因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座自主企画公演「久保田万太郎の世界」第十回

2013-03-30 | 舞台

*公式サイトはこちら 久保田万太郎作『通り雨』 黒木仁演出 文学座第一稽古場 31日で終了(1,2)。
『わかれ道』
 樋口一葉の原作を久保田万太郎が脚色した作品。明治28~29年ごろの12月末、下谷龍泉寺町ちかくの路地、お京という女の家が舞台である。
『通り雨』
 大正12年ごろ3月はじめの夜、浅草ちかくのある家。「無盡」のために人が来ては去ってゆく。

 この文学座の自主企画公演と、みつわ会による久保田万太郎の公演を同時期にみられるというのは、芝居好きにとってまさに至福といえよう。同じ劇作家の作品が演出や出演者、劇場の大きさや雰囲気によってどのように変容するか。どちらにも優れたところがあるようにむずかしさもあって、ならばりょうほうの良いところを集めれば最高の舞台になるかというと、それも違うように思う。何が絶対正しいという解答はないのだから、みるものも単純な比較に終始して好き嫌いに終わることなく、この大いなる恵みを享受すべきであろう。

 「この公演はよくお酒を飲むシーンが出てくるのですが、今回はめずらしく『砂糖もち』と『お汁粉』です」と演出家挨拶にあるように、なるほど文学座でもみつわ会でも、登場人物はよく酒をのむ。久方ぶりの再会のぎこちなさ、ことばにしつくせない胸のうちが杯を重ねるごとにゆるやかにほどけ、口が滑らかになる。つがれて飲み、また相手にもついで飲む酒の味。ジョッキのビールやチューハイで、この風情は出せまい。

 『わかれ道』で若い傘職人が留守居を頼まれた女の家の火鉢で餅を焼いて砂糖醤油で食べ、『通り雨』では男ふたりがむずかしい話のあと、黙々とお汁粉を食べる。
 伸び伸びとお酒を楽しむ人はいかにも闊達な印象があって、みていて気持ちのよいものだが、「男が甘いものなんて」とでもいうような多少のきまり悪さを漂わせている甘党の男というのも可愛らしくていいものだなと思わせる。
 『わかれ道』では男が出て行って部屋に残ったのは砂糖もちの皿である。とっくりや杯がころがっているほうが色気はあるだろうが、何やらなまぐさくなる。この男女はそういった間柄ではない。そこがいいのであって、だからこそわかれはいっそう切ないのである。
 『通り雨』の終幕で男ふたりが酒を酌み交わしはじめたらどうだろう。話がいっそう長くくどくなって、ここはやはりお汁粉の椀を抱え、お餅をぼのばしのばし食べるすがたが少しユーモラスにみえる効果もあって、あとをひかないのではないか。

 久保田万太郎の劇世界はささやかなもの。だから上演も小さな劇場で・・・というのはいささか単純な決めつけだったのではないか、作品に対する認識を改めねばならないのではないかと考えはじめている。六行会ホールはアクセスが若干不便であることや、客席の入りがあまりよくないために、たっぷりの観劇実感を味わえないことが不完全燃焼感の要因だったのだが、ここ数年品川駅とホールの往復を歩く楽しみを得たり、空席の目立つ客席はそれはそれで風情があると(失礼)少しずつ感じとれるようになってきた。
 反面、文学座のアトリエは小さな空間であり、舞台と客席が近いことや客席もたいていぎっしりの満員である。それが劇世界を身近に感じるよりも、どこか強すぎ、濃すぎる印象になってきたこともたしかである。
 興味深いのは文学座自主公演に出演するのはむろん座内の俳優に限られているのだが、みつわ会には演劇集団円、新派などに加えて文学座所属の俳優さんが若手や中堅、ベテランまでさまざまに客演していることだ。
 たまたま先日のみつわ会では元文学座の菅野菜保之だけであったが、これまで出演していた仲恭司や山本郁子、八十川真由野などが記憶に残る。
 みつわ会は文学座の名優・龍岡晋の指導のもと、演劇集団円の有志が「久保田万太郎勉強会」として昭和53年にはじまったものだ。演劇集団円は文学座から分裂して生まれた劇団であるが、両者の俳優、公演の雰囲気や劇団の気風は明らかに異なる。筆者はそのどちらも好きであるし、前者のこういう面を後者がもっと取り入れてとか、後者のように前者が変わっていったらと思ったことはない。

 さて文学座の公演だが、どちらも40分ほどの小品ながら、集中してみつづけるのは案外むずかしいものがあった。とくに2本めの『通り雨』は、なかなか芝居が本題に入らないこともあって、見のがした場面、聞きもらした台詞がたぶんそうとうにありそうだ。
 また一人の人物の呼び方が相手によって複数あり、しかも配役表には姓しか書いてないために「◎◎と呼ばれるのは誰か」と迷いながら観劇し、そうとわかる台詞のやりとりがあったかもしれないのだが、これは近いうちに戯曲を読んでみようと思う。

 鈴木弘秋は『通り雨』において要の役割を果たしており、これまで頼りなげな心優しい職人などを演じていた印象が強いが、今後『ふりだした雪』でおすみに復縁を迫る元亭主、あと5年して伯父の役をみたい。

 みつわ会には俳優の実年齢と役柄の年かっこうのギャップが大きく、文学座ではベテランと若手の力のちがいがどうしても出てしまう。それも含めて久保田万太郎の作品はやはり魅力的だ。観客には想像力をはたらかせるという課題が与えられている。だからだいじょうぶだ。

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劇団チョコレートケーキ『あの日の記憶の記録』

2013-03-24 | 舞台

*古川健作 日澤雄介演出 サンモールスタジオ特別提携公演 公式サイトはこちら 新宿御苑サンモールスタジオ 『熱狂』と交互上演 31日まで (1,2,3
 1970年の話である。イツハク(岡本篤)は、イスラエルで妻とふたりの子どもと幸せな家庭を営んでいる。兄アロン(根岸茂尚)とも家族ぐるみで行き来しており、仕事も順調らしい。ある日息子が学校の歴史の女性教師の話をする。歴史研究家でもある彼女が、戦争体験者の聞き取りをしたいというのだ。イツハクは頑なに拒む。イツハクとアロン兄弟の故郷はポーランドであり、ふたりはアウシュヴィッツ収容所で特殊な任務についていた生き残りだったのである。

 演技エリアを3方向から客席が囲むつくりは『熱狂』と同じだが、本作では中央に食卓が置かれている。無口なイツハクと明るいその妻、食事をしながらも喧嘩をしてはたしなめられる息子と娘。どこにでもある平凡で幸せな家族の食卓の風景にはじまる。

 ずっと沈黙していた戦争体験者が重い口を開くこと、被害者としてだけでなく、加害者的な体験も併せて味わっており、それが彼の心を重く閉ざしていたことなどは、これまでさまざまなドラマや映画、ドキュメンタリーで扱われており、題材じたいには既視感がある。戦争体験者と未経験のその子どもたちのあいだの埋めがたい溝や体験者どうしの確執、あいだにたつ家族や第三者が存在することも同様だ。うっかりすると凡庸に収まりそうなモチーフに、劇作家の古川健はもう一歩踏み込んだ場面を作り、日澤雄介の丁寧な演出と、それに応える俳優陣の誠実な演技によって、作品はよりいっそう鋭く、温かみのあるものになった。

 劇の後半、家族に対して懸命の告白を終えた弟が、兄とふたりきりになって交わすやりとりである。ある親衛隊員(SSと呼ばれた。浅井伸治)のことを、弟は残虐非道だと長年憎んできたが、兄は彼に対して違う感情を抱いていた。これは弟にとって重大な危機である。憎悪する相手は悪人でなければ困る。自分の生きるよすがが失われるからである。この恐怖とも言える感覚、弟にも増して頑なに沈黙を守っていた兄が、それでも言わないではいられない気持ち。その激しく揺れ動く心情を表現して、弟役の岡本篤、兄役の根岸茂尚は立派であった。
 立派というのは少し妙な表現だが、台詞や演技が巧みであったとか表情がよかったということではなく、作品と演じる役に対して献身的に尽くす姿勢が感じられたのである。

 『熱狂』と『あの日の記憶の記録』のりょうほうに唯一登場する人物として、この親衛隊員がいる。前者では失業者からヒトラーの世話係にとりたてられたことが嬉しくてたまらない平凡な青年である。激昂して大議論をくりかえす他の人物のなかで、まだナチス色に染まり切っていないところがあって、それだけにこれから彼がどうなるのかが気になる存在でもあった。

 その彼が『あの日の~』で再登場した。前作のイメージをかけらもみせない冷酷な親衛隊員に変容しており、ほとんど別人である。この人物の設定や造形については長短あるだろう。前作よりさきに『あの日~』をみた観客には、彼がふたつの作品をつなぐ存在であることはおそらくわからないだろう。どういう順番で観劇するかによって、印象はことなるはずだ。
 後者において、彼はイツハクの苦悩が生み出した妄想のようでもあり、希望をもとうとするイツハクを、つねに絶望へ揺り戻そうとする。
 屈託のない青年がサイボーグのような親衛隊員に変貌したプロセスを敢えて描いていないこと、彼の過去のすがたを示す場面がないこと、しかし兄アロンの「あいつはほかのSSに比べてそれほど悪いやつじゃなかった」という台詞によって、彼の数年間を想像することも、演劇的感興のひとつと受けとめられる。

 イスラエルへの愛国心に燃え、国を守るためには死も辞さないという息子と、「正義とは人を悲しませないことだ」と悲痛な表情で訴えるイツハクは、これからも衝突を繰り返すだろうが、少しずつ歩み寄れると思われる。しかしユダヤ人の大量虐殺をイスラエルを他国から守るための神話にしようとする(このあたりはちゃんと理解できていない)女性教師の思惑は、最後まで交わらない。去り際にイツハクは握手を求めるが、女性教師は最後までその手を取ろうとしないのである。ここにもっと力点を置いた劇作もまた可能であると考える。

 終幕、慌ただしい朝が来て、子どもたちはいつもよりきちんと父親に挨拶をして学校にゆく。妻に対して「助けてほしい」と素直に言えるようになったイツハクも仕事に出かけた。無人となった食卓に柔らかな光がさす情景は、人類最大の殺戮があってなお、人は希望をもてることを示すものではないか。

 イタリア系ユダヤ人の化学者であり作家でもあるプリーモ・レーヴィの『アウシュビッツは終わらない-あるイタリア人生存者の考察-』(朝日選書)を久しぶりに開いてみた。本編よりも心に残っているのは、終章に併録された「若い読者に答える」において、「あなたの著書にはドイツ人への憎しみ、恨み、復讐心の表現がない。彼らを許したのか?」という問いに対する彼の答である。彼自身が自分の思想や行動をできるだけ理性に近づけたいと思っていること、憎しみは動物的で未熟な感情であるから・・・としたうえで、彼は憎しみという感情に対して、実に理性的な解き明かしをするのである。
 彼は収容所の生き残りを二種類に大別する。当時を思い出すことを拒み、避けるもの、うまく忘れることができてゼロから生きはじめるた者。舞台においてはイツハクがまさに前者であり、兄アロンが後者であろう。そしてレーヴィは、政治思想や宗教的確信、深い道徳的意識をもった生き残りにとって、「思い出すことは義務である」と断言する。

 もしナチスによる残虐行為がなければ、レーヴィはアウシュヴィッツに収容されることはなく、恐ろしい体験をせずに済んだ。しかしその体験があって書くべき動機や刺激を与えられ、人間と世界について考察し、学んだのである。彼の著作を読んだ人々もまたさまざまに考えたはずだ。想像を絶する体験をしながら、ここまで透徹したまなざしで自分の心をみつめ、分析できることに感嘆したが、レーヴィは後年みずから命を絶つのである。

 人間と世界とは、なぜかくも複雑で悲しみに満ちているのだろう。人が抱く憎しみは決して一枚岩ではなく、それを乗り越えるためにさらなる苦悩を背負わなければならない。しかし終幕で朝日に光る食卓と、それを囲む家族を思い出すとき、彼らは劇がはじまったときよりも幸せであると思いたいのである。

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劇団チョコレートケーキ『熱狂』

2013-03-23 | 舞台

*古川健作 日澤雄介演出 サンモールスタジオ特別提携公演 公式サイトはこちら 新宿御苑サンモールスタジオ 『あの日の記憶の記録』と交互上演 31日まで (1,2
 昨年秋に渋谷ルデコで初演された作品が、「CoRich舞台芸術アワード!2012」で第1位を獲得して早々に再演のお披露目となった。今月はじめ、日本演出家協会主催の若手演出家コンクール2012において、演出の日澤雄介が『親愛なる我が総統』(古川健作)で最優秀賞を受賞した勢いもあって、いまやチョコレートケーキは注目度急上昇の劇団だ。

 演技エリアを客席が3方向から囲むつくりになっている上、場内数か所の通路を俳優が通るという。場内は暗く、壁にはハーケンクロイツのついた赤い旗が何本もさがっている。開幕すると、さきほどまで観客の出入り口だった階段に、ミュンヘン一揆に関する裁判の被告であるヒトラー(西尾友樹)が立って大演説をはじめ、聴衆の心をつかむ。やがてナチスが再結成されて国政選挙で第一党となり、ヒトラーが首相に就任して独裁体制を確立するまでの、まさに熱狂の様相が描かれる120分だ。

 ヒトラー役の西尾友樹が大熱演をみせる。西尾は昨年秋、みきかせプロジェクト『ファミリアー』で、けなげな犬のモナカを演じたことがいまだ心に温かく蘇る。それがユダヤ人数百万人の虐殺を指揮した独裁者とは。顔かたちはもちろん、声もまったく似ていないのに、そうした懸念や観劇前のぼんやりした気分をぶっとばす勢いだ。ほかにもゲーリングやルドルフ・ヘス、レームやゲッペルスも登場するわけで、いわゆる小劇場演劇において、外国戯曲ではない外国もの(おかしな言い方だが)をみる妙な感覚が終始つきまとった。

 出演者はもちろんのこと、みるほうも異様なまでに張りつめた空間に身を置かねばならない。登場人物はみなぶち切れそうな音量と勢いで台詞を発し、演技も激しい。全編大変な迫力なわけで、しかしそれが却ってめりはりをなくし、客席の集中度を緩ませてしまった面もあるのではないか。迫力に圧倒されながら、「ずっとこの調子でつづくのか」と困惑したのも正直なところだったのだ。

 今回筆者の不調は、先日みたばかりの『親愛なる我が総統』における静的な印象が非常に好ましく心にのこっていたことも理由のひとつと思われる。アウシュヴィッツ収容所の初代所長ルドルフ・ヘス、予審に携わる判事、彼の精神状態を調査する精神科医と、立場のことなる人々による戦後のナチスについての短い会話劇だ。激しく言い合う場面もあるが、ごく少ない。それがかえって緊張を高め、舞台に集中できたのである。

 作り手としては『熱狂』にはあの強度と熱が、ぜったい必要なものであったのかもしれない。それを受けとめるにはこちらがひよわだったのか、残念ながらいろいろな面で相性がよいとはいえない観劇であった。
 この日はアフタートークが行われ、Ort-d.d主宰の演出家・倉迫康史が出演した。劇本編とは打って変わって和やかな雰囲気のなか、「ヒトラーは必ず否定される人物なので、それを取り上げたのは大変な挑戦だ。さらに若いころのヒトラーを取り上げた点がおもしろい」「軍服のコスプレのように見えるところがある。少年たちが行ってしまったことの批評性が感じられる」という氏のコメントが的を得ておみごと。すとんとおなかに落ちた。このように舞台の熱気をいい意味で客観的にとらえられればよかったのだが、残念だ。
 気を取り直して明日の『あの日の記憶の記録』に備えよう。

 

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名取事務所 『ピローマン』

2013-03-23 | 舞台

*マーティン・マクドナー作 小川絵梨子翻訳・演出 公式サイトはこちら 下北沢「劇」小劇場 24日で終了
 名取事務所が現代英米演劇連続上演シリーズと銘打ち、TABOO(タブー)をテーマにした3つの作品の第1作である。
 数年前からどうしても気になる劇作家のひとりがマーティン・マクドナーだ。この名を聞くと素通りできなくなる(1,2,3)。一昨年秋から参加している「ドラマを読む会」において、アイルランドの劇作家J・M・シングの短編をつづけて取り上げている影響も少なくない。名前のとおり小さな劇場で上演が3時間を越えるという事前情報に思わず引いたが、初日あけてすぐ観劇した知人はよい感触を得たとのこと。

 対面式の客席の中央に舞台が設置されているが、ややゆがんだかたちになっていることもあって、座席すぐそばに寝台があったり、舞台から沈み込むほどの位置にまで座席があったりする。昨年観劇した同じ演出家による『橋からの眺め』を思い起こした。舞台や客席のゆがみや捻じれは、そのまま登場する人々の置かれた状況や心の様相とみた。

 どこかにある全体主義独裁国家で、作家のカトゥリアン(寺十吾)が刑事の尋問を受けている。彼の書く童話には残酷に殺される子どもたちの様子が描かれている。折しも凄惨な児童連続殺人事件が起こり、殺された子どもたちの様子がその童話に酷似していたために、彼はほぼ確定的な容疑者として逮捕されたのだ。知的障害のある兄ミハイルも連行されたらしい。刑事はややものわかりのよさそうなトゥボルスキ(斉藤直樹)と、すぐにでも拷問しようと息まくアリエル(田中茂弘)のふたりだ。国家権力を象徴するかのような刑事たちのまえで、小動物のようにおびえるカトゥリアン。両者の攻防がはじまる。

 カトゥリアンと刑事たち、またカトゥリアンと兄ミハイルとのやりとりが主軸の作品であるが、そのあいだに兄弟たちの幼少時の思い出や、カトゥリアンの童話世界の場面が寓話のように挿入される。子どもをむごたらしく扱う陰惨極まりないものなのであるにも関わらず、毒素のような詩情があって目を奪われるのだ。

 国民にとって、国家や警察は権力そのものであるように、子どもにとって家庭における両親はじめ学校の教師や教会の聖職者は、自分たちに対して絶大な権力を行使する者である。みずから働いて報酬を得られない子どもたちは彼らの庇護のもとに生きるしかなく、敵に回せば命がなくなるに等しい。カトゥリアンとミハイルの両親は、どんな意図があったのかは不明だがわが子たちを実験動物のごとく扱った。カトゥリアンを溺愛し、もの書きとしての才能を認めてやり、兄ミハイルはその存在すら弟に隠して虐待のかぎりを尽くし、知的障害を負わせた。極端な扱いをすることによって、人がどのような成長をするかを実験したのである。

 カトゥリアンの書く童話は不幸な子どもたちがもっと不幸になる前に自殺させてやるというものだ。これは両親から想像を絶する虐待を受けた兄の存在によって自分が溺愛され、もの書きになったことを正当化する手段である。
 「虐待の連鎖」とは、子どもの虐待を語るとき繰り返される文言であり警告である。虐待されて育った子どもは、虐待の経験しかないために自分が子どもを成しても愛し方がわからず、同じように虐待してしまうというものだ。これはある面で事実ではあろうがすべてではなかろう。自分が傷つけられたからこそ、わが子には決して同じ辛さを味わわせないと懸命に愛情を注ぐこともあるはずだ。

 『ピローマン』は、心理学や精神医学による人の心の解き明かしへの痛烈なアイロニーと読むこともできる。少なくとも筆者は、「虐待の連鎖を食い止めるために、自分の心を見つめ直そう」「あなたを殴った親御さんにも辛い過去があったのです」「生きていればきっと幸せが訪れる」のあれこれよりも、子どもたちがいまより不幸にならないために自殺させてあげるという、ある意味でむちゃくちゃなカトゥリアンの哲学のほうが温かで、希望がないことがかえって救いに通じるとさえ思うのである。

 むろん現実の児童虐待はあってはならないことであり、社会ぜんたいで取り組まねばならないことだ。しかしその一方でマクドナーの物語から発せられる麻薬的な不幸の味、絶望の心地よさに、ほとんど快楽を感じるのである。

 カトゥリアンを演じた寺十吾が圧巻であった。1月のJACROW公演『パブリック・リレーションズ』でみせたあのとんでもないプロデューサーの記憶がいまだ濃厚なのに、今回もまた大変な難役に挑んだ。この人は俳優としてどこへゆこうとしているのか。与えられた役が自分に合っているかどうかなどにはおかまいなく、ねじ伏せるようにものにしてしまうようなところがあって、プロデューサーや劇作家は、俳優・寺十吾に対して慎重な姿勢が必要であろう。
 筆者観劇当日はたまたま不調だったのか、後半にすすむにつれ台詞をずいぶん噛んでしまっており、残念なところもあった。しかしながらこの作品のこの役において、上演時間中ずっと緊張感を保つのは至難のわざであろうし、仮にカトゥリアンが滔滔と台詞を語ったとしたら、本作の求めるところとは違う方向に進んだとも考えられる。
 カトゥリアンは全体主義を象徴するふたりの刑事に翻弄され、心もからだも著しく傷つけられながら無残な最期を遂げる。しかし彼の書いたものはひとりの刑事に何らかの種を残した。舌を巻くような名演技、立て板に水の名調子でないほうが、かえってしっくりくる場合もあるのである。
 ふたりの刑事も健闘した。台詞や前後関係はすでにあいまいだが、トゥボルスキが「おれが暴力をふるう亭主になったか?なったよ。だがそれは自分が選択したことだ」と開き直ったり、アリエルがカトゥリアンにみせる情など、笑いや微かな救いをみせることによって、謎の多い本作にいっそう複雑な魅力をもたらした。
 カトゥリアンが両親が自分を溺愛することによって「(もの書きとして)クリエイティブな環境だったので」という表現、両親役など複数を兼ねる男女の俳優の服装や、華美なアクセサリーと縁の太い眼鏡のバランスなど、多少違和感をおぼえる箇所があった。観劇ぜんたいに対する大きな妨げにはならなかったが、これは翻訳・演出に何らかの意図があったのだろうか。

 誰にでもすすめられる芝居ではなく、何度もみるのはさすがに辛い。しかしまさに麻薬的な魅力があって、とうぶんのあいだ忘れられそうにない。アフターのお茶やお酒は観劇の愉しみのひとつだが、落ち着くのも盛り上がるのもむずかしい芝居で、しかしそういうもののほうが「芝居をみた」という手ごたえをずっしりともたらすのである。

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green flowers vol.13『かっぽれ!春』

2013-03-21 | 舞台

*内藤裕子作・演出 公式サイトはこちら 中野/テアトルBONBON 24日まで(1,2
 昨年秋の『ふきげんなマリアのきげん』で、第24回池袋演劇祭大賞を受賞したグリーンフラワーズ(以下グリフラ)が、一昨年晩秋に落語家一門が、一門会を行う旅館で巻き起こす大騒動を描いた『かっぽれ!』の春版を上演する運びとなった。あの噺家さんたち、旅館のみなさんにまた会えるのだ。先日の桜の開花いらい、あっという間にどんどん咲きはじめるなか、うきうきと中野の劇場に向かう。

 春のころ、落語家の今今亭(こんこんてい)一門の勉強会がいつもの旅館「松野や」で行われることになった。客室を整え、準備をするおかみと従業員の会話から『かっぽれ!春』がはじまる。この若い男性従業員は前回も登場していたはず・・・と不思議に思う前回からの観客にも、いったい彼は何者かと思う初見の観客にも、過去のいきさつを自然に会話に盛り込みながら、引き込んでゆく。彼をめぐって一門の皆とひと悶着ありそうな予感だ。

 前作より確実にパワーアップし、切り口も鋭くなっている。ひとつひとつの台詞が心にくいほど周到に書かれており、入念な稽古を思わせるテンポのよさで、客席には笑いが絶えない。笑いのために台詞が聞き取れないところもいくつかあり、残念なのだがそれでもおかしいのだから笑ってしまう。あー、◎◎さんの台詞が聞こえないよう・・・もどかしく思いながら笑いつづける楽しさ。堪えられない。

 笑いにはいろいろな種類があるが、グリフラのそれには相手をおとしめたり小馬鹿にしたりする嘲笑のたぐいがまったくないのだ。もちろん現実には嘲笑も侮蔑もある。しかし「それでもやっぱり毎日気持ちよく暮したい」と思うのが人情であり、『かっぽれ!春』の人々にしても、日々辛いことや嫌なことは山ほどあるはずだが、そこを辛抱して懸命に落語の修業に励み、家業にいそしむ様子がほんとうに好ましく、劇中の人物でありながら応援したくなるのだ。予定調和のドタバタなどでは決してない。

 今今亭の師匠である父とその娘の落語をめぐる確執が本作の大きな軸である。ふたりはこれからもはた迷惑に懲りない喧嘩と仲直りをくりかえすであろう。ここまでくれば、と言っても2作めだが、へんにものわかりよく歩み寄ったりなどせず、ゆがみながら走る平行線のようにとことん交わらない父と娘であってもいい。いっそそのほうが清々しいのではないか。
 そしてもうひとつの軸は「芸と仕事」である。自分の好きなこと、やりたいと思うことが仕事として成立するかどうか。本作には芸を極めた人、事情によって夢なかばであきらめた人、もがきながら不器用に走りづつける人、走るのをやめようかと常に悩んでいる人など、夢と現実のあいだを右往左往する様相は、笑いながらみていてもときに痛ましい。

 ふたつの軸、どちらも結論があるわけではなく、結論にもってゆくための芝居ではないのだ。
 落語は父と娘を衝突させ、決裂させたものであり、同時にふたりを結びつける役割を果たす。どうやってもそれから離れられない。まさに恐ろしいまでの宿命である。

 実は落語好きだった娘の夫、娘を遠ざけておきながら女の弟子をとった師匠、やや唐突に現れた東助の新しい恋人などなど、物語にあらたな展開をもたらすと予感させる人々について、周到な劇作家にしてはじゅうぶんに描ききっていないのではないか。

 ・・・と書いていたら当日リーフレットの「今後の予定」に、『かっぽれ!3』(仮)とあるではないか。これには大きな期待だけではない、複雑な印象をもった。たった2度みただけなのに、自分はもうすっかり『かっぽれ!』の人々とずっと以前からの知り合いのような親しみをもってしまったのだ。あの人たちはあれからどうなったのか、もっと知りたい、また会いたいという気持ちが強まるいっぽうで、そう思ううちに物語の幕を閉じたほうが粋なのではないかとも思うのである。マンネリに陥る可能性は、つくりてだけではない、みるがわにも起こり得るのである。

 演劇をつくるには、そして継続するにはさまざまな適性や能力、条件が必要である。そのなかで重要なのが「仲間をもつ」ことではなかろうか。突出した力のある人がいたとしても、たったひとりでは演劇はつくれない。内藤とさとうはよい仲間を得た。それを客席からともに喜びたい。やはり次回も楽しみだ。願わくは、次回公演の当日リーフレット掲載の写真には、俳優の皆さんのお顔がもっと美しく写ったものを。

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