因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

2013年因幡屋演劇賞

2013-12-26 | お知らせ

 2013年の因幡屋演劇賞を以下のとおり発表いたします。
*小西耕一作・構成・出演 小西耕一ひとり芝居『既成事実』『破滅志向』
*green flowers 内藤裕子作・演出『かっぽれ!~春~』『かっぽれ!~夏~』
*劇団フライングステージ 関根信一作・演出『OUR TOWN わが町 新宿二丁目』

 先日劇評サイトwonderlandに掲載されました「振り返る私の2013年」と基本的に同じですが、小西耕一ひとり芝居と『かっぽれ!』は、今年上演された2本を連作として挙げさせていただきました。みなさま、おめでとうございます。といいますか、ありがとうございました。

 じつは俳優さんから男性女性おひとりずつの<俳優部門>も考えたのです。男性はiaku vol.4『目頭を押さえた』に中谷家の長男一平を演じた野村脩貴くん(ブログ記事では一平くんのことには触れておりません。ごめんなさい)、今年最後にみたシーラッハ作品朗読の橋爪功さん、女性は鵺的公演『この世の楽園』(高木登作・演出)に出演のとみやまあゆみさんが即座に思い浮かびました。
 しかし作品(戯曲や小説)があり、翻訳や演出、すべての共演者、スタッフがあっての舞台であり、演者おひとりだけを特化することにためらいがありましたので、やはり上記の3つといたします。

 グリフラの『かっぽれ!~夏~』を観劇した知り合いが、「あの舞台は誰も傷つけないね」と言いました。落語の修業は厳しく、先のみえない不安定なものです。好きなことで暮らしが成り立つところに到達するには、ことばにしつくせないほどの苦労がある。『かっぽれ!』の登場人物のなかには、後輩に先を越された人、道半ばで諦めた人、好きな道に進めなかった人もいて、決して単純な人情喜劇、予定調和的な世界ではありません。
 『かっぽれ!』の舞台にあふれる笑いには、ひとを小馬鹿にしたりあざ笑ったりするたぐいのものはありません。けれど人々は、現実のわたしたちと同じように、あるいはそれ以上に劣等感に耐え、軽んじられ、絶望することもあるはず。
 『かっぽれ!』の人々が、自分のかわりに傷ついてくれているのではないか。ふとそんな気持ちになるのです。だからみているわたしたちは傷つかずに済む。その痛みが優しく温かな笑いとなって劇場を満たす。『かっぽれ!』の幸福感はまさにそれです。

 今年出会ったすべての舞台、かかわった方々、因幡屋通信を読んでくださった方々、ぶろぐやツイッターにお運びくださった方々にありがとうございますとお疲れさまを贈ります。
 そして来年もどうかよろしくお願いいたします。

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橋爪功×シーラッハ『犯罪|罪悪』

2013-12-25 | 舞台

*フェルナンド・フォン・シーラッハ作 酒寄進一翻訳 森新太郎演出(1,1',2,3,3',4,5,5',6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18) 公式サイトはこちら 東京芸術劇場シアターウェスト 25日で終了
 ドイツの刑事事件担当弁護士として活躍するシーラッハの処女作『犯罪』より「フェーナー氏」、「チェロ」、「ハリネズミ」と、第二作 『罪悪』より「ふるさと祭り」「イルミナティ」、「雪」を、橋爪功が朗読する。
 千秋楽の日、を観劇した。
 ステージが客席に張り出し、下手奥に大きな書棚、中央にはどっしりした机と椅子、上手にはコート掛けがあり、いかにも弁護士のオフィ スといった雰囲気だ。上にはなぜかガラスのはまっていない窓がある。橋爪功はスーツにコートをひっかけ、帽子をかぶったスタイルで登場し、事件の書類を読みあげる弁護士といった風情で3つの物語を語る。
★「ふるさと祭り」
 小さな町が六百年祭を祝っていた8月の暑い日。地元のブラスバンドが音楽を演奏している。きちんとした仕事についている、きちんとした男たちが少女にしたこととは。
★「イルミナティ」
 ある寄宿学校で、誰からも一顧だにされない少年ヘンリーが体験したこととは。
★「雪」
 ごめんなさい、ここに書けるほどの記憶がありません。楽しめなかったわけではなくて、なぜなのでしょうね。

 橋爪の語りで印象に残っているのは、2003年放送のNHK大河ドラマ『武蔵』である。声の高さや強さなどが、いわゆる時代劇の語りとはちがうなと感じたためだ。視聴者に近い立ち位置というのだろうか。あまり勿体をつけず軽やかで親しみやすい。重厚な作品、重苦しい内容であってもわりあいさらりと聞こえるのだ。
 本作は弁護人の主観を中心に書かれてはいるが、決して彼の視点が強烈に示されているわけではなく、登場するさまざまな人々の過去や背景、人々のとった行動、心のなかで考えたことなどが淡々と描かれている。
 俳優が戯曲の人物を演じるときに感情をこめること、(好きな表現ではないが)人物になりきることとは、ちがう方向性が要求されるのではないか。

  戯曲の朗読ではなく、短編小説の朗読。それも今回の作品は地の文の量がたいへん多い。台詞のやりとりならわりあい入りやすいのだが、物語の背景や事件のきっかけなどの部分は、耳で聞きながら情報を頭で理解するのに存外エネルギーを要し、物語をしっかり理解していたかどうか、疑わし いところもある。

 今回の3作品はいずれも陰惨極まりない内容である。ぎょっとするような猟奇的な場面もあり、人間の醜い部分の描写や、残虐行為も少なくない。これらのことこまかな描写を文字で読んだとしたら、あるいは映像でみたとしたら、おそらく読み進むことをためらったり目を背けたりしたくなるだろう。
 しかし橋爪は淡々と読みながら、こちらをいよいよ引きつけるのである。弁護士が事件調書を読み上げるかたちではあるが、彼は一度も自分が弁護士とは名乗らず、「弁護士を演じている」ことが強調されてもいない。客席への目の向け方やタイミング、からだの置き方も実に柔軟で、聞いているこちらをリラックスさせれくれる。ひとことで言えば自然体ということだろうが、これはかんたんなようでむずかしいことではなかろうか。

 翻訳者、演出家、そして演者の作品に対する戦略、たくらみがや試行錯誤が、文学の朗読でも戯曲のリーディングでもない、俳優の名演技を強調する語りものでもない、独自の劇世界を構築することに成功したのだ。ほかではみられない、まさに作品とつくり手の出会いがもたらした稀有な舞台である。

 カーテンコールで橋爪氏が「この5日間で6つの作品を読みました。いろいろな人物の気持ちというか、・・・(もう忘れてしまった)を考えながら読めてとてもよかったです」ということを語っておられ、ああ豊かな体験をされたのだなと嬉しくなった。

 公演の公式サイトには橋爪氏本人からのメッセージがあり、「今回の朗読は初の自主企画です。劇場費もさっさと振り込んでしまい、もう引くに引けないのです」と書かれている。
 制作の事情がわからぬ者には自主公演の意味するところ、劇団の公演やNODA・MAPなどの公演とどこがどのようにちがうのかがいまひとつぴんとこないのだが、要するに橋爪さんが自分のお金で運営し、全責任を負う公演ということだろうか。赤字がでれば自分で補わねばならず、そのぶん「どうしてもやりたい」という気持ちが強くあるのだろう。
 橋爪さん自身は毎年やりたいのだが、「制作さんからこの時期はヤメテって言われてまして」と苦笑い。観客としてはぜひ年末の定番になることを祈っている。
 年の最後をどんな舞台でしめくくるかは大問題なのだ。今回の舞台はその課題をクリアし、清々しい心持ちで帰路につかせてくれるものであった。
 年の瀬に観客の心をかっさらってゆくとは、橋爪さんもずるいというか、まことに憎いお人である。

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因幡屋の俳句日記/ご報告を兼ねて

2013-12-24 | 俳句

 しばらくおやすみしていた俳句日記(1,2,3)ですが、ひとつご報告があります。
 当方12月16日付にて、俳句結社「銀漢」に入会いたしました。3月に「銀漢」の初学者向け勉強会の金星句会を見学させていただき、それから月1回の句会に参加するようになりました。金星句会ははじまった当初こそ初学者向けだったそうなのですが、それから数年のあいだに参加される皆さんがめきめき上達され、自分が伺ったときには初学者の域をとうに脱していたという・・・つまり非常にレベルの高い句会に素人同然で飛びこんだことになり、いまとなっては冷や汗ものであります。
 しかし指南役、世話役の方はじめ皆さんに快く受け入れていただき、結社に入会することを決めました。このような日が訪れるとは夢にも思わず、それも自分の努力ではなく、手を引いて連れてきてくださった方、背中を押してくださった方の存在があることに気づきます。
 このところすっかりご無沙汰してしまっておりますが、木挽町句会の皆さまにも感謝しております。ほんとうにありがとうございます。

 作家の向田邦子が直木賞受賞式でのスピーチで、「五十を過ぎて新しい分野のスタートラインに立てるとは、、何と心弾むことでしょうか」と語っています。数年まえに大病を患ったとき、もうこれから先、面白いことは起きない、このへんで止まりだと思っていたところに「わが人生で一番面白いことが起こった。それが小説の道であり、直木賞であったということです。
 この記事を読んだとき、自分はまだ二十歳まえで、「そんなものかしらん」と思っていましたが、当時の向田さんと同じくらいの年まわりになったいま、俳句をはじめられることがほんとうに嬉しく、心弾む思いです。予想もしませんでした。まさかこんなことがわが身に起こるとは。
 むろん同じなのは年齢だけ。自分はまさに俳句の初学者ですから、銀漢の伊藤伊那男主宰から「3年は雑巾がけですよ」と言われたとおり、いちばんの下働きからはじめることになります。あきっぽい自分がどこまで続けらるか、みなさんの足を引っ張ることはないか(いや、すでにそうとう引っ張っている)等々心配はありますが、それでもよい俳句を詠みたい、いろいろなことをもっと知りたいという気持ちのほうが強いのです。

 さあ来年1月の金星句会用に5句、11月に発足した「俳句をつくる演劇人の会」に5句、そして俳誌「銀漢」提出用に7句の投句が控えています。そろそろ準備を、というより日々作句を意識していないと追いつきません。
 「さあつくるぞ」と意気込んでも無理なわけでして、肩の力を抜いて俳句の世界に素直に心を委ね、それが観劇と批評にもよい効果を生むことを願うものであります。おっとこれは欲張りすぎですね(苦笑)。

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水谷八重子 presents 朗読新派『大つごもり』

2013-12-14 | 舞台

*樋口一葉原作 久保田万太郎脚色 島田雅彦現代語訳 成瀬(ブログの新派観劇記録はこちら→1,2,3)芳一演出・補綴 公式サイトはこちら 麻布区民センター区民ホール 13,14日のみ
 公式サイトにあるように、本公演は水谷八重子の自主公演で、今年で11回めを迎えるとのことだ。まさに年の瀬の『大つごもり』、年のしめくくりにずっと通っておられる方もあるだろう。今回たまたま「文学座通信」の外部出演欄に、新橋耐子の名前があり、すぐに予約を入れた。
 はじめて行く麻布区民センターは、六本木駅周辺の喧騒が嘘のように静かな一画にあり、建物は多少古いものの、地下のホールへのほどよい照明や、ゆったりしたロビー、客席の椅子のぐあいも心地よく、朗読や語りものに適したホールではないだろうか。

 因幡屋と『大つごもり』のこれまではこちらをどうぞ。
 とても大切な作品です。

 さて今夜の朗読新派だが、チラシには「今年の『大つごもり』は凄いことになった!」と水谷八重子のメッセージが大きく記されている。ちょうど新派公演の新橋演舞場『三婆』とぶつかってしまい、出演できない新派人に替わって、俳優座の岩崎加根子、文学座の新橋耐子という新劇界の超ベテラン女優と新派による『大つごもり』となることを指す。
 たしかに商業演劇でもこれほどの顔合わせは珍しい。
 気になったのは「島田雅彦の現代語訳」である。台詞が現代調になるのか。岩崎加根子の役名が「明治の詠み人」、俳優座の若手女優森根三和が「現代の詠み人」となっている。
 さらにステージには『大つごもり』の舞台装置がどっしりとつくられており、「朗読新派」とはいったいどういう舞台なのだろうか。

 心配することはなかった。というより「朗読」のひとことに、つい朗読劇やリーディング公演を想像tした自分の勇み足である。和服を着た岩崎の明治の詠み人は手に台本を持ち、『大つごもり』の地の文を、明治の文体そのままで読むのである。しばらく読んだのち、「明治のことばはむずかしゅうございますね」と客席に呼びかけ、森根による現代の詠み人が登場、ワンピースを着た森根が、島田雅彦が現代訳した地の文を読む。
 明治と現代の文体による地の文がかわるがわる読みつがれながら、かつらも衣装もつけた本式の舞台『大つごもり』が展開するという趣向なのだった。新橋は山村家のおかみ役だ。

 そうか、こういう方法もあったのか!
 ふたつの文体の構成は、岩崎が明治版がまず読み、つづいて同じ箇所を現代版の森根が読んだり、おみねの心象の部分を現代っ子(このことば古いですね)の口調で読んだりする。
 舞台で物語が進行しているとき詠み人たりは袖にはけており、場面が暗転したとき再び登場し、上手と下手に置かれた椅子に座って読む。舞台中央に進みでるときもあって、いろいろと工夫が凝らされており、不自然な感じはしなかった。

 自分にとって嬉しかったのは、『大つごもり』の地の文が岩崎によってじゅうぶんに語られ、とくに最後の「後の事(のちのこと)知りたや」をきちんと聞けたことである。
 何と深い余韻のあることばであろうか。山村家の放蕩息子石之助の機転と、もしかしたら優しさによって、おみねに盗みの疑いがかかることはなくなった。しかしおみねや伯父一家の貧しい暮らしにとってはほんの一時しのぎにすぎない。ひたすら耐えて働く日々はずっとつづくのである。
 けれどそれだけではない、一筋の希望があることを「後の事知りたや」が控えめに示している。悲しみに満ちた人々の物語だが、ぬくもりもまた与えてくれるのだ。

 

 ところがカーテンコールにまさかの演出がつけられていて唖然とした。なぜこのようなことをするのだろうか。はっきり言ってぶちこわしである。
 カーテンコールというのは大事なのだぞ。舞台の一部でもあると同時に、「もうひとつの舞台」の役割を果たすこともある。舞台じたいもよかった、それをカーテンコールがさらに素敵な締めくくり方で、いっそう印象が強く残る・・・ということもあるのだ。思いだすのも腹立たしいので詳細は書かない。もうこの部分のことは忘れよう。自分がみたのは『大つごもり』なのだ。

 ついでながら予約の電話のさい、担当の方は名字だけでなく、名前の漢字まで丁寧に聞いて書き取って(たぶん)おられた。ところが同道の友人のチケットは用意されておらず、自分も名前だけ封筒に書かれていた。いったい何のために名前の漢字まで説明したのか。
 ふたりとも無事に観劇できたのであるし、些細なことで心を乱すことはないのだが、観劇前の高揚感が軽く削がれることはまちがいない。どうかよろしくお願いいたします。

 友人ともに深く満足し、喜ばしい気持ちで劇場をあとにした。「文学座通信」を読まなければ出会えなかった。幸運に感謝である。

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iaku vol.4『目頭を押さえた』

2013-12-13 | 舞台

*横山拓也作(1,2,3,4,5) 上田一軒演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 15日まで
 横山作品との出会いは、第15回劇作家協会新人戯曲賞に選ばれた『エダニク』を「読んだ」ことである。一気読みしてそれから何度読んでも飽きない。実は自分は戯曲を「読む」ことがあまり得意ではない。舞台で展開することを文字で追うこと、目で読みながら人物を立ち上げたり動かしたりということは、いまだに骨が折れる作業なのである。一度でも舞台をみたことがあればすいすい読めるわけで、戯曲を戯曲として読むのは大切なことなのだが、この体たらくである。
 それなのに読むだけで、読むほどにこれほどぐいぐいと引き込まれる戯曲に出会えることは珍しく、これが実際の上演だったらどんなにおもしろいだろうかと想像するだけでうきうきした。
 早くみたい、どうしてもみたい!
 実現したのは2011年の夏である。ずっと願っていた夢がかなったのだが、舞台からの手ごたえは非常に残念ながらいまひとつであった。戯曲に入れ込み過ぎて、自分の脳内で物語を動かしたほうが楽しくなっていたのかもしれない。先に戯曲を読んだことの長短を思い知った。
 その後の横山作品に対しても、どこかスカッとできず、従って今回の『目頭を~』の予約もぎりぎりまで迷うこととなった。

 見逃したら大変な後悔をするところだった。
 1時間45分をほどよい緊張を保ったまま客席で自然に過ごすことができたのだ。決して明るく楽しい話ではないのに、この心地よさはどこからくるのか。できればそれを詳細に書き記したいのだが、何かひとこと書くとこれからご覧になる方々の妨げになるように思えて迷っている。
 何しろこの風変わりな題名である。そこにどんな意味があるかを説明してしまってよいのだろうか。いやだめだ、それだけはぜったいに。

 舞台の何をどのように書けばよいのか、どの程度ならよいのかずっと考えていて、これは悩ましくはあるが、それほど手ごたえのある演劇体験ができたという幸福の証左でもある。

 登場人物は決して多くはないものの、父親の仕事が絡んだ若干複雑な親戚関係であったり、舞台となった村落独特の風習や人々の気質などがそこにかかわってくるので、何気ない会話、台詞のほんのひとことに重要なことが示されていることが少なくない。しかしながらそれらすべてを会話によって、それも説明台詞ではなく、ごく日常的なやりとりのなかで描いていることは瞠目に値する。最初のうちこそ「ちょっややこしいな」と思うけれども、いつのまにか人々の関係やここに来るまでの背景などがちゃんと頭に入っているのである。
 頭で理解し、心で感じとる。この動きが自然にできてしまうこと、客席にいて疲れない、眠気にも襲われず集中し、かといって過度の緊張による消耗もないのは、いったいなぜだろう。
 横山拓也の戯曲、上田一軒の演出いずれも特殊なものは感じられない。非常に堅実な作風であり、丹念に読みこんでじっくりと立体化された舞台だ。自然な会話だが、テンポや間などを自然にみせる聞かせるためにはそうとうに念入りな稽古が必要だったはずだ。

 当日リーフレットには、今日13日が第20回OMS戯曲賞の選考会であり、本作『目頭を押さえた』がノミネートされた横山氏はこの日だけ大阪に戻るという。あくる日以降「どんな顔をしているかは分かりませんが(中略)、結果に応じた表情で返すつもりです」と記されている。
 さきほどネットの情報によれば、戯曲賞大賞は中村賢司の『追伸』に決定した由、横山氏には残念であった。しかし師走のアゴラ劇場でみた今日の舞台のことはずっと心に残るだろう。 すでに決めたつもりの劇評サイトwonderlandの年末回顧2013年の3本が揺らぎかねないほどなのだから。
 戯曲読みからはじまった横山拓也作品とのかかわりが、『目頭を押さえた』でやっと明確な一歩を踏み出せた。自分にとって本作は、因幡屋版の横山拓也大賞なのである。

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