因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋通信45号完成

2013-09-28 | お知らせ

 前号からあっというまに季節が過ぎ、NHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』が最終回を迎えた本日、因幡屋通信第45号を設置先各劇場、ギャラリー、カフェに発送いたしました。
 今回取り上げさせていただいたのは、8月に観劇したガラス玉遊戯の『癒し刑』です(リンクは観劇直後のブログ記事)。題しまして「継続は力かも~ガラス玉遊戯への夢と期待~」です。
 カラ―は薄いグリーンで、今号より愛媛県松山市の「シアターねこ」さま、京都・御所南の「Cafe MONTAGE」さまにも設置がかないました。ご理解、ご協力に心より感謝いたします。
 えびす組劇場見聞録では、「わたしの好きなピンターさん」と題しまして、シアター風姿花伝で上演された『帰郷/ホームカミング』について書かせていただきました。こちらはクリーム色、お運びくださいますと幸いです。

 松山は筆者のふるさとから瀬戸内海をへだてたお向い、京都の街中で香り高い珈琲を味わいながら演劇や音楽を楽しんだり、どちらも非常に魅力的な公演、イベントをたくさん企画しておられるすてきな空間です。通信が訪れる方々のお目にとまり、楽しんでいただけますよう・・・。

 梅雨のころ、以前から通信を設置していただいている神奈川県立青少年センター演劇資料室さまより「因幡屋通信をファイルし、永く保存したい」というお葉書を受けとりました。設置は2007年5月の26号からですので、それ以前のものふくめ、欠号のナンバーを調べてくださいまして、「該当の号を送っていただければ」とのおたよりだったのです。
 資料ご担当の荒井賢一さんから「将来若い人たちが参考にできるよう、ぜんぶ揃えてきちんと保存したい」と言っていただいて、大変嬉しく光栄に思いました。資料室の演劇関係の書籍、プログラムなどは種類も数も膨大で、すべてボランティアで運営なさっている由、頭が下がります。こういう方々のお働きによって演劇が支えられているのですね。

 今回の劇評のタイトル「継続は力かも」にも関係しますが、因幡屋通信を発行して今年で15年になりました。誰に言われたわけではなく、自分が書きたくて書いているものであり、媒体の性質上、利益を生むことはありません。
 これまで何度か「継続は力なりですね」ということばをいただくことがありました。むろん励ましであり、ありがたいと思います。しかしながら、「これを誰が必要としているのか、しょせん自己満足の趣味の延長で、続けるしか能がないことではないのか」という思いに駆られるのも確かでした。身内や知り合いのよしみで読んでくださっている方からの評価というのはどうしても甘くなりますし、ひねくれた言い方になりますが、「ほかに褒めようがないし、ともかく続けているのは偉いね」というニュアンスを感じたことも少なからずあったのです。
 客観的な評価を得てはじめて、「続けてきた意味があったのだ」と実感できる。何とかその手ごたえを得たい。そう思いつづけてきましたから、演劇資料室さんからのお声掛けは大変思いがけないものでした。因幡屋通信が演劇を志す若い人たちの役に立つのかはわかりません。 しかし明日あさってで答がでるものではなく、まだ会ったことのない方々、もしかすると自分がこの世での人生を終えたあとに読んでくださる方があるかもしれない。自分の満足だけでなく、これから通信を通して出会うかもしれない方々のことを考えながら、心を新たにがんばります。

 先月スル―してしまった俳句日記を書きたいのですが(1,2,3)、句会の内容がぎっしりでうまくまとまらず。句会後の懇親会でも実のある話をたくさんしたはずなのですが、べつの話題で盛り上がりすぎまして(苦笑)、頭が整理されておりません。後日あらためて書かせていただきます。
 10月の兼題は「露寒」(つゆさむ)と「葡萄」。おっと来月は木挽町句会もありまして、こちらは「柿」です。

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サンモールスタジオプロデュース『elePHANTMoon×iaku』

2013-09-24 | 舞台

*公式サイトはこちら サンモールスタジオ 8日で終了
 サンモールスタジオの支配人である佐山泰三氏が、「最も観てみたい2人の劇作家に頼んでみた」「ショートストーリーでは物足りないので1時間以内の中編はありませんか?」(当日リーフレットより)と持ちかけて実現した公演である。
 2011年に『NUMBERS』を行って(筆者未見)以来およそ2年ぶりの「お祭り」(公演チラシより)でもあり、たくさんの舞台をみている佐山氏一押しの超実力派の劇団が競作する試みだ。
 じつは観劇は2週間も前なのである。もろもろあって書く気合いが入らずにいた。強烈な個性をもつふたつの劇団がガチでぶつかりあう、というよりは、何かしら静かな公演であった。なぜだろう。
iaku 横山拓也作・演出『人の気も知らないで』 (1,2,3,4
elePHANTMoon マキタカズオミ作・演出『ボクがうんこを食べる理由』 1,2,3,4,5,6,7,8,9

★iaku 横山拓也作・演出『人の気も知らないで』
 横山を語る上で、媒体や書き手に関わらずほとんどの人が異口同音に例に挙げるのが第15回日本劇作家協会新人戯曲賞を受賞した『エダニク』の抜群のおもしろさである。筆者は戯曲を先に読んだ。ほんとうに文句なしにおもしろい。秀作である。あまりにおもしろいためか、自分の脳内で舞台をあれこれ想像することが楽しくなってしまい、じっさいの上演をみたときいまひとつの印象であったことは非常に残念だ。これはいたしかたないことなのだろうか。

 『エダニク』は男性3人、今回の作品は女性3人による会話劇である。部署はちがうが同じ会社につとめる女性たちが、休日にカフェで落ちあった。桜が散ったころの日曜の午後である。
 さきに来た2人は交通事故で入院中の同僚を見舞ったあと、寿退社する別の同僚の結婚披露宴の出しものの打ち合わせをしようとしている。日曜も仕事をしている営業職の同僚の到着を待ちながら、見舞ったばかりの彼女の様子にショックを隠せない。彼女は「目に見える身体の一部欠損」(公演チラシ、リーフレット)を負ったというのである。

 「目に見える身体の一部欠損」を、観劇前の観客がどう想像し、じっさいの芝居をみてどう思うかが、本作を味わう大きなポイントになるだろう。この表現はいわゆるネタばれを防ぐために必要なものだ。実に思わせぶり。筆者が想像したのは、非常にヘヴィーな「一部欠損」であり、芝居のなかでその具体的なことが明かされたとき、これは不謹慎な言い方になるが、実はどうにも拍子抜けしてしまったのである。この時点で、自分は本作の流れに乗りきれなくなった。
 『エダニク』では、働く男たちが特殊な仕事ゆえに複雑にならざるを得ないプライドや情熱に翻弄されたり流されたりしながらの悪戦苦闘が実におもしろかった。
 今度は働く女たちの話だ。3人とも年齢や職歴、恋人のいるいないなどのプライベートもさまざまで、あけすけな大阪ことばの応酬のなかに、やりきれない気持ちや将来への不安、日々の仕事で心身をすり減らしてゆく焦燥感がにじみでて共感を覚えると同時に、「男性が女性の気持ちの奥底をよくここまで」と、少し恐ろしくもなった。

 しかしやはり「目に見える身体の一部欠損」をじゅうぶんに受けきれていない印象があり、加えて3人がほとんど動かずにしゃべりつづける形式もあって、なかなか集中できなかったのは残念である。戯曲を読みたい、そこで浮かんだイメージのなかで女性3人をどんどん動かしてみたいと強く思う。

elePHANTMoon マキタカズオミ作・演出『ボクがうんこを食べる理由』
 あまりなタイトルであるが、そのとおりの内容である。俳優というのはいろいろな設定や場面や役柄を演じなくてはならないのだなぁ。しかしながら劇団員の永山智啓、山口オンはもちろんのこと、客演の橋本拓也、森南波ともに堂々たるもので、マキタカズオミへの信頼がみてとれる。

 50分を短編ととらえるかどうかは微妙である。昨年の『闇音』公演はもっと短かったが、終幕に「おいおい、本気か」とあっけにとられて半笑いにさせられるあたりはマキタカズオミならではであった。今回は緩やかに鈍く迫ってくる印象である。いつもの本公演のように、90分の長さでマキタの筆力をもってすれば、さらに深いところまでたどりつける可能性はあるが、タイトルで語りきっているところもあるので、思いきって30分に刈り込むこともできるかもしれない。
 内容はともかく、登場人物が笑いながら終わるマキタの芝居ははじめてではなかろうか。最後の最後まで気が抜けず、背後から切りつけられたり、突き落とされたりするような衝撃性を好んでみつづけてきた者にとっては、新境地への模索を感じさせる終幕である。
 次回本公演は来年2月の由、見のがすまじ。

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クリニックシアター2013「ザ・ピンター・ツアー3 Last to Go」

2013-09-24 | 舞台

*ハロルド・ピンター『レヴューのためのスケッチ』より 山登敬之構成・演出 中本孝昭演出協力 東京えびすさまシアター 22日で終了 (1,1',2
 都内某所のクリニックを劇場にして2010年晩秋にはじまったクリニックシアター。1年半ごとに回を重ね、3度めの公演となった。
 今回の演目はつぎのとおり。
★『最後の1枚』
★『三人の対話』
★『応募者』
 いつもは観客が待合室、談話室、院長室を移動しながら、そこで1篇ずつ上演される芝居をみるという、まさに「ツアー」形式がとられているが、今回は待合室だけで行われた。
 クリニックシアターならではの冒険心、遊び心は依然として衰えず、開幕してから新たに加わった1幕もあって盛りだくさんの公演となった。

 「おまけの1本です」として最後に上演されたのが、男優ふたりが志村けんと柄本明ばりの女装でおこなう『最後の1枚』をベースにした1幕だ。女装版は前回、前々回もあり、ふたりが金髪のかつらに派手なドレスで登場したときは、申しわけないが「またか」と思った。
 しかしピンターの原作に、俳優それぞれの個人的な歴史(例:国立病院に9年間つとめて退職金がこれだけしか)などを巧みに盛り込んで客席を笑わせ、最後には俳優が女装を解いて素にもどり、この日の3本ぜんたいをしめくくるかたちで幕をとじたあたりは心憎い構成・演出であった。

 クリニックシアターが掲げるのは「社会人演劇」であり、プロ、アマチュア、素人などというくくりとはまた別のところに成立するものだ。時間をかけてじっくりと作り上げていることもあり、シアターのみなさんはみずからがお芝居を楽しんでいるとお見受けする。ゆとりがあり、スマートなのだ。しかしそこには「趣味」のレベルを越えたシビアなものも感じられる。
 むろん力いっぱい限界まで、より高みを目指して努力することはすばらしい。新劇、商業演劇、小劇場のジャンルに関わりなく、筆者は日々そういった舞台に触れることによって生かされていると実感する。
 クリニックシアターの「社会人演劇」は、ほかに生業をもつ人が、なぜ演劇というあまり経済効率のよくない行為を敢えてするのか、演劇をつくること、それをみることが、人生に、もっと大きく社会にどのような実りをもたらすのかを、控えめなかたちで提示しているのではないだろうか。単に「むかし学生演劇をやっていたから」とか、「演劇が好きだから」という個人的な好みだけではない。演劇が人に何を与えるか、人は演劇から何を得られるか、まさに演劇のもつ魅力、魔力、必要性が潜んでいると思われてならないのである。

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小西耕一ひとり芝居第三回公演『破滅志向』

2013-09-20 | 舞台

*小西耕一作・演出 公式サイトはこちら 東中野 RAFT 22日まで (1,
 ひとり芝居なのに女優の菊地未来と共演、ならば「ふたり芝居」ではないのか。本公演のチラシやネットの情報をみて疑問に思う人は多いだろう。自分もそうであった。しかし観劇後、これはやはり「ひとり芝居」なのだ、それも「小西耕一のひとり芝居」以外のなにものでもないとの認識を強くした。
 菊地未来は7月のJACROW『カルデッド』、8月のガラス玉遊戯『癒し刑』につづく、3ヶ月連続の出演になる。「ひとり芝居における共演者」というむずかしいあり方を自然に示していて、好ましい印象をもった。作品に対する理解と作者への共感あってこそであろう。

 前回と同じ東中野のRAFTを、今回は横長に使った。つまり劇場に入って手前に客席、奥に舞台ではなく、なかに入ると右側が舞台、左側が客席になっている。観客の出入り口が、登場人物の出入りにも使われる。中央にベッドくらいの大きさの台が置かれ、左右に椅子が一脚ずつ。非常にシンプルなつくりである。

 主人公の嶋田倉一(小西耕一)は高校の化学の教師である。アニメの声優をしている森下佐恵子(菊地未来)という恋人がいて、彼女の妊娠を機に結婚した。互いに愛しあい、相手を必要としている。幸せの絶頂。しかしおなかの子どもについて大きな問題が起こり、産むか産まないか、夫婦の話し合いは平行線をたどり、決裂する。
 彼の担当科目が化学というのはひとつ伏線であり、彼女の妊娠もまったく予期しないことではない。これはみてのお楽しみだ。

 ぜんたいの印象は5月の第二回公演『既成事実』と重複するところが多いので、ここでは記さない。しかし本作は『既成事実』の続編ではなく、まったくべつの話だ。俳優・小西耕一みずからが書き、演出した舞台は、前回とはちがう匂いで観客を予想もしなかったところへ連れていく。

 観劇前に楽しみにしていたのが、当日リーフレット記載の「ご挨拶」だ。小西耕一自身のことがことこまかにたくさん書いてある。上演前に読むと支障があるかもしれないが、それでもおもしろいので(失礼)、読みはじめると止まらないのだ。
 ところが開演前の場内が非常に暗いために、まったく読めなかった。多少明るい最前列に移動するか、携帯電話の明かりで読めなくもないが、あまりスマートではないと思いなおした。
 今回は「みてから読む」ことに。でもだいじょうぶだ。受けて立てます。

 

 前回は恋愛話だったが、最新作では主人公が早々に結婚した。しかも出生前検査が物議をかもしているなか、子どもを持つことの選択に悩む夫婦とは、ずいぶん重苦しい話を持ってきたものだ。結婚したものの、あっという間に挫折する主人公。どちらにしても辛い選択を迫られるわけだから、夫婦どちらが正しいともまちがっているとも言えない。
 序盤で早くも急展開した本作は、中盤、終盤とゆるむことはない。

 この舞台を誰よりも必要としているのは小西耕一自身である。過去の破局した恋愛へのこだわりから逃れ られず、過ちと後悔の多い自分を恥も外聞もなくさらけ出し、いや待てよ、もしかすると作り手のテクニックとして、そのように「みせている」のかもしれず、疑いはじめると、当日リーフレットや小西のブログに書いてあることもすべてが真実ではないのかもしれない・・・などど妄想がひろがる。

 自分を受け入れず、愛してくれない相手が幸せになることが納得できない気持ちはわかるけれども、こんなことをしては元も子もない。だから嫌われるんだよ、っていうか犯罪だよ・・・などというのはまったく野暮であり、じっさいそんな気持ちにもならない。相手への恨みを作品において晴らしている、芝居によって代理戦争をしているかのような暑苦しさが、どういうわけか舞台からは感じられないのである。内容はディープであるし、これだけのものを書いて演出してしかも出演するとなると、心身ともに大変な苦しみがあると想像するのだが、本人は本人、作品は作品だとどこかすっきりと割り切っている印象があり、これは不思議なことだ。
 劇作をする上で、小西がこれらの点をどのように意識しているのか、じっさいのところはまったくわからない。

 帰りの電車のなかで、筆者が当日リーフレットを食い入るように読んだのは言うまでもない。なるほどなるほど。そういうことだったのか。
 裏面には早くも来年2月の第四回公演『蜜月の獣』の予告が掲載されている。しかもあらすじというかプロットもなかなか濃厚で、またしてもコニシタケシくんだか、シマダソウイチくんだかの恋愛にまつわる修羅場らしい。
 今度は主人公が結婚して子どもも無事生まれたとしよう。ところがその子が同級生のいじめによる自殺に関係していたり、同居する老親を妻が虐待していたり・・・などなどこれらは筆者の凡庸な想像である。 
「小西耕一のひとり芝居」なら、まだまだもっととんでもないことをみせてくれるにちがいない。
 小西耕一さん、この意気でつづけられたし。客席の筆者もまた、この舞台を必要としている一人なのだから。

 

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劇団民藝『集金旅行』

2013-09-18 | 舞台

*井伏鱒二原作 吉永仁郎脚本 高橋清祐演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアター 30日まで (1,2,3,4,5,6,7,8
 昭和のはじめ、東京・荻窪の安アパート富士荘のあるじが亡くなった。アパートは借金のために担保に入っている。ここに住み続けたい住人たちは一計を案じる。「部屋代を踏み倒して夜逃げした店子たちから滞納金を取り立て、借金を返済しよう」。不運にも集金人の役目を引き受けたのが、自称売れない小説家・十番さんことヤブセマスオ(西川明)。そこに昔の不実な男たちから慰謝料を取りたてようと七番さんことコマツランコ(樫山文枝)が同行を申し出てた。作者ゆかりの荻窪から西日本地方へ、男女ふたりによる部屋代と慰謝料の集金の旅がはじまる。

 原作を読んだとき、ロードムービーだなとごく単純に思った。ひょんなことからいっしょに旅をすることになった男女の珍道中。行く先ざきでいろいろな人と出会い、泣いたり笑ったりの人情喜劇だ。大変失礼な言い方になるが、「どうということはない話だな」というのが、読了直後の感想であった。小説の舞台化、それもあちこち移動する構造の作品を取り上げるのはなぜだろう。 映像ならまだしも、舞台にすると場面転換や暗転が多くなるであろうし、大道具や小道具もたいへんだ。物語すべてを人物の台詞にすることもむずかしそうで、もしかするとナレーションが入るのかもしれない。

 果たして舞台化された『集金旅行』はそのとおりであった。荻窪から錦帯橋のみえる岩国の宿、そこから福岡の小さな村へ、また引き返して福山、尾道、そして荻窪へもどる。そのたびに舞台は暗転して装置の転換が行われる。手早く行うためにさまざまな工夫が凝らされているのだろうし、実際滞りなく舞台は進行する。たびたび動かすのであるからどっしりした重量感のある装置ではない。宿の襖がよろよろしていたり、どうにも取ってつけたような印象は否めない。
 前半は「やっぱりなあ」の気持ちがあったためかなかなか集中できなかった。しかし不思議なことに、このような流れにいつのまにか慣れてくるのだ。映像のようなリアリティを求めず、「次はどこでどんなことが?」と楽しくなってくる。
 自分は下宿屋のおかみさんが駆け落ちした福岡へ訪ねてゆくあたりで、舞台のリズムにからだがなじんできた。貧乏ぐらしを受け入れている河野しずかの清々しい姿に惚れぼれしてしまったせいだろう。この場面でヤブセが「集金の極意」なるものを語るのもおもしろい。なるほど、あれこれ苦労の果てに回収すればこその集金であり、よくわからないお金を易々と手に入れてしまうのは居心地が悪いのだろう。

 言い方はよくないが、落ち着きのない話である。主軸のヤブセとランコにしても出たり入ったりが多く、旅先の人々はなおのこと出番はわずかで、そこでくっきりとした人物像をみせねばならない。
 たとえば宿の女中である。岩国では町の情報源のような女中さんに箕浦康子、福岡では「ふっくらと・・・ひとかどの風格が」と語られる女中に有安多佳子が扮し、「ほんとうだなぁ」と感嘆するような風情であった。
 小説の夢をあきらめきれず、母親の葬儀中に憧れの小説家ヤブセが来訪したことに狂喜乱舞する地主を演じた吉岡扶敏、ランコとお見合いをする産婦人科医の竹内照夫、いずれも登場したとたんに、「おお、この人か!」と待ちうけていたように客席が湧く。
 ヤブセが荻窪にもどってきた終幕、最初の場に登場した太宰治役の塩田泰久が窓の向こうを横切っただけで、「ああ、やって来たぞ」とばかり、客席に微妙な笑いがひろがる。

 短い出番で作品が求める役を的確に示すこと、といって場を独占して雰囲気を変えることなく、自然に消えて次の場につなぐ。与えられた役の背景や過去までを想像し、じっくりと造形するタイプの作品ではなく、かといって表面的な演技にならないように、舞台に自然に存在する。俳優としてむずかしいことではないだろうか。

 旅先の出会いは儚い。おそらくこの1回限りであり、再び会うことはない。そういう小さな出会いや、すぐに忘れてしまうできごとが人生には数限りなくある。本作には深い交わりをもたず、名前すら知らずにすぐに消えてしまうもの、通り過ぎるものに対する作者の温かなまなざしがあって、舞台をみているうちに客席もそのまなざしに同化してゆくのだろうか、初日の客席は、とくに後半になるにしたがって笑いが増え、非常に気持ちよく楽しいものであった。

 『真夜中の太陽』のように、若手を中心にした爽やかな舞台もあれば、今夜のように軽みがあって、ほっとできる舞台もあり、そして木下順二の『夏・南方のローマンス』がどっしりとある。
 舞台『集金旅行』は小説の舞台化に対するひとつの可能性の提示であり(思いきって舞台装置をほとんど置かないつくりも可能ではないか)、俳優の挑戦の場、劇団の演目をひろげる役割もある。「どうということはない話」など、大変失礼なことであった。
 これから千秋楽まで、客席から思いもよらない反応があることも予想され、まだまだ化けつづける可能性を秘めた作品だ。

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