因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝稽古場公演『負傷者16人』

2017-08-10 | 舞台

*エリアム・クライエム作 常田景子翻訳 西部守演出 公式サイトはこちら スタジオM(劇団民藝稽古場内)13日まで
 本作は2012年初夏、新国立劇場小劇場公演として宮田慶子の演出で初演された。そのときのブログ記事はこちら。実に歯切れが悪く、不完全燃焼感の強い観劇記だが、それでもどうにか前向きにまとめようとしていることはわかる。が、5年後のいま読み返して、自分が何を考え、何を書いたかということが、ほぼすべて記憶になかったのである。人物の相関関係や物語の流れはどうにか覚えており、この面では民藝版の観劇に大いに役立ったと言えよう。

 これで本作2度めの観劇になったわけだが、まちがいなく今回の民藝版は、心に残る舞台であった。きちんと覚えておきたいと思う。それはいつか訪れるかもしれない3度めの観劇への備えだけでなく、いまだ紛争や内戦、テロが絶えない現在において、本作がわたしたちに投げかけるものはいよいよ強く、深いためである。

「負傷者16人」という題名が何を指すのかは、最後の最後にわかる。ラジオは犯人と思われる青年の自爆テロによって、本人を含め10人(記憶によるもの)が亡くなり、「負傷者16人」と告げる。「負傷者16人」という題名の意味するところに向かって、本作は幕を開け、観客を物語のなかに引き込む。観客はいつの間にか題名を忘れ、パン職人ハンスがパレスチナ人医学生のマフムードを助けたことをきっかけに交わりが生まれ、お互いに喜ばしい人生が展開するかに見えたのもつかのま、人種や宗教のちがい、政治の思惑のために訣別する様相にぐいぐい引き込まれる。そして最後になって「負傷者16人」というラジオの放送を聞くのである。 
 亡くなった人の数ではなく、なぜ怪我人の人数が題名であるのか。16人は、重傷者の中には亡くなる者もあるだろうが、この放送の時点では生きている。かろうじて生き残った16人の心とからだを深く傷つけたテロが、やがて16通りの憎しみを生み、次々に連鎖していくことの暗示ではないだろうか。

 マフムードは爆弾についている時限装置をハンスに預けた。「これをあんたが持っているかぎり、爆弾は何の力も持たない」(台詞は記憶によるもの)。つまり爆発はしないと言ったのだ。しかし彼は自爆という手段でテロを実行した。ほかに方法はなかったのか。

 当日リーフレットには、「ミニ辞典」として台詞に出てくる人物や宗教、政治用語、パレスチナ周辺の地図が掲載されており、観劇の一助となる。しかし劇作家クライエムの出自(父がイスラエル人、母はユダヤ系アメリカ人)や、本作の時代設定、いつ初演されたのか、「寛容の心」を持っていたはずのオランダの国情の急激な変容について(たとえばヘルト・ウィルダースのことなど)、もう少し情報が必要と思われる。

 演出の西部守は、本作が演出家デヴューとのこと。終演後は西部自身が客席に挨拶を行った。俳優の熱演やそれに対する客席の反応から、よい手ごたえを得たのであろう、とても良い笑顔をしておられ、こちらまで嬉しくなるほどであった。作品は痛ましい結末を迎える。しかし16人の負傷者すべてが復讐の鬼と化すわけではないのではないか。心身傷つき、激しい憎悪に身を焦がしながら、もしかすると異なる民族の共存への果てしない道のりの一歩が、16人の傷ついた人々からはじまることを祈りたい。そのように思わされた。

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