*CAT企画 ベス・ヘンリー作 浦辺千鶴翻訳 小川絵梨子演出 公式サイトはこちら シアタートラム 19日まで 22日 やまと芸術文化ホール
この夏急逝した俳優の中嶋しゅうが企画し、ドク役で出演も予定していた舞台が、斎藤直樹にバトンが渡され、上演の運びとなった。演出の小川絵梨子はじめ、今回の座組は中嶋とゆかりの深かった俳優陣であり、突然の不在は予想だにしなかったであろう。さぞかし心細く、悲しみも深かったと想像するが、繰り広げられる舞台は70年代ミシシッピー州に住む三姉妹と周辺の人々による、けたたましくも、ところどころに人々の心の罪ならぬ心の傷痕を生々しく感じさせる物語である。
客席を三方向に設置し、正面と左右から挟んだところに演技エリアがある。家の中だけで進行するが、壁も窓もドアもなく、登場人物は正面、左右袖から客席の椅子ぎりぎりのスペースを通って登場する。舞台奥には大きな木が1本あり、その奥からも人物の出入りがある。室内の作りはごく日常的なつくりだ。あれこれ貼られた冷蔵庫、流し台、中央にダイニングテーブルと椅子、手前には祖父の介護をする長女のレニが寝起きするスペース、下手には2階に続く階段とバルコニーも。
舞台美術は、作り手がその作品をどう捉えているか、観客にどのように提示したいか、作り手の視点や切り口を表す重要なものである。今回の作品に対して、この舞台美術がどのような効果を上げていたか。
日常生活をリアルに見せるものであるから、演技エリアと客席の距離感が近いのは効果的だ…というのは、もしかするといささか単純な捉え方かもしれない。この戯曲に対する距離の取り方は、こちらが想像するよりむずかしいのではないだろうか。
加藤健一事務所が頑ななまでに(時おりそう感じることすらある)下北沢の本多劇場で、プロセニアム形式の上演を続けるのはなぜかということを考えた。別の劇場ならば、張り出し舞台や演技エリアを観客が四方から囲むなど、アレンジはいろいろあるにも関わらず、プロセニアム形式というものが依然として継承されているのは、やはり意味があり、必然があるためではないか。
客席近くで三姉妹の大騒動が繰り広げられているのだが、それが熱く激しく、深刻であればあるほど、かえって引いてしまったというのが正直な感覚である。これは翻訳の言葉なのか、演出なのか、それとも受け取るこちら側に原因があるのか。
『ロンリー・ハート』の題名で、三姉妹を佐藤オリエ、富沢亜古、熊谷真実が演じた舞台を見たのはほぼ30年前だが、その際も終盤の「おじいちゃんがこん睡状態に」で姉妹が笑いを堪えられないところはピンと来なかった。自分が同じような状況に置かれたら、と想像してみるがやはりだめだ。「どういうところがおかしいのでしょうか?」と聞くのは野暮なのだろうか。
不器用で融通の利かない長女レニ役の那須佐代子の緩急自在の右往左往ぶりは、巧みとか達者という枠に収まらず、かといって体当たりの熱演でもないところが、まさにこの俳優の魅力と実力である。所属劇団のイキウメを退団し、さまざまな舞台に活動の場を広げている伊勢佳世が演じたベイヴは、騒動の元となったにもかかわらず、この人の性格や行動の理由、心のありどころが最後までわからない。この役に限ったことではないが、「演じるたびにちがう顔になる」ものかもしれない。自分は今回のベイヴについて、まだ明確な印象が持てないのだが、別の舞台で伊勢佳世をみるとき、この観劇体験が大きく活かせると思う。奔放な次女のメグ役に美しく聡明で優しい妻、あるいは母のイメージが強い安田成美が配されたのは少し意外であり、その先入観を突き破るには、まだもう少し先があると思われる。
弁護士の岡本健一、ドク役の斎藤直樹。いずれも安定感のある配役だが、役じたいにしどころが足りないというのか、もう少し絡んできそうなところで去ってしまうのが残念であった。
しばらく疎遠だった家族が、何らかのきっかけで集まったが、長年蓄積した恨みつらみが噴出して大激論の大騒動に発展というのは、一種のパターンである。本音を言い合って最後は和解か決裂か結末はさまざまだが、「それでもやっぱり家族は家族」とまとめるのも惜しい気がして、この秋の大きな話題となった舞台をいまだに受けとめかねている。