因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

国立劇場四月歌舞伎公演『絵本合法衢』

2012-04-11 | インポート

 四世鶴屋南北作 奈河彰輔監修 国立劇場文芸課捕綴 公式サイトはこちら 国立劇場大劇場 23日まで
 全日程12時30分のスケジュールに驚いたが、数回の休憩をはさみながらも3時間15分たっぷりの通し狂言、昼夜2回の上演はむずかしいと納得した。昨年3月の公演が震災で中止になり、みることができなかった。1年後の桜の季節に上演が決まって、ほんとうに嬉しい。

 十五代目片岡仁左衛門が悪党二役を演じる爛熟期の江戸歌舞伎である。仁左衛門丈はほぼ出ずっぱり、松嶋屋一門はじめ、関わる方々が総力を結集している熱意が伝わる。

 はじめてみる狂言なので、イヤホンガイドを使った。幕間には片岡仁左衛門丈のインタヴューがあり、これが大変おもしろかった。本公演は国立劇場開場四十五周年の記念企画の掉尾を飾る演目なのだが、1966年(昭和41年)に開場したときの第一声が、『菅原伝授手習鑑』の仁左衛門丈(当時孝夫)による斎世(ときよ)の台詞であったとのことだ。

 本作への意欲、被災地への思いを語るなかで、心に残るひとことがあった。 
 歌舞伎は江戸時代から続く舞台芸術である。先祖代々がさまざまな苦労を重ねてきた宝を、自分たちの代で途絶えさせてしまっては申しわけない。演じるときは、自分の先祖がどんな気持ちで舞台をつとめていたのかを考えている。そして、「お客さまもご自分のご先祖がご覧になっていたことを想像しながら楽しんでいただきたい」と。
 はっとした。そうだ、自分がいまみている歌舞伎の舞台は、自分の祖父母、曾祖父母もまたみていたのだ。
 歌舞伎をみるようになってから、家族や親戚はじめ年配の方々との話題が一気に広がったのである。どの役者が好き、何の演目なら必ずといった芝居談義が溢れるようであった。忘れがたい役者のほとんどが当代よりも先代であって、既に鬼籍に入っていることなど(苦笑)、多少ぎくしゃくするところもあるが、芝居といえば歌舞伎であり、日々の生活の中で確かな場を占めていたことは心に覚えておきたい。
 会ったことのない先祖と同じ劇世界を、違う役者でみている。歌舞伎は昔もいまも生きていて、変わりつづけていくのだ。

コメント

文学座12月アトリエの会『MEMORIES』

2011-12-09 | インポート

*テネシー・ウィリアムズ生誕100年記念 一幕劇一挙上演 公式サイトはこちら 信濃町・文学座アトリエ 17日まで
『財産没収』訳=倉橋健 下宿の看板娘だった姉のあとを継いだという少女と凧揚げにきた少年の会話。
『話してくれ、雨のように・・・』訳=鳴海四郎 行き場のない男女がアパートの一室で妄想を繰り返す。
『バーサよりよろしく』訳=鳴海四郎 心身を病む中年娼婦バーサが助けを求める相手とは?
『ロング・グッドバイ』訳=倉橋健 売れない小説家が長年暮らしたアパートを立ち退く日、去来する家族の思い出。
 演出はすべて靍田俊哉。

 テネシー・ウィリアムズの1幕劇をみるのはこれがはじめてだ。今回は必ずしも執筆順ではなく、作品を読み込み、惚れこんだ演出家が4つの短編がループするように舞台美術などにも趣向を凝らした舞台である。

 4つの作品を休憩なしの転換のみで一気にみせる2時間弱の上演だ。具体的にどの場面がどのように・・・ということがうまく書けないのだが、残念ながら集中できなかった。 

 テネシー・ウィリアムズは昨年秋新国立劇場公演『やけたトタン屋根の上の猫』において、舞台をみて疲労困憊したが、戯曲を読んで元気がでてくるという奇妙な体験をした。
 それほど極端ではないにしろ、今回もやはり戯曲にもどり、短い芝居の数々に劇作家が込めた思いを聴きとることからやり直したい。 

 本日は終演後にトークショーがあり、メインゲストの小田島恒志氏が、テネシー・ウィリアムズの作品に縁の深い俳優の江守徹、寺田路恵、今回の演出家の靍田俊哉各氏に話を聞く進行役を務めるという形式であった。お芝居のあとに話をするというのは、なかなかむずかしいものですね。メインゲストの方が司会役をすることがトークを活性化したり、わかりやすくまとめることに結びつけばいいのだが、今回は小田島さんの問いかけに対して登壇者(とくに江守さん・・・)のリアクションがいまひとつはっきりしない印象があった。また小田島さんが指摘されていた、「女性が男性に対して敬語を使う感覚」などについては、まだまだお話を聞きたかった。

 もっとテネシー・ウィリアムズの戯曲を読みたい!という意欲を掻き立てられるきっかけを与えられたことは確かである。やりきれないような寂寥感のなかに詩情あふれる美しい物語を書いた劇作家の心をもっと知りたいのである。

コメント

劇団D.K HOLLY WOOD『The Joker 』

2011-06-29 | インポート

*越川大介 作・演出 公式サイトはこちら シアターサンモール 7月3日まで
 もと「ちびっこギャング」の越川大介が主宰する劇団で、今回が初見である。自らを「B級小劇団」と称し、目指すは「スタイリッシュ・サスペンス・ミステリー・コメディ」とのこと。
 嵐の夜、山奥の別荘である企業の新社長に就任したばかりの男性が殺され、彼が過去に関わった女たち、複雑な立場にある社員たち、まだ19歳の新妻まですべてが疑わしい。地元県警や警視庁の刑事たちはどうも頼りなく、果たして真犯人は逮捕できるのか。

 作・演出が出演も兼ねる場合、出番が少なめのことが珍しくないが、越川大介は警視庁日暮刑事としてバリバリ出演もこなす。11人の登場人物の配役、造形は、俳優の個性を的確に表現するものであり、俳優も自分の持ち場をきちんと理解して力を尽くしていることがわかる。「3秒に1度襲い来る笑い」というキャッチフレーズは、「個人差あり」とことわってあるがあながち誇張ではなく、台詞のひとこと、動作のひとつにこれでもかというくらい入念に笑いが仕込まれている。自分は山梨県警の小嶋刑事の一挙手一投足にさんざん笑わせていただいた。ほんとうに使えない刑事。よくぞここまで・・・!
 上演は休憩なしの2時間15分くらいであったろうか。客席の反応もよく、企業の協賛によるドリンクのサービスや食事券のプレゼントなど興業的な盛り上げ方も手なれた印象で、初日の手ごたえはじゅうぶん、上々のすべりだしとみた。

 先日ある舞台に対して、「こういうお芝居をやりたいんだったら、どうぞ。私はみないけど」と一撃している短評を読み、「酷いいい回しになって、ほんとに申しわけない」とことわってはあるものの、「そういう言い方はあんまりではないか」と関係者でもないのに頭に血が昇りそうになった。少し時間をおいて読み返してみると、ここまできつい表現に至る批評の視点が理解できた。
 今回の『The Joker 』は、もしかするとある方面から同じような評価をされかねないのではないかと、若干取り越し苦労的な危惧を抱くのである。

 劇団のキャリアは長く、新人、中堅、ベテランも含めて舞台に安定感があり、すでに少なからぬ固定客や熱烈なファンがしっかりと劇団を支えている印象をもった。客層の需要に対して的確な供給がなされていればその舞台は成立するが、数はもちろん、質においても新しい観客を呼び入れようとする場合、前述のような痛烈批判に晒される可能性も覚悟しなければならないだろう。
 演劇に何を求めるかは、作り手受け手ともにそれぞれ違いがあって、何が正しい、どちらが適切と解答の得られるものではない。
 ならばそれぞれ自分の好きなところで、自分の好みに合うものだけを楽しんでいればいいのだろうか。作り手も受けても含めてその人の能力には限りがあり、適性を変えたり向上させるのは、努力ではいかんともしがたい面がある。
 
 自分の好みや能力や適性をわかった上で、少しハードルを高くする、あるいはハードルの種類を変えてみるのも一興である。作り手は少なからず傷つくであろうし、受け手は激しく消耗するかもしれない。そこでやめるか、もう一度挑戦するか。少々重い課題である。

コメント

因幡屋4月のなにか

2011-04-01 | インポート

 新しい月がはじまった。新聞紙面やテレビ番組、メールマガジンなどさまざまなものが、それぞれに被災地に対する痛みや今後の生活への不安を持ちつづけながらも、少しずつこれまでのペースを取りもどしはじめた。震災以後いつにも増して読んだのが谷賢一さんのPlay note.netと、劇団キャラメルボックスのプロデューサー加藤昌史さんのCaramel BOX★加藤の今日である。前者の3月24日の「今はもう、上演こそ誠実」のなかの「ビビってる時間は終わった。」のひと言には、「しっかりしようぜ」と軽くどつかれたようで清々しく、後者からは何があっても舞台を客席に届けようとする強靭なフットワークと観客への行き届いた配慮に溢れるプロ魂に励まされた。
 そう、ビビってる時間は終わったのだ。みるぞ芝居を。

*シス・カンパニー公演 『トップ・ガールズ』
 昨年からこの作品とのご縁が続いている。劇団フライングステージの『トップ・ボーイズ』、ミズキ事務所の『トップガールズ』
*演劇ユニットてがみ座 第4回公演 『線のほとりに舞う花を』(1)
*新国立劇場小劇場公演 『ゴドーを待ちながら』
*Oi-SCALE+Hi-SPECS 『同じ場所なのに、静かな時間』
時間堂 『廃墟』 シアターKASSAI提携公演
味わい堂々 隠し味公演 『毒見』 シンクロ少女の名嘉友美(1)の作品を岸野聡子が演出する。
KAKUTA 「朗読の夜」#6 『グラデーションの夜』 群青、黒、桃と3つのいろのプログラムで3週間連続公演。(1,2,3)
売込隊ビーム 充電前最終公演と銘打って『俺のカ―・オブ・ザ・イヤ―』(1)

 震災以後公演にいくたびに、上演前の主宰者、劇作家や演出家、プロデューサーからのメッセージがある。まずは来場者への感謝、余震や停電になった場合の避難について。そして必ず「なぜこの時期に演劇をやるのか」についての思いが語られる。「どんなときであっても劇場の灯りを消してはならない」「こんなときだからこそ芝居をやるのだ」という決意が力強く、あるいは控えめに。また「特別なことをするのではない。いつもやっていることをいつも通りにやるだけ」という淡々としたものもあった。自分自身の心身の不調も劇場に身を置いてようやく平常心を取り戻せた実感があり、「こんなときだからこそ、スーパーに買いだめに走るのではなく、劇場に走らねば」という気負いが、「いつもしていることをいつも通り続けよう」と鎮まっていく数週間であった。 

 大学時代からの友人がある劇団の制作を長く務めており、こんなメールが来た。
 「こんな時だから芝居をみてほしいとか、やらなければならないとか周りでは言っているけど、こんな時こそ自分の感覚に素直でありたいと思います。色々な考えで全部正解だと思います。私も正直でありたい。」

 幸せなことに、3月にみた舞台のほとんどが「足を運んでよかった」と思えるものであった。しかしそうでないものがあったのも確かで、いくら神妙に「この時期に演劇をやる意味を考えました」と言われても、舞台から明確な手ごたえが得られなければ、いっそう虚しく、日に日に怒りさえ湧いてくる。停電や交通機関などさまざまなハードルをクリアしながら舞台を運営する方々のご苦労は、こちらの想像を超えるものであろう。しかし、舞台そのものが魅力的であってこそ、「震災後のこの時期に上演を行った」ことが、舞台の印象を数倍素晴らしいものにするのであって、逆の場合「震災後のこの時期に上演を行った」ことは、舞台への付加価値にはならない。作り手側の事情や気持ちを思えば非常にきついことを言っているのかもしれないが、これがみる側にいる、いまの自分の正直な気持ちである。

 お芝居に正解はない。何でもアリだ。しかしよりいっそう自分の方法を吟味し、ぎりぎりまで問いかけながら、いまできる最上のものをみせてほしい。
 同級生のMさん、ありがとう。あなたの正直な気持ちに勇気をもらいました。

コメント

パラドックス定数 第24項『5seconds』

2011-03-10 | インポート

*野木萌葱 作・演出 公式サイトはこちら アートコンプレックス・センター 13日まで(1,2,3,4,5,6,7,8,9)
 このスペースに来るのは今回が2度め。今日は信濃町から歩いてみた。閑静な住宅街にある瀟洒な建物。階段を上がって狭い廊下を突きあたりまで歩く。途中に展示室がいくつかあるのも楽しい。中央にデスクと2脚の椅子が置かれ、パイプ椅子の客席が緩く囲む作りで、演じる俳優も見守る観客も逃げ場はない。本作は1982年に起きた日航羽田沖墜落事故を扱ったもので、登場人物は「機長」と「弁護士」の2名である。大事件を起こした機長と弁護士の接見に立ち会うことになる客席は開演前のざわめきも皆無に近く、早くも息をひそめて開演を、いや機長と弁護士が接見室にやってくるのを待つ。

 タイトルの「5seconds」は、航空機が墜落する直前の5秒のことを指す。事故当日の様子、機長の心情を懸命に聞き出そうとする若い弁護士(井内勇希)と、正気と狂気のあいだを揺れ動く機長(小野ゆたか)の4回にわたる接見を描くものである。劇場入り口側に鏡や水などが置かれた一角があり、登場人物は1回の接見が終わるとそこにはけ、水を飲んだり衣服を整えたりして次の場に出てくる。また演出の野木萌葱がスペース奥に、おそらく照明や音響のオペレーター作業も兼ねているのだろう、芝居の一瞬も見逃さない厳しい演出家の姿でしっかり立っていて、芝居であることはわかっているが、非常に緊張度の高いリハーサル現場に居合わせたようでもある。

 本作の初演は1999年、再演は2004年で、今回は3演めになるとのこと。自分は今日が初見であるが、作者は「どの作品も再演の度に台本を一から書き直さなくては気が済まない」のだそう。作者にとって本作、そして事件のことは並々ならぬ磁力をもつものらしい。今回の上演をみて、「心身症」「逆噴射」ということばが当時さかんに言われたことを思い出した。心を病んだ人による取り返しのつかない事件は枚挙にいとまがなく、いま改めてこの羽田沖の墜落事故が提示されることにやや戸惑いがある。ふたりの俳優は観客の目によく耐え、立派に応えて健闘した。小さな空間の、目の前でそれをみること、ともに体験する至福はじゅうぶんに得られた。しかしそこから事件そのものを自分がどうとらえるかはこれからの課題になるだろう。

コメント