因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋8月の覚え書き

2011-08-30 | お知らせ

 原稿が書けないと現実逃避したくなります。後述した村田喜代子の『縦横無尽の文章レッスン』に紹介されている小説や詩、童話など魅力的な本の数かず・・・。仕上がるまでは我慢、仕上がったら好きなだけ読めるんだからと自分にブレーキをかけます。8月30日現在、因幡屋通信最新号はレイアウト作業に入りました。あと少し、あとひといき。
*葉山嘉樹 『セメント樽の中の手紙』
*大関松三郎詩集 『山芋』
*ルーマー・ゴッデン作 石井桃子翻訳 『ねずみ女房』
 今月心に残った舞台は、劇団フライングステージ『ハッピー・ジャーニー』と、劇団May『夜にだって月はあるから』でした。

【本】
*村田喜代子『縦横無尽の文章読本』(朝日新聞出版)
 作家である著者が西日本の大学で行った文章講座の授業をもとにした文章読本である。
 ひたすら自説を話すのではなく、古今東西さまざまな文章を教材として提示し、それらをじっくりと読み、どこが優れているのか、なぜ読むものの心に響くのかを丁寧に解き明かし、今度は自分で書いてみることを繰り返す。学生たちが提出した作文もいくつか掲載されているが、それが指導によってどう変化していったかまでは書かれておらず、あくまで著者がどのような授業を行ったかに留まっている点はものたりなかった。
 しかしながら著者が学生に説いている内容は、みずからがプロの作家として日々積み上げている研鑽、修練と同じなのではないか。終章の「最後の授業 創作必携」には、書こうとする文章のジャンルが何であれ、まさに必携の事項が理路整然と記されている。書き手として生きる人の覚悟であろう。
 教わる生徒がどのように変化、成長していったかが描かれた文章読本としては、清水義範の『清水義範の作文教室』(早川書房)が何度読んでもたいへんおもしろい。

 ほかにはエドガー・アラン・ポーの詩集や評論集を少しずつ。えびす組劇場見聞録ツイッターからどうぞ。

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非戦を選ぶ演劇人の会 ピースリーディングvol.14 『核・ヒバク・人間』

2011-08-28 | 舞台

*非戦を選ぶ演劇人の会 構成台本 鵜山仁 演出 永井愛・丸尾聡 演出補 公式サイトはこちら 全労災ホール/スペースゼロ 28日で終了(1)
 第一部は朗読劇『核・ヒバク・人間』。タイトルのとおり、「非戦」というよりも東日本大震災と福島第一原発事故による「脱原発」をより強く訴えるものだ。6人の劇作家(相馬杜宇、石原燃、篠原久美子、清水弥生、野中友博、丸尾聡)が「フクシマ」「原発と地域振興」「安全神話」「脱原発社会への提言」などのパートを分担し、ひとつの台本にまとめあげたもの。出演者は40人を越えるが、リーディングに的を絞り、小道具や照明や音響などを抑えた演出が効果をあげ、メッセージがよりシンプルに伝わってくるステージであった。
 

 第二部には福島県・飯舘村の酪農家 長谷川健一さんがゲスト出演された。聞き手は劇作家の篠原久美子と俳優の円城寺あや。はじめに「故郷を追われる村人たち-福島・飯舘村-」と題した映像をみる(監督・撮影・編集 土井敏邦)。およそ16分の短いものだが、福島第一原発事故から数か月間の村の様子が淡々と描かれている。そのナレーションを俳優の市毛良枝が担当したのだが・・・ナレーションといっても、画面に出ている字幕と同じ内容を読むだけなのだ。しかもナレーションと映像が次のものに切り替わるタイミングがちぐはぐで追いつかなかったり駆け足になったりで、みている方がハラハラさせられた。生で聴く市毛良枝さんの声は大変美しかった。映像は思い入れや感情を極力排した作りであり、ここに適切な内容を語る肉声のナレーションが入れば、もっと心に響いたであろうに。非常に残念だ。

 続いて長谷川さんへのインタヴューが始まった。長谷川さんご本人が大変な迫力の持ち主で、日焼けしたがっしりした体躯に、一度聞いたら忘れられない声、しかも数百人の観客を前にしてまったく動じることなく堂々と話してくださる。第一部で長谷川さんを演じた高橋長英の質実な演技は大変好ましかったが、長谷川さんご本人がリーディングに出演されたらどんなものになるだろうかと想像してしまうくらいであった。
 東京電力やその御用学者、政府に翻弄されながら、村を守りたい、子どもたちを守りたいとまさに孤軍奮闘の日々を語ることばのひとつひとつ。怒りは大岩のごとく、しかし水のように柔軟で柔らかな朝日を感じさせるときもある。飯舘村の村長に対して「あいつは頭がいい。だけど決断力がない!」と断罪するが、敵対や闘争の刺々しさはなく、まして利権を争う醜悪な面は微塵もない。「それでも皆で力を合わせてやっていくんだ」という気概と温かさが感じられる。三代めの首相が決まってなお派閥争いに右往左往する政治家たちよ、長谷川さんの声を心して聞け。

 このように第二部は、ほぼ長谷川健一さんのオンステージ状態になり、聞き手のおふたかたは長谷川さんに圧倒され、傾聴するばかり。これにはがっかりした。たしかに被災地の現実は言葉を失わせ、創作意欲を打ち砕く。しかし演劇の作り手として、しかも現実の問題に対して演劇人として行動することを掲げているのだから、長谷川さんともっと互角のやりとりを聞きたかった。

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劇団May vol.29『夜にだって月はあるから』

2011-08-26 | 舞台

*金哲義 作・演出 應典院芸術祭参加作品 公式サイトはこちら シアトリカル應典院 28日で終了 (1,2,3,4)
 ほんの半年前まで劇団の名前すら知らなかったのだ。知人のすすめで足を運んでからあっという間に虜になり、これで5本めの観劇になった。ほぼ1か月に1本見ているわけで、これは驚異的である。今回は小学校時代からの友人を誘って、本拠地大阪での公演に足を運んだ。
 新大阪から地下鉄を乗り継いで谷町九丁目駅から徒歩7分。シアトリカル應典院は浄土宗のお寺の境内にあるが、建物じたいはモダンな(←この言い方古いですわね)作りで「お寺のなかで芝居をみている」という感覚はない。いつもは上演前の客入れから賑やかなMayだが、この日は主宰の金哲義による短いご挨拶で開幕した。

 親友の潤平とともに故郷の朝鮮から希望を抱いて日本に旅立った李春太の一代記である。
 正面に巨大な脚立があり、ふたりの少年がそこに昇って故郷に別れを告げ、これから向かおうとしている新天地へ大きく手を振る。ほとんど裸舞台に近いのに、広い青空と洋々たる海が見えてくるかのよう。大阪で働きながら夜学に通う少年期を木場夕子が、長じて芝居作りをはじめる青年期を金哲義が演じる。戦後、故郷から来た小さな劇団の舞台に出ていたヒロイン貞仙(ふくだひと美/劇団フジ)に一目ぼれした春太は、劇団の演出や劇作を手伝いはじめるが、やがて済州島4.3事件が勃発し、ふたりは別の道を生きることになる。

  シアトリカル應典院のステージは天井が高い。その高さを有効に使い、舞台には躍動感があふれる。冒頭の巨大な脚立がそうであり、薄い紗幕の張られたパーテーションを自在に使って、舞台に立つ貞仙たち、見守る舞台裏の春太の空間をあざやかに見せる。

 描かれているのは、過去である。しかし歴史の知識を得たり検証したり、ノスタルジアを覚えるものではない。在日朝鮮人として今を生きる作者の人生に、過去が過去にならないまま色濃く影を落としており、それを描かずにはいられない、芝居を作る行為が生きることそのものであることがわかる。
 半年前、Mayのことを教えてくれたときの知人のことばを再び思い出す。
「日本の小劇場の若手がおもしろいことがやりたいから演劇を作るという傾向があるのに対し、伝えたいことがあるから演劇をやる、そういう強さがある」。
 知人もまた演劇の作り手であり、創作の姿勢を自省しつつ、Mayと金哲義に敬意を持ち、その魅力を語ってくれたのだ。前述のように空間の使い方が巧みで、登場人物の描き分け、対話のテンポもよい。笑いと涙のつぼもよく心得ていて飽きさせない。しかしこれらは作劇や演出のテクニックだけではなく、やはり「伝えたいことがある」という強烈な意志があってこそ光るものであろう。

 終幕、旅立つふたりの少年が再び現れ、脚立に昇って故郷に別れを告げ、新天地に手を振る。同じ場面を今度は朝鮮語で叫ぶ。朝鮮語はもちろんわからず、日本語では何と言っていたか、思い出せずもどかしい。しかしこの場面は心を打つ。わからなくても伝わってくるものがあるからだ。だからわからないところをもっと知りたい、またMayの舞台をみたいと思うのである。

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JACROW#15 『明けない夜 完全版』

2011-08-25 | 舞台

*中村暢明 脚本・演出 公式サイトはこちら シアタートラム 28日で終了 (1,2,3,4)
 2009年夏の初演は口コミで観客が増え続け、その年のサンモールスタジオ年間最優秀団体賞を受賞した。初演では本編に加えて登場人物12人×5分の「外伝」で構成されたものを再編集し、完全版としてシアタートラムでお目見えとなった。

 1963年、高度成長のただなか。東京・亀有で先代からの事業を営む和田家の居間が舞台である。社長のひとり娘が誘拐され、犯人は身代金を要求してきた。居間に署轄と本庁の刑事たちが陣取り、脅迫電話を録音し、和田家の夫婦や使用人、和田商店の従業員たちの事情聴取を行う。どうやら顔見知りの犯行らしい。誰もが誘拐事件に驚き、「お嬢ちゃん」の無事を祈っている。事件は平和で平凡な日常に突然やってきた不幸である。しかしひとりひとりの話から、この家庭をめぐる人々のあいだに以前から巣くっていた闇が少しずつ暴かれてゆく。

 誘拐犯が誰か、なぜ犯行に至ったかをじわじわと突きつめていく様相は緊張感に満ちているが、それが本作の見どころではないと思う。和田家の夫婦はじめ、使用人や従業員、捜査の刑事たちまで、登場人物は皆何かしら重たげなものを背景に持っており、一筋縄でいきそうにないものばかりである。善意だけ、悪意だけではなく複雑で、心に痛みを抱えている。雇う側、雇われる側の力関係がその痛みに拍車をかけ、小さな傷口が次第に大きくなり、まさかの凶行に及んでしまう。
 本作をみた多くの人が、60年代の風俗を細かに作り上げた舞台美術、人々の髪型や服装、小道具ひとつにいたるまで神経の行き届いた作りに目を見張るだろう。また完全版である今回は、カーテンコールが終わったと思わせて、もうひといき、裏のシーンが示されたのだ。ここまではさすがに想像していなかった。作り手の気迫が感じられる。

 しかしながら自分は今回の完全版の印象がはっきりとことばにならない。本作は当時実際に起こった子どもの誘拐事件をベースにしている。事件を演劇にするという創作の太い線があり、ここまで凝った舞台美術を作り、俳優も小劇場界の実力派がまさに粒ぞろいなのに。
 最も大きな理由は、俳優の演技や造形に違和感を覚えるからであろう。
 確かに大事件なのだが、あそこまで大声で(特に刑事さんたち)感情むきだしにされると、台詞の内容までもが凡庸に聞こえ、舞台がテレビの2時間ドラマのように、どこかで既にみたことのある風景に見えてくる。そうすると重厚な作りの舞台美術があだになり、作者が目指している「吐き気がするほど濃密な空気」が、あっけないほど薄まってしまうのだ。作者がどんな舞台をというより、なぜ舞台を作りたいのかという根本的なことが、自分はだんだんわからなくなるのだ。
 作者の誠実であること、一切の手抜きをしない熱意が初演以上に強く伝わってくるだけにいっそうもどかしく、この姿勢をもってすれば、もっと違う方向性の舞台を作ることが可能なのではないかと思うのである。

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真夏の會公演『エダニク』

2011-08-25 | 舞台

*横山拓也作・演出 公式サイトはこちら 王子小劇場 28日で終了
 作者の横山拓也は、本作において日本劇作家協会2010年新人戯曲賞の最優秀賞を受賞した。自分はブロンズ新社発行の「優秀新人戯曲集2010」を読み、屠場という特殊な職場を舞台に繰り広げられる騒動のなかに、職人のプライドや熱意、仕事を与える側と請け負う側の力関係が滲みでる様相にすっかり虜になった。何度読み返しても飽きない(因幡屋通信35号2010年5月発行に戯曲評掲載)。これが上演されたら、どれほどおもしろいものになるのだろうか。抑えても抑えても期待は膨らむばかり。東京公演の仮チラシをみたとき、「これで夢がかなう」と小躍りしたい気分になった。

 戯曲(ホン)から入った場合、とくに『エダニク』のようなピカ一の作品を先に読んでしまったときは、本番の上演に対して過度な期待を抱かないよう、よくよく気をつけなければならない。また戯曲を繰り返し読むうちに、自分のイメージが固まって「脳内劇場」が出来あがってしまうと、俳優の演技を台詞の言い方からテンポ、間の取り方にいたるまで脳内劇場との比較に終始して、舞台を楽しめないこともありうる。弾む心を抑えつつ、それでもわくわくと劇場に向かった。

 結論から言うと、あまりな表現になるが「舞台を先に見ておけばよかった」というのが正直な気持ちである。前述の新人戯曲賞の審査員マキノノゾミは本作を評して、「満点だ。これ以上何を望むというのかと思った」と激賞している。同感だ。しかし舞台をみにくる観客は、どうしても戯曲を読んだ以上の手ごたえを望むのである。初演と同じキャストの再演は、おそらく満を持してのものであろう。具体的にどの点が決定的に違うというものはなく、客席の反応も上々で、『エダニク』が優れた作品であることは間違いない。いまとなってはどうしようもないが、舞台を先にみていれば、自分のイメージに左右されずに目の前の舞台をもっと前のめりで楽しみ、そのあとで読む戯曲は、舞台の印象を反芻しながら思い出し笑い爆発になっただろうに。

 いや『エダニク』の良さは、読むだけで生き生きしたイメージが沸き起こってくるところにある。それを先に読んでしまったのなら、逆に本家本元の上演イメージに縛られず、劇場もキャストも自分の思いのまま、自由に動かす楽しみに発展させても構わないのではないか。

 今回の公演チラシに劇作家の北村想が「(本作は)構造としては原発の作業場と同相だ」と記している。また福島第一原発事故による放射能汚染で東北各地の肉牛に出荷制限が出たことで、食肉に関しての意識は戯曲を読んだ一年前に比べて大きく変わった。
 芝居をより楽しむには想像力が必要だ。『エダニク』はまだまだおもしろくなる、その可能性をもった作品であることをいよいよ強く確信した。同時に自分の感覚をもっと研ぎ澄まして想像力を鍛え、柔軟に戯曲を読み続けたいと思う。

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