因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋8月の観劇と句会

2017-07-29 | お知らせ

 予約済みをはじめ、「行きたいが行けないかもしれない」公演もいっしょに書き出しておきます・・・の予定だったが、あれま、出先からならわりあい近い劇場だったり、何とかなるかもしれませんぞ。

*劇団青年座『旗を高く掲げよ』
 劇団チョコレートケーキの古川健の書き下ろし。ごく普通のドイツ人の家庭がナチスへ傾倒していく。先日鑑賞した映画『ヒトラーへの285枚の葉書』に登場した夫婦とは正反対に変容していく家族の物語。
*多摩ニュータウン×演劇プロジェクト 瀬戸山美咲作・演出『たまたま』
 多摩ニュータウンで暮らす各世代の証言と、市民ワークショップをもとに「街」を描く舞台とのこと。近年瀬戸山美咲はワークショップを発展させた作品をいくつも発表しているが、自分はまだ観劇したことがないため、今回の作品は大変興味深い。
*劇団民藝稽古場公演『負傷者16人』
 2012年、新国立劇場での本邦初演を観劇したが、その印象の何と散漫で、歯切れの悪いことよ。今回は何かを掴みたい。
東京芸術座『父を騙す-72年目の遺言-』
 春のアトリエ公演『おんやりょう』の温かな手ごたえを持って、夏の本公演へ。
芝居屋風雷坊 第十一廻公演『しょうちゃんの一日』
  脚本は吉水恭子(1,2,3,4)。狭山事件をどう描くのか。
*MSPインディーズ・シェイクスピアキャラバン『新ハムレット』1
 今年も明治大学の現役生と卒業生の熱い夏がやってきた。
温泉ドラゴン『幸福な動物』
*studio salt×マグカル劇場「青少年のための芝居塾公演」椎名泉水作・演出『万!万!歳!』
 昨年夏の『7 2016ver.-僕らの7日目は、毎日やってくる-』に続いて、マグカル劇場の熱い夏になりそうだ。特設サイトはこちら1,2,3,4,5,6,6`,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20

 句会の予定と兼題は以下の通り。
*本部句会 「夏の果」「桐一葉」事前に連絡不要の句会は気楽な反面、「作れなかったんだなあ」とあとを引くことも。出席するぞの気合いがあれば。
*十六夜句会「赤まんま」「天の川」句会開始30分前に出される席題に楽しみと緊張あり。残念ながら、8月はお休みします。
*演劇人句会「佞武多」(ねぷた)「稲妻」
 「雷」は夏の季語で、「稲妻」は秋の季語なのですね。
*金星句会 「霧」「茗荷の花」
 自分ではあまり実感がないが、かなり早いペースでさまざまなことが吸収ができたのだと思う。これはひとえに主宰はじめ指南役のご指導、兄弟子、姉弟子の見守り、支えのおかげであり、感謝するほかない。ただ数年経つと、さすがにはじめのころのように楽しいばかりではない。
 句会の成績に一喜一憂すまいと思っても、振るわないときは落ち込むし、よければ浮き立つようで、選の多寡でこれほど気持ちが変わる自分に情けなくなるときも。知識や技術も多少身に着いたが、賢しらな知恵、小手先の小技もついてしまったかもしれない。句会は「句」だけを味わうのではなく、それを作った人と向き合うこと、わが身を晒すことでもある。生身の人間同士であるから、人に躓くこともある。「句を見て、人を見ない」という方法も確かにあるのだが、結社の方々は作句に精進することと、句友との交わりを自然に楽しんでおられる。見習うところがたくさんある。俳句は句会あってこそ。座の文芸。人に躓いたときは、俳句に戻ります。歳時記に親しみ、季語を味わいます。

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鵺的第十一回公演『奇想の前提』

2017-07-21 | 舞台

*高木登作 寺十吾(tumazuki no ishi)演出 公式サイトはこちら 中野/テアトルBONBON 30日まで(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14
 主宰の高木登が寺十吾に演出を委ねるのは 『昆虫系』『悪魔を汚せ』に続いて今回が3本めとなる。高木は当日リーフレットの挨拶文に「寺十吾というきわめて優秀な演出家がいることで、ここにこの作品を立ち上げることができました。(中略)彼がいなければこの作品が世に出ることはありませんでした」と、最大級の信頼と賛辞を記し、演出の寺十もそれに呼応するように「彼(高木)のように描きたいものと書けるものが一致させられる人は中々いない上にそれを使ってそれに携わる人々を観客も含めて確実に挑発し畏怖させられる人はもっといない」と公演チラシに言葉を寄せている。

 東京からはかなり離れているらしい土地に、直径二里にも足らない小島がある。管理人が一人住むだけで、ほとんど廃墟と化した島である。パノラマ島と呼ばれるその島を所有する一族の血と呪いの物語である。江戸川乱歩の小説世界を高木登流に再構成、再構築するのみならず、そこから新たな高木登独自の物語を立ち上げたのが今回の新作であると理解した。

 登場人物が客席に向かって人々の相関関係や、そこまでの話の流れなどを解説する趣向に加え、今回は音響効果、照明もたっぷり施されており、「かつてなく荒唐無稽で現実離れした作品になりました」と劇作家が記す通り、どうかすると呆然唖然としたまま、舞台に「飲まれて」しまいそうになる。

 それを救ったのは、これほどまでに呪われた一族にあってたった一人、打ちひしがれながら敢然と立ち向かおうとする人物の存在である。完全に狂った人、もはや諦念した人のなかで、良心と良識を貫くのは並大抵のことではない。ともすると悪に立ち向かう健気な善人という型にはまってしまうのだが、この人物ならときには毒を以て毒を制すこともありうると想像され(ラストシーン、人々のストップモーションのかたちから、そう思った)それならそれで大変なことなのだが、この一族のその後が知りたいという欲望が湧きはじめるのである。

  情を封印した女主人、完璧に従順に見えて、たいそうわけありの執事等々、「いかにもいそうな」人物がずらりと並び、うっかりすると「いかにもありそうな物語」に陥る危険性もある。しかし今夜の舞台は、まことに適切な配役と、それに応えんと全力で演じる俳優の演技によって、決してありきたりでない独自の世界を構築することに成功した。

 ただ非常に既視感の強い演技、凡庸と受け止められかねない造形もいくつかある。確かにその人の個性、持ち味が全面的に表出して、魅力的だ。劇の人物ぜんたいの構成やバランスを考えて劇作家がその人物を生み、「この人にこそ」と配役し、演出家が必要である、的確であると判断して、観客の目の前にその役を演じる俳優が存在するのであろう。だがその人が出演した過去の鵺的作品での造形、「こういった物語のなかに存在しそうな人」といった受け手の固定観念を覆してほしいと、欲が出るのである。

 人間の善なる心を嘲笑うかのような赤い渦巻と、善なる心を求め続けて、その上に描かれる×印の戦いが始まった。やはりこれはどうしても続きが知りたい。

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映画『ヒトラーへの285枚の葉書』

2017-07-20 | 映画

* ハンス・ファラダ原作『ベルリンに一人死す』 ヴァンサン・ペレーズ脚本・監督 公式サイトはこちら 独・仏・英製作 103分 新宿武蔵野館、ヒューマントラスト有楽町ほか全国順次公開 上映中の作品ですから、鑑賞のご予定のある方はご注意くださいね。
 ナチスドイツがフランスに勝利したニュースに沸き立つ1940年6月のベルリン。軍需工場で働くオットー(ブレンダン・グリーソン)と、ナチ党の国家社会主義女性同盟のメンバーであるアンナ(エマ・トンプソン)の質素な暮らしを、一人息子ハンス戦死の知らせが襲う。「あなたと戦争と総統のせいだ」アンナは知らせの手紙を破り捨て、夫婦のあいだに冷たい風が吹きはじめる。やがてオットーはペンを取り、字体を変えて「私の息子は殺された。あなたの息子も殺されるだろう」と葉書に記し、大通りのビルの階段にそっと置く。アンナも夫の意志を理解し、ともに行動をはじめる。
「(ヒトラーに)加担するな」「このカードを回せ」たった1枚の葉書に込めたナチス政権への異議申し立て、独裁者ヒトラーへの反逆であり、権力に服従する市民への警告、共感を求めるレジスタンスである。政治家でも知識人でもない、ごく普通の労働者階級の夫婦だけによるレジスタンスは2年あまり続き、葉書は200枚を超えた。

 ゲシュタポの記録文書を基に(つまり実話)書き上げた原作は、1947年に初版、2009年に英訳されたことで世界的なベストセラーになったとのこと。映画化を実現したペレーズ監督は、みずからも俳優であり、ドイツ人の父、スペイン人の母をもち、それぞれの家系に権力のために命を落とした祖先をもつ。当初はドイツ語での製作の予定であったが資金に苦しみ、紆余曲折を経て独仏英の合同製作となった。

 いささか戸惑う箇所は少なからずある。オットーとアンナ夫妻が、それまでナチスに対してどのような意識を持っていたのかは描かれていない。何かしらあったからこそ、息子の戦死の知らせに「あなたと戦争と総統のせいだ」というアンナの叫びになるのだろうから。また怒りと悲しみをぶつける手段として、まったく躊躇や試行錯誤のプロセスなくして葉書を書く行為がはじまること、いよいよ行為がゲシュタポの知るところになる大詰めにおいて、隠蔽や逃亡をまったく考えないかのような夫妻のありようなど、実はもの足りない思いもある。
 第一、邦題の「ヒトラーへの~」は、映画の内容からして適切ではない。

 しかし足がつかないように複数の電車を乗り継いで移動したり、追っ手を撒くために一芝居打ったりなど、徒党を組まず夫婦だけで見事な連繋プレーで捜査のプロをめくらます様相など、全編を静かな緊張が支配し、見る者の目を引きつけて離さない。さらに本作で重要なのは、ダニエル・ブリュールが演じたエッシャリヒ警部の複雑な内面だ。犯人を挙げようと躍起になるが、ナチス親衛隊から屈辱的な仕打ちを受け、虚しさに襲われる。回収した葉書は267枚。手にした市民が警察に提出したのである。しかし夫妻が配布したのは285枚だと言う。市民の手に渡ったのはわずか18枚だったのだ。地味すぎる抵抗運動。命がけの行為に、どれほどの効果があったのか。

 夫妻の葉書は、最後にエッシャリヒ警部にある行動を起こさせる。彼の行為には、それこそどんな効果があるかと考えるとやりきれない。しかしベルリンの町に舞い落ちる夥しい葉書に、ふと井上ひさしの『イーハトーボの劇列車』の終幕、この世から旅立つ人々を見送る車掌が「思い残し切符」を万感の思い込め、客席に向かって力いっぱい撒く場面を思い起こした。

 愚直なまでに葉書を書き続けた夫妻は、警部の最期を知らない。しかし敵対する相手の心を確実に変容させたのである。

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らまのだW受賞おめでとう公演『まど・みそ味の夜空と』

2017-07-13 | 舞台

*南出謙吾作 森田あや演出 公式サイトはこちら スペース梟門 16日まで(1,2,3,4
 第22回劇作家協会新人戯曲賞受賞した南出謙吾と、若手演出家コンクール2016優秀賞受賞した森田あやのコンビで『まど』『みそ味の夜空と』を2本立てで上演する。前者の『まど』は、配役を微妙に変えた「らまver.」と「のだver.」があり、2本上演のあと、「おまけ作品」として、『ひとりぶんの嘘』という10分くらいの超短編が、これも配役の異なる「らまver.」と「のだver.」あり。さらに今回は前半平日の3日間、21時開演のレイトショーがあり、仕事帰りの観劇も可能なプログラム。俳優はじめスタッフ、関わる方々はさぞ大変と察するが、ありがたい試みである。今夜観劇したのは「らまver.」であった。

 これでらまのだ公演5度めの観劇ということになり、劇作家南出謙吾と、演出家森田あや、常連の出演者が織りなす「らまのだ」カラーというか、舞台作りにおける特徴がだんだん掴めてきたところである。今夜の2.5本立ての舞台は、演劇でなければできないこと、演劇だからこそできること、演劇ならではの表現とはどういうことなのか、という問題を自分の心に提起するものとなった。

 演劇にはさまざまな制約があるが、それは同時により自由な表現を生む。時空間の自在な変容、登場人物の独白、この世の存在でないものとのやりとりなど、観客が「こんなことはあり得ない」と拒否反応を示すことなく、自然に受けとめられるのは、考えてみるととても不思議であり、だからこそ演劇は楽しいと思えるのである。

 1本めの『まど』は、不動産会社の営業としてバリバリ働く弟と、無職の兄、その恋人のはっきりしない三角関係の話である。弟が兄の彼女を…ということは、弟自身の独白によって示される。といって彼は「好き」「愛している」などの直接的な言葉を使わない。「兄公認の片思い」と言う。ここに弟の心象、人物像、ひいては劇作家の人柄までが密やかに感じられるのである。だが、独白という表現でなく、日常会話のままで弟の心象を伝えることができないだろうか。
 演劇ならではの表現を駆使できるところを敢えてそうせず、踏みとどまること。自分は無茶な要求をしているのかもしれないが、どうしても欲が出るのである。

 3本めの『ひとりぶんの嘘』は、短いながら含むところの多い作品だ。目の前で男と女が交わすやりとりが、場所も時間もすべて男の心の中でのことと思われ、ならば現実の彼はどこでどうしているのかを考えると、やりきれなくなるほどの寂寥感に襲われる。ここでも彼女が現実の存在ではないことが男の台詞でさらっと示されただけで十分で、彼女の台詞「何でもわかるんだよ。●●には」や、あの仕草は必要だろうか。また、決め台詞や明確な到達点が欲しいわけではないのだが、終わり方にもあとひと息、何かが欲しい。この世の人とあちらに行った人の二人芝居の傑作は井上ひさしの『父と暮らせば』であるが、南出の本作には、ひょっとすると井上先生をある面で凌ぐ魅力があるように思われるのである。

 南出謙吾のテンポよく、嚙み合わない台詞は絶品の域に達しつつあり、それを立体化する森田あやの演出、両者に応える俳優と、らまのだの舞台は公演を重ねるごとに充実度が高まっている。それに比例して、見る者の期待度も高まり、つい「もっと」と願ってしまうのだ。公演期間中の舞台ゆえ、歯切れの悪い表現多々あり、それがもどかしくも、やはり嬉しい一夜を過ごしている。

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戯曲『ハンナとハンナ』リーディング上演と難民をめぐるディスカッション

2017-07-11 | 舞台

*ジョン・レタラック作 中山夏織翻訳 田中萌観訳詞 鈴木アツト演出(劇団印象 1,2,3,4 5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22) 公式サイトはこちら 政策研究大学院大学 想海塿ホール 11日のみ

 制作は国際演劇協会日本センター、制作協力にNPO法人シアタープランニングネットワーク、国立大学法人政策研究大学院大学の共催で行われた一夜のリーディングとディスカッションである。舞台下手のスクリーンには英語の字幕が映され、ディスカッションには日英の通訳が置かれる。「できるかぎり言語の障壁をなくして国際的な議論・交流を行う」(チラシより)試みだ。客席にはジンバブエやコートダジュールなどの大使も来場し、その一方で出演者のつながりであろうか、若い観客も多い。

 1999年、ハンナという名の16歳の少女がイギリスの港町・マーゲイトへ母、兄とともにコソボから命からがら逃れてくる。町で出会った同じハンナの名を持つ少女は、外国人避難民のハンナを露骨に嫌悪するが、ある事件がきっかけで二人は急接近する。やがてハンナがコソボに帰国する日が訪れるが…。

 舞台には椅子が2脚あるだけで、オーディションで選ばれたコソボのハンナ(𠮷岡花絵)とイギリスのハンナ(木村飛鳥)は椅子に掛けて台本を読む基本的なリーディングの形を取る(アンダースタディとして瀧澤幸奈)。初対面でイギリス人ハンナが投げかける言葉や振る舞いは激烈である。難民を嫌悪し、排斥する社会の空気が、少年や少女たちにまで及んでいることがきれいごとでなく描かれている。コソボのハンナは傷つきながらも冷静で、相当なところまで食い下がる。ここで「可哀そうな避難民VS冷たく理解のないイギリス人」の構図は次第に影を潜めはじめる。イギリス人側が圧倒的な強者のようでいてそうではない。彼らもまた家族や友人のなかで意見の相違があり、失業者の多い世相にあって、葛藤と苦悩があることが示唆されるのである。

 異なる国で生まれ育った二人が最初は反発しながらも仲良くなる物語…と漠然と想像していたが、最初の二人のやりとりの緊迫感に、外国人難民問題がいかに困難なものであるかが只事ではない現実味をもって迫ってくる。

 オーディションで選ばれた二人が大変魅力的である。イギリス人ハンナ役の木村飛鳥は1996年生まれ。ドイツ人の父と日本人の母を持つ。両親ともに声楽家で、兄が主宰する劇団はじめ、他劇団の公演にも参加している。コソボ避難民ハンナ役の𠮷岡花絵は2001年生まれ。児童劇団でミュージカルに出演し、劇団四季の『ドリーミング』や、丸美屋ミュージカル『アニー』で主役を演じた。

 本作は劇中で歌われる歌が重要な役割を果たす。はじめのうちハンナはそれぞれ一人で歌う。物語が進むにつれて、互いの好きな歌を聞き、覚え、いっしょに歌いはじめる。木村は貫禄といってもよいくらいの堂々たる立ち姿で、声量も豊かだ。客席の空気をあっという間に自分のものにしてしまう。対するコソボ避難民ハンナは、生真面目なほど丁寧に歌いぶりで声も美しい。

  二人は自分の役だけでなく、祖母や母、兄や恋人も演じる。イギリス人ハンナの祖母は、柔軟な思考を持ち、恐れることなく自分の主張を貫く。コソボ避難民ハンナの母は祖国では医師をしており、娘に起こったことを冷静に受けとめ、すべてを包み込む。一方で、外国人のみながらず、パートナーをも暴力的に支配しようとする恋人は、紛争の地で敵方の女性を凌辱する兵士に通ずる。

 後半のディスカッションは聞かずに退出したが、国際演劇協会日本センターは、今夜のイベントを基に、日本の中高生の学習素材の提供などの活動を展開し、9月初旬には特設ウェブサイトにおいて、本作を公開予定とのこと。
 昨年12月に観劇した「紛争地からの演劇8『ジハード』」のリーディング公演を思い出す。今夜の『ハンナとハンナ』も、次なる上演の場が生まれ、共有の輪が広がっていくことを願っている。

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