因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

OM-2『Opus No.10』

2019-02-24 | 舞台

*真壁茂夫構成・演出 兼古昭彦映像 公式サイトはこちら 下北沢ザ・スズナリ 24日終了
 昨年の『ハムレットマシーン』以来のOM-2公演は、スズナリで3日間のみ。前売りは完売、キャンセル待ちの盛況で、劇場には開演前からOM-2の創作に対する観客の強い期待が溢れている。当日リーフレット掲載の真壁茂夫の挨拶文は、公演のタイトルが決まる経緯や創作の動機、演劇を作る上での志や現在のこの国における空気、政権への危機感、だからこその自分たちの舞台への意気込みなど、その考察は非常に明確である。

 しかしそこから生まれた目の前の舞台は、決してわかりやすいものではない。夥しい数の段ボール箱が、圧迫感を与えるほどステージ前面ぎりぎりに高く積み上げられている。その前でひとりの少年が本を読みはじめた。段ボール箱の壁の数か所が開き、そこから顔だけ、あるいは声だけで登場する人物の会話は、政治的な主張の強いながら、軽妙でおもしろいものだ。

 が、轟音とともに壁が崩れ、強烈なライトが客席を照らすと、そこには会議室のように無機質な部屋がある。そこから始まる物語(と言い切れない何か)を的確に表現するのは非常に難しい。

 白い防護服で登場する男性のすがたから、東日本大震災による原発事故後のかの地を想起したが、彼が語るのは父との確執であり、愛情への希求である。さらに全裸の男、半裸の女たち、天井から落ちる大量の血(と思われる液体)など、繰り広げられる様相を何と言えばよいのだろうか。「圧倒された」という表現は、少なくとも対象を受け入れているという肯定的なものである。とてもそこまでは到達できず、「茫然とした」に等しい。

 しかしながら今回気づかされたのは凄まじいまでの客席の高い集中度であった。一心に舞台に見入り、全身で受け止めている。観客同士で話をするわけではないのに、無意識に発している「気」というものが確かにあって、それに押されて観劇を終えたと言ってもよい。終演後は張り詰めた緊張が緩んだ開放感と高揚感に溢れ、喜ばしい雰囲気であった。理解できたから、把握できたからではなく、破壊的なまでに激しい創造への賛辞と共感であろう。自分は共感に至ることはできなかったが、劇作家、演出家、俳優、スタッフという枠組みを超越した表現者たちによる渾身のパフォーマンスは、演劇に対する観念を破壊し、ことばを失う体験を与えてくれる。そしてそこには、ある種の爽快感が確実に訪れるのである。

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【稽古場訪問 その1】朱の会vol.2 朗読シリーズー朗読Express

2019-02-23 | 舞台番外編

公式サイトはこちら 俳優・神由紀子(1,2,3,4)が主宰する「朱の会」が2度めの公演を行う。題して「朗読シリーズー朗読Express」。前回(未見残念)に引き続き、文学作品短編を余田崇徳の音楽とともに届ける「文学と旅する一時間四十分」(公演チラシより)のステージである。まだ寒さの残る土曜の夕刻、都内某所の稽古場を訪問した(公演は3月30,31日 野方・BOOK Trade Cafeどうひん)。

 台本を手に持つ朗読公演とはいえ、やはり台詞は肚にしっかりと入れなければならない。作品の中には動きの多いものもある。自分の所作だけでなく、相手との呼吸や出穿けのタイミングや位置など、俳優の仕事は通常の舞台と変わらない。稽古は今日でまだ2回めとのことだが、出演俳優の方々は自主稽古もそうとうに積んでおられるようだ。

 この日の稽古は、アンデルセン『絵のない絵本』に始まり、岸田國士『桔梗の別れ』、芥川龍之介『蜜柑』、中原中也、室生犀星、石川啄木らの詩、泉鏡花『蓑谷』、三浦哲郎『じねんじょ』まで。オーソドックスな朗読もあれば、動きの多いものもあり、バラエティーに富んだプログラムだ。

 主宰の神由紀子は全体の構成・演出をつとめるだけでなく、みずからも出演する。主宰が演出と出演を兼ねることは少なくないが、「どうやってお稽古するのだろう」という素朴な疑問があり、今日はその様相を見ることができた。演出家として俳優に演技をつけ、自分の出番になったら、自分が演じるということなのだが、これは決して容易ではない。

 目で読む文学作品を俳優の声と動き、音楽によって立体化する作業には、演出家として、その作品をどう捉えるか(読解力)それを俳優にどのように伝え(コミュ力)、全体を作り上げていくか(構成力)が必要だ。頭の中でイメージとしてさまざまに浮かぶことはあっても、実際に読み始めると違う風景が見えてきたり、逆に見えなくなることもあるだろう。俳優から疑問や質問も出る。それらを瞬時に理解し、ここで何分の休憩を入れるかどうかまで、稽古場を的確に運営しなければならない(経営力!)。

 神由紀子は作品を深く読み込み、綿密な演出プランを練っているとお見受けした。演出家脳に切り替えて俳優を見つめる背中や、遠慮なく演技の流れを止めて、てきぱきと指示する声の調子にそれが表れている。特にこの日は後半から作曲家の余田崇徳と、音楽の打ち合わせもあり、ひと息入れる間もないほどの忙しさであった。演出家にリーダーシップは必要だ。演出家が自信をなくすと、俳優は不安になるだろう。しかし、もしかすると、迷ったり悩んだり、悪戦苦闘のさまを隠さない大らかな勇気、座組の皆に対して正直であることも大切ではなかろうか。

 朱の会の稽古場には、俳優と演出家の「共有力」とでも言うのだろうか、互いを尊重しつつ、遠慮なく意見やアイディアを出し合う自由な空気と、明るく和やかな中にも、「もっと頑張らねば」というプロの作り手としての厳しさ(誰もが自分にいちばん厳しいと想像する)があった。何より選ばれた作品がどれも素晴らしい。

 3月中旬、2度目の稽古場訪問を予定しており、今度は各演目についてもう少し考える機会としたい。

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シアターコクーン・オンレパートリー2019『唐版 風の又三郎』

2019-02-19 | 舞台

*唐十郎作 金守珍演出 宇野亞喜良美術・衣裳 大貫誉音楽 公式サイトはこちら シアターコクーン 3月3日まで。

 冬樹社の『唐十郎全作品集』第4巻掲載の戯曲を読む。読者を引き込むエネルギーに圧倒されながらも、紙面から舞台を脳内に立ち上げ、動かすことの、何と楽しいことか。扇田昭彦による巻末の「解題」には、本作の詳細な上演記録、作品解説のみならず、吉本隆明や小苅米晛などが執筆した劇評を紹介されている。淡々とした記述であるにのに、扇田氏の高揚感や、「この舞台のことを伝えたい」という情熱が伝わってくる。

 1974の初演では、春から夏にかけて、福岡を皮切りに広島、大阪、京都、東京を巡演し、東京公演では上野の不忍池、東京湾の夢の島で上演された。国内のみならず、レバノン、シリアの難民キャンプや大学の構内で、アラビア語訳による『パレスチナの風の又三郎』公演を実現させた。唐十郎と状況劇場中期の傑作であり、伝説の名舞台である。

 風の又三郎とエリカ二役(というのとは違うが)に、元宝塚トップスターの柚希礼音、「ぼくは読者です」と名乗る青年・織部に窪田正孝を抜擢した今回の公演は、唐十郎ゆかりの俳優、初めての俳優含め、座組ぜんたいが熱く盛り上がる舞台である。休憩を2回はさんでほぼ3時間の長尺にもかかわらず、立見席もでる盛況だ。唐作品が大劇場のエンタテインメントとしても成立することの証左であり、カーテンコールではスタンディングオベーションの盛り上がり。

 ダンスの実力随一と言われるだけに、柚希のダンスは美しい。彼女を中心に、銀のマントを着たコロスの群舞を見ると、ここは宝塚かと見まごうほどであり、宝塚歌劇、ミュージカル演出家の小池修一郎が唐十郎に傾倒していることが納得できる。さらに歌舞伎に通ずる要素もあり、多くの俳優や演出家、劇作家が憧れる唐十郎というものの存在の大きさに改めて実感した。

 が、違和感を覚えるところは多々ある。教授役の風間杜夫の台詞が聞き取りにくい箇所が散見する。教授とその部下3人は、作品ぜんたいの中ではコメディリリーフの役割をもち、賑やかにコミカルに舞台を盛り上げ、掻きまわす。しかしながら唐十郎は軽い扱いは決してせず、主軸に対する脇役という存在ではない。結婚式のあとにたくさんの引き出物の箱を持った教授と三腐人。淫腐は歩きながら箱をいくつか落としている。教授は「落としているよ」と指摘しつつ、乱腐と珍腐の方向を見て「おまえ達の顔を見たわけじゃないんだ。これから歩いてゆく向うの路にも、この淫腐のこれから落とすであろう八個の品物が見えるような気がしたものでね」。いったいこの場にどう意味づけられるのかわからないが、非常に詩的な美しい台詞である。これが騒々しいコント風のやりとりに紛れてきちんと聞こえてこない。また高田三曹から切り取られた肉を喰らうエリカを「腹が飢えていたんじゃないっ。心が飢えていたんだ」と庇う織部に向かって、教授は「黙れ、形而上学!」と一喝する。

 これはむずかしくもあり、たまらなくおかしい台詞である。いんちき臭い教授が、突如インテリ風に発する台詞であるが下卑た響きもあって、エリカと織部の狂おしい様相に容赦なく切り込む残酷なことばでもある。これもしっかりと客席に届けてほしいのだ。今回の音楽は新宿梁山泊の俳優でもある大貫誉であり、初演の際の安保由夫の、あのメロディが聞かれないのは寂しいが、劇中何度も歌われるたび、新しい音楽が次第に耳になじむのも確かであった。しかし前半で六平直政が登場するときの音楽は、アニメ映画『銀河鉄道の夜』のメインテーマ(細野晴臣作曲)である。パンフレットには何も書かれていないが、このようなピンポイントでの使用に、問題はないのだろうか。

 根津甚八の織部を見ていないせいでもあるだろうが、この役の窪田正孝の健気でひたむきな姿に陶然と魅入られ、わたしにとっての『唐版風の又三郎』、そして織部は窪田から始まった。将来的に劇団唐組の紅テントでも上演されることを切に願う作品であり、そのときが客席に身を置くものとして「勝負」になるだろう。

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劇団民藝『正造の石』

2019-02-14 | 舞台

池端俊策、河本瑞貴作 丹野郁弓演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASIMAYA 25日まで1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31,32,33,34,35,36,37) 2014年1月、NHK土曜ドラマで池端俊策脚本、尾野真千子主演の『足尾から来た女』が放送された。今回の公演はそのドラマの舞台化であり、戯曲は池端と河本瑞貴両氏による。明治時代末期、足尾銅山の鉱毒被害でふるさとを失った新田サチが、東京で様々な人と出会い、別れ、成長していくすがたを描いた物語だ。

 映像ならばあまり無理なく表現できるところが舞台になると、さまざまな制約があり、工夫が必要になる。時は明治39年から42年までと短いが、場面の転換が多い。装置の転換や俳優の動きや衣装替えはスムーズに行われており、スタッフワークの良さが感じられる。一方で、演説会で発せられる東洋のジャンヌ・ダルクと謳われた福田英子が飛ばす野次や、後半で本や手紙を読み上げる音声に、もう少し自然な響きがほしい。

 また、舞台の語り手をどの役に、どのように演じさせるか。客席に向かって語っているときと、役を演じているときのバランスをどう構築するかは難しいところであろう。本作では本安吾朗という人物が冒頭から物語の時代背景、人物の状況を解説するところから始まる。彼は何者か。観客が最初に抱く疑問であり、期待である。しかし彼は社会主義者を捕らえんとする官憲の部下であり、サチに対する態度やふるまいは権威を嵩に女性を見下す、まことにステレオタイプの男性をして描かれている。その彼がなぜ語り手を担うのか。どこかでサチに歩み寄ったり、彼の価値観が揺すぶられる場面が訪れないかと待ったが、前述のような造形に終始している点が残念である。

 田中正造、福田英子はじめ、台詞の中には堺利彦や幸徳秋水が登場し、後半には石川啄木がサチに詩と恋を教え、残酷に裏切ってゆく。足尾銅山鉱毒事件という史実、実際に存在した人々はもちろん重要だが、本作の魅力は、それらがむしろ背景になって、架空の存在である新田サチを導き支え、見守っているところである。

 劇の前半、福田家に入って間もないサチに、英子の母楳子がアンデルセンの『みにくいアヒルの子』を少しだけ読んでやり、良かったら字を教えると誘う。後半になって、物語のラストシーンが語られるとき、みにくいアヒルの子とは、まさにサチのことであったと気づかされるのである。無学で無力な自分を卑下していたサチが、多くの人と出会い、傷つきながら自分の道を歩き出したそのとき、彼女は美しい白鳥になったのだ。

 サチに正造の石はもう必要ない。サチは文字を読むことを覚えた。ことばを獲得したのだ。だからものに託さずとも自分のことばで考え、自分のことばでものが言える。あの時代、サチのような女性はあまた存在したであろう。舞台のサチは彼女たちの象徴である。大河ドラマのほとんどの主人公は、多くの人が知っている有名な人物であるが、『正造の石』のそれは市井の女性だ。だからこそ、より多くの名もなき人々の人生を象徴し、その思いを代弁する存在になり得るのである。

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因幡屋通信「さあ61号!」完成のお知らせ

2019-02-02 | 舞台

 おかげさまで因幡屋通信「さあ61号!」完成し、本日設置先各劇場、ギャラリーさま宛にに発送いたしました。劇場ロビーのチラシラックでお見かけになりましたが、どうかお手に取ってくださいませ。まーほんとうにぎりぎりまで書けず、今回こそ「落とす」かもしれんと青ざめ、さらに入稿、印刷の段階でもぎりぎり綱渡りになりました。
 要は早めにきちんと書けば良いのです。
 それができないのです…

 因幡屋通信は。メイン劇評がまさかの森本薫二題です。
 観劇直後のブログ記事をリンクいたしますので、ご参考までに。

*稽古場からの挑戦~森本薫『薔薇』~
 急な坂スタジオで体験した「おしゃべりな食堂」第2回 福原冠 ラジオドラマ『薔薇』リーディング公演について。若い演劇人の爽やか、かつしたたかな挑戦と受け止めました。

*何度でも『女の一生』…文学座公演 森本薫作 
 観劇を重ねるごとに新しい視点、素朴な疑問が与えられ、ますます好きになっていく作品なのです。

 秋から冬のトピックとして、グループる・ばる『蜜柑とユウウツー茨木のり子異聞ー』、秀山祭九月大歌舞伎から「俊寛」、芸術祭十月歌舞伎から「助六」、くちびるの展会、吉例顔見世大歌舞伎から「お江戸みやげ」、東京夜光『世界の終わりで目をつむる』、十二月大歌舞伎から「あんまと泥棒」などについて短く記しました。

 えびす組劇場見聞録では、「演劇が救い得るもの」と題しまして、ウテン結構第1回公演『アリス式海岸不思議岬邂逅』を取り上げさせていただきました。こちらは後日HPでもお読みいただけますので、しばしお待ちを。

 今回から兵庫県豊岡市の「城崎国際アートセンター」さまにも設置していただくことになりまして、ご理解とご協力に心から感謝いたします。

 

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