があり、敢えて後者についても記しておきたい。 

 介護職員として就職したものの、目的も志もない若者がやる気のなさをぶつける「もっと」(椎名泉水作詞 根本修幣作曲 根本は施設の合唱指導スタッフとしてピアノ伴奏も行う)の楽曲は、本作のつかみとして強いエネルギーを放つ。「もう辞めたい、もっといいところへ行きたい」と切望する彼に対して、「もっと適当でいいんだよ」とたしなめる古参の職員たちは、割り切ってできるだけ楽にやろうと呼びかける。一方で「もっとやりがいを求めよう」という誠実な職員グループもあり、ひとつの施設のなかで働く意識がさまざまあることを示す。働く者の日常を鋭く切り取り、温かく描いてきたこれまでのソルトの作品が想起され、期待が高まった。

 物語中盤、若者の夢の中のできごとと捉えてもよいのであろうか、施設の老人たちが突如若返る。若者はたった一人、現在の状態のままで放り出される。そこで描かれるのは戦争によって容赦なく奪われ、壊され、傷つけられていく人々の暮しであり、心である。動けず口の利けない老人たちが、本当は何を言いたかったのかなども丁寧に描かれる。

 働く意識の方向性が異なる職場にあって、まるで夢のように老人たちの若き日を知った若者が、何を思ったか、それによって現実に戻ったときに、どう変化していくのか。舞台後半でそれが描かれると身を乗り出したのだが、彼の葛藤や変容の様相が十分に伝わったとは言い難い。むろん「敢えて描かない」という方法もある。あからさまな反省や悟り、理解の言葉を発することなしに観客に想像を求めているのかもしれない。しかしやはりどうしても欲が出て、彼の心の移ろいをもっと知りたいと思うのである。

  足踏みや手拍子を使ったマイムは迫力があり、舞台からというより、一人ひとりの人物の心の奥底の声が響いているようである。しかしその時間が若干長いと感じる場面もあり、80分の上演時間をもっと活かすことが可能ではないだろか。

  劇中数回、「汽車ポッポ」の歌に合わせて、職員と高齢者が体操をする。しかしこれの元歌は出征する兵士を見送る「兵隊さんの汽車」であり、舞台のタイトルは、「兵隊さん、兵隊さん、万々歳」の歌詞に基づく。人々がかつて戦場に赴く兵士を歓呼の声で送った歌を、老いてのち、のんびりとした童謡として歌うのである。この歌が物語のふたつの時空を見事につなぎ、効果を上げている。

  若者たちと一夏をともに舞台作りに勤しむマグカル劇場の歩みは、見るものにとっても「演劇っていいなあ」と素直に共感できるものである。横浜における芸術活動として定着し、これからもさまざまな試みが継続されることを願っている。だがそれと同じくらい、スタジオソルトの会話劇が恋しいのである。今回の舞台をストレートプレイでみることはできないだろうか。歌やダンスもなく、高齢の俳優が登場する舞台で(敢えて若い俳優を置き、老人を演じること、一夜の夢のように若返る場面を作るのであれば、それもぜひ見たい)一人の若者がこの仕事に心を向け、取り組んでいく様相を知りたい。椎名泉水なら、スタジオソルトなら、きっとできると思うのである。

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MSPインディーズ・シェイクスピアキャラバン 並行世界ハムレットプロジェクトその1『新ハムレット』

2017-08-17 | 舞台

*太宰治原作 MSPインディーズ脚色・演出 公式サイトはこちら 20日まで 早稲田小劇場どらま館
 MSPすなわち、明治大学シェイクスピアプロジェクト(1,2)の卒業生と現役生による合同公演が、今年も開催された。昨年の『クレオパトラ』に続く第2弾であり、並行世界(よこみちと読む)ハムレットプロジェクト・その1と銘された本作は、太宰治がシェイクスピアの『ハムレット』を「二次創作」(公演リーフレットより)した「新ハムレット」をMSP流に舞台化したものである。95分休憩なし。白と黒に統一されたシンプルな舞台装置、登場人物はクローディアス、ハムレット、ポローニアス、レアティーズ、ホレーショー、ガートルード、オフィリヤの7名のみ。照明効果もぎりぎりまで削ぎ落し、シェイクスピアと太宰治に果敢に挑戦した。

「ハムレット」は多くの俳優が憧れる作品であり、役柄であろう。一度は演じてみたい、できればタイトルロールを。ほかの役であってもこの作品の舞台に立ちたいと願う気持ちは十分に想像できる。観客にとっても「ハムレット」はシェイクスピア作品のなかでも特別な存在で、自分の観劇歴のなかで「誰が演じるハムレットを見たことがあるか」は非常に重要であるし、「いつかあの役者のハムレットが見たい」と夢を膨らませる。自分の好きな俳優がこの役を射止めたときの、「とうとうあの人が!」とわがことのような晴れがましさ。この特別感は「ハムレット」だけと断言してもよい。

 太宰治の「新ハムレット」には作者自身による「はしがき」があり、書き出しからして、「こんなものが出来ましたというより他に仕様が無い」と身もふたもない。沙翁の註釈書でも新解釈でもなく、「作者の勝手な、想像の遊戯に過ぎないのである」。また決して戯曲のつもりで書いたのでもないそうで、それを舞台化するのは、もしかすると「ハムレット」そのものの上演以上の困難があるのでは?あたかも日本の世話物のように人々はよくしゃべる。のみならず、原作通りに話が進まず、まさかの展開、ええっ、この人がそうなるの?いったいどこへ到達するのかと前のめりにさせておいて、読む者を突き放すように幕を閉じる。原作を読んだときの意外感、唐突感、もっと言えば不完全燃焼感は、舞台の「ハムレット」からは想像もできないものだ。

 本作は1940年7月、文藝春秋社より刊行された。太平洋戦争がはじまる直前である。終幕、クローディアスによって告げられる「戦争が、はじまりましたよ」はほどなく始まる戦争の予言であり、開戦のどさくさにまぎれて先王毒殺の一件をごまかそうとしたり、「国の名誉、という最高の旗じるし一つのために戦え!」と強要したりなど、当時の不穏な世情を濃厚に反映し、軍部の暴虐を予感させる。それに対するハムレットの台詞は、これを物語最後のひと言として受け止めるのは、原作の「ハムレット」を知る者にとっては、困惑を禁じ得ない。これから戦場に駆り立てられてゆく若者のつぶやきかと思うと、背筋が寒くなるのである。

 MSPは熱いエネルギーを爆発させるような勢いで物語を走らせた。適材適所の配役で、入念な稽古を重ねたことが窺われる。ただ好みの問題になるかもしれないが、「前説」は慎重に扱ったほうがよいと思う。観客側にも相当な緊張と期待があって幕開けを待っているわけで、リラックスしたいが、高揚感は保っていたいのだ。観劇中の諸注意のアナウンスは、淡々と行っていただいてよいのではないか。
「ハムレット」の苦悩は終わらない。太宰治の筆を通して、演じる人々の声とからだを通して続いていくのである。

 MSPの「新ハムレット」はぜんたいとして無口な演出であるにも関わらず、冒頭は一気に舞台に引き込まれた。まさにスタイリッシュ。太宰の「新ハムレット」は饒舌多弁であるところを、丹念に読み込み、辛抱強く作り上げた証左であろう。 自分の「ハムレット」観劇歴は、芥川比呂志を見られなかった無念の筆頭とし、無上の喜びには2003年初役の藤原竜也が位置する。今夜のMSPによる「新ハムレット」は、これらの「ハムレット」から少し距離を置いたところに確かに記憶される喜ばしい舞台であった。

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東京芸術座公演№102『父を騙す-72年目の遺言-』

2017-08-15 | 舞台

*安保健原案 北原章彦作・演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋ホール 20日まで(1
 父を騙す(だます)。この題名には意味がふたつある。祖父の認知症が次第に重くなり、主に介護を担う祖母の心身も限界に近い。案ずる息子夫婦、孫たちはグループホームへの入居を勧めるが、夫婦ともに聞き入れない。ならば何も言わずに散歩に誘って連れて行こう。つまり「認知症の父を騙す」。そして72年前、正しい戦争と信じて人間魚雷回天の搭乗員の訓練を積んだ若き日の祖父は、戦死した友への罪悪感に苦悩する。改憲を訴える安倍晋三首相のテレビ会見を聞き、「おれたちはあいつのじいさんたちに騙されたんだ」と叫ぶ。当時の政府、軍部に「騙された自分」。

このふたつの意味するところが本作の核である。戦争の傷に苦しむ祖父母世代が、いかにその記憶を次世代に語り継げるか、次世代はどのように継承していくのかという問題を縦軸に、老々介護というまさに現在進行形の問題を横軸にした1時間50分の物語である。配役は一部ダブルキャストになっており、初日の今夜はAプロであった。

 片道分の燃料だけで出撃し、敵艦に体当たりするのが「神風特攻隊」。人間魚雷「回天」に脱出装置はなく、搭乗員は「死を覚悟」というより、死ぬ以外の選択はなかったのである。パンフレットを読むと、作・演出の北原章彦自身の父上の人生が色濃く投影された舞台であることがわかる。また広島・江田島の海軍兵学校で終戦を迎えたという俳優の鈴木瑞穂が戦時中の体験を語ったり、若い俳優に海軍の所作などを指導したり、元回天搭乗員で海軍少尉(劇中の若者と同じ立場)であった97歳の岩井忠正氏の寄稿など、体験者たちの「伝えたい」思いと、次世代の「受け継ぎたい」思い、それぞれの意志が強く伝わってくる。

  劇の冒頭、東欧の仮面劇を思わせる扮装のコロス(パンフレットには「亡霊たち」と記載)が登場し、コロスは劇中何度が密やかに登場し、舞台装置の移動など黒子的な動きをしたり、不気味な雰囲気を漂わせて人々を監視し、操る権力者の風に佇んでいたりする。冒頭のマイムの時間が観劇に臨む心身に対していささか長く感じられた。洗練された動きから俳優の鍛錬が窺われるものではあるが、困惑したのも正直なところである。

  物語は、現在と孫役の俳優が二役で若き日の祖父を演じる72年前の場面が交錯しながら進行する。終盤近くなって祖父ははじめて妻の名を呼ぶ。そして、戦死した親友の許嫁と一緒になったことがわかる。むろん開演前にパンフレットの配役表を見ていれば自明のことであるし、十分に予想できる流れだが、戦友の妹や許嫁に若き日の祖父が苦しみながら戦死について伝えたであろうことや、義務感や責任感だけでなく、心を通わせあって家庭を持ち、育んできた春秋が豊かに想像できるのは、適材適所に配された俳優の誠実な演技のためであろう。とくに筆者が観劇したAプロでは、若き日の五月役の江部茜の質実な雰囲気が老いた五月役芝田陽子にぴたり結びつき、「あのときの五月が」と感無量になったほどであった。

 その悲しみや苦しみだけでない、柔らかで温かな幸せの日々をも忘れてしまうかもしれない。祖父の心情は察するにあまりある。が、祖父が患う「レビー小体型認知症」について、パンフレットには見開き2ページ分の解説があり、さらにそのページが別途印刷されて折り込まれていたりなど、「訴えどころ」のバランスに少々困惑したのもたしかである。認知症と一口に言ってもいくつもの型があり、さらに症状は人によって異なるため、治療や介護には細やかな配慮と忍耐が必要となる。しかしながら戦争による傷の深さと、それゆえの継承の重要性という縦軸が非常に強いため、舞台で描かれている認知症とその介護をめぐる家族の問題については、いささか物足りない印象をもった。

  東京芸術座は1959年に創立され、小林多喜二の『蟹工船』はじめ社会性の強い作品を主軸に、翻訳劇や春のアトリエ公演『おんやりょう』のように、新進作家による書き下ろしも上演し、全国ツアーも行う筋金入りの老舗劇団である。出会うのが遅くなったことが悔やまれるが、誠実で堅固な劇団の気風はほんとうに好ましく、その歩みに何とか追いつき、追いかけたいと願っている。

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劇団民藝稽古場公演『負傷者16人』

2017-08-10 | 舞台

*エリアム・クライエム作 常田景子翻訳 西部守演出 公式サイトはこちら スタジオM(劇団民藝稽古場内)13日まで
 本作は2012年初夏、新国立劇場小劇場公演として宮田慶子の演出で初演された。そのときのブログ記事はこちら。実に歯切れが悪く、不完全燃焼感の強い観劇記だが、それでもどうにか前向きにまとめようとしていることはわかる。が、5年後のいま読み返して、自分が何を考え、何を書いたかということが、ほぼすべて記憶になかったのである。人物の相関関係や物語の流れはどうにか覚えており、この面では民藝版の観劇に大いに役立ったと言えよう。

 これで本作2度めの観劇になったわけだが、まちがいなく今回の民藝版は、心に残る舞台であった。きちんと覚えておきたいと思う。それはいつか訪れるかもしれない3度めの観劇への備えだけでなく、いまだ紛争や内戦、テロが絶えない現在において、本作がわたしたちに投げかけるものはいよいよ強く、深いためである。

「負傷者16人」という題名が何を指すのかは、最後の最後にわかる。ラジオは犯人と思われる青年の自爆テロによって、本人を含め10人(記憶によるもの)が亡くなり、「負傷者16人」と告げる。「負傷者16人」という題名の意味するところに向かって、本作は幕を開け、観客を物語のなかに引き込む。観客はいつの間にか題名を忘れ、パン職人ハンスがパレスチナ人医学生のマフムードを助けたことをきっかけに交わりが生まれ、お互いに喜ばしい人生が展開するかに見えたのもつかのま、人種や宗教のちがい、政治の思惑のために訣別する様相にぐいぐい引き込まれる。そして最後になって「負傷者16人」というラジオの放送を聞くのである。 
 亡くなった人の数ではなく、なぜ怪我人の人数が題名であるのか。16人は、重傷者の中には亡くなる者もあるだろうが、この放送の時点では生きている。かろうじて生き残った16人の心とからだを深く傷つけたテロが、やがて16通りの憎しみを生み、次々に連鎖していくことの暗示ではないだろうか。

 マフムードは爆弾についている時限装置をハンスに預けた。「これをあんたが持っているかぎり、爆弾は何の力も持たない」(台詞は記憶によるもの)。つまり爆発はしないと言ったのだ。しかし彼は自爆という手段でテロを実行した。ほかに方法はなかったのか。

 当日リーフレットには、「ミニ辞典」として台詞に出てくる人物や宗教、政治用語、パレスチナ周辺の地図が掲載されており、観劇の一助となる。しかし劇作家クライエムの出自(父がイスラエル人、母はユダヤ系アメリカ人)や、本作の時代設定、いつ初演されたのか、「寛容の心」を持っていたはずのオランダの国情の急激な変容について(たとえばヘルト・ウィルダースのことなど)、もう少し情報が必要と思われる。

 演出の西部守は、本作が演出家デヴューとのこと。終演後は西部自身が客席に挨拶を行った。俳優の熱演やそれに対する客席の反応から、よい手ごたえを得たのであろう、とても良い笑顔をしておられ、こちらまで嬉しくなるほどであった。作品は痛ましい結末を迎える。しかし16人の負傷者すべてが復讐の鬼と化すわけではないのではないか。心身傷つき、激しい憎悪に身を焦がしながら、もしかすると異なる民族の共存への果てしない道のりの一歩が、16人の傷ついた人々からはじまることを祈りたい。そのように思わされた。

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多摩ニュータウン×演劇プロジェクト 瀬戸山美咲作・演出『たまたま』

2017-08-06 | 舞台

*瀬戸山美咲作・演出(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22 ,2324,25,26)公式サイトはこちら パルテノン多摩小ホール 6日で終了 
 多摩ニュータウンとは、東京都稲城市、多摩市、八王子市、町田市にまたがる多摩丘陵地に、1965年から2006年までのおよそ40年間にわたって計画され、開発された日本最大規模の広さを誇る都市である(公演チラシより)。昨今「ニュータウン」と聞けば、かつては憧れの的だったベッドタウンが、住宅や施設の老朽化、少子高齢化問題が深刻化しているイメージが強い。
 今回の舞台は、「多摩ニュータウンの各世代の住民の方々の証言と市民ワークショップをもとに、『街』を描く」もので、「多摩出身・在住の俳優と、他地域の俳優が一緒になって多摩ニュータウンについて考え、創作」するというもの。折しも多摩センター駅周辺では夏祭が行われており、パルテノン大通りには屋台や盆踊りの舞台も設営されてたいそうにぎやかだ。
 そこに暮らす人、過ごした年月、街の移り変わりを重層的に描く物語。「計画的に作った町で、計画になかったことが起きた」(公演チラシより)。まさに「人生は『たまたま』でできている」とキャッチコピーにあるように、誰もが幸せと安定を夢見て入居した多摩ニュータウンで、アクシデントというには痛ましい出来事が起こり、しかし野球チームがたくさん生まれたりなどといった楽しいことも起こる。
 物語は小学1年生の「あゆみ」が、森の中で拾った大量の百円玉を取りに行って不思議な穴に迷い込み、近未来の人々と出会って巻き込まれる騒動と、平凡ではあっても、それぞれが一編の小説になるほどかけがえのない人生を生きる人々の様相が交錯しつつ進行する。

 作・演出の瀬戸山はじめ、ワークショップ参加者、出演者、市民スタッフの方々は、たくさんの人やことに出会い、話し合いを重ねてこの舞台を作り上げたのであろう。2時間の舞台にまとめるためにそうとうな困難もあっただろうが、単に舞台の作り手と受け手だけではない、もっと豊かな関係性が構築されたことが伝わる。少し盛り込みすぎかと感じるところもあったが、かといって削れる人物やエピソードはどれもないと思われるのだった。

 心に残ったところを書き出してみると、ある女性が、親友が亡くなったあと、遺されたその連れ合いと少しずつ心を通わせ、やがてパートナーとなる経緯が淡々と読み継がれる場面がある。結婚式のお祝いスピーチらしき作りで、装った女性たち数名が彼女のことばを読み継いでいく。音楽はワーグナーの「結婚行進曲」である。それがいつのまにか少しずつアレンジされ、それだけでひとつの楽曲として味わえるほど美しい曲に変容していく。台詞に集中するために、残念ながら十分に聞けなかったが、音楽を含め、詩情にあふれる美しいシーンとなった。舞台の音楽とピアノ演奏は吉田能が担った。吉田は「傘の男」という謎めいた人物として劇中にも登場し、作品ぜんたいを見守り、支える役割を果たしている。

 いっぽうで、不注意から子どもが重い怪我を負ってしまう夫婦の場面は、非常に苦く重苦しいものであった。互いに惹かれあって結婚し、子どもも生まれたが否応なくすれちがう。今日この日のこのできごとをきっかけに始まったというわけではなく、日々の繰り返しと積み重ねがいつのまにか溝を生み、深めてしまう。どちらが決定的に悪いわけでもない。妻は子どもを連れて、逃げるように教会に行く。やがて子どもは怪我による障害を持ちながらも無事に成長し、夫婦も別れてはいない。妻は一人で教会に行き、息子はフットサルに行く。おそらく日本に数多く存在するであろう、「一人クリスチャン」の妻の様相である。

 
無頼派と見えて意外に「お父さん」役に合っていた浅倉洋介、軽みと深さ自在の中田顕史郎はじめ、これまでの瀬戸山作品の常連が多い座組であるが、安定感とともに新鮮味のある演技を味わうことができた。
 
いっしょに住んでいた恋人に去られて多摩に転居してきた女性(とみやまあゆみ)が最後に登場する。冒頭では「このごろ早く目が覚める」ので公園にやってくると独白した人物と同一と思われる。中田演じる一風変わった老人(でもないのか)を、最初は警戒しつつもなごやかな会話をしたあと一人になり、静かに涙にむせぶ。あれは何の涙なのか、と思ったが考えるのをやめた。そうするのが彼女への思いやりのように思えたから。

 演劇ができることは、もっとたくさんある。そう確信させる夏の一日であった。

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