因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝公演『クリームの夜』

2015-06-23 | 舞台

*青木豪作 山下悟演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアター 30日まで 青木豪作品(おもにグリング公演)観劇記事はこちら→(1,2,3,4,5,6 7,8,9)文化庁のイギリス留学から帰国し、『The River』の演出や、劇団銅鑼に描き下ろしの『父との旅』が記憶に新しい青木豪の新作が民藝でお披露目となる。
 公演パンフレット掲載の青木豪のインタヴュー(聞き手・河野孝)で、本作のベースは何か?という問いに、紹介されて見ていたある映画のテーマ「老いらくの恋でレズビアン」が引っかかっていたこと、そして本作の主要人物である亜希のキャラクターは、グリング第11回公演の『カリフォルニア』に登場するというのである。そして「ちらっと幽霊みたいに出てくる柊子」や、妻である柊子に自殺された夫の茂のその後を描いた第12回公演『海賊』があり、今回の『クリームの夜』で「3部作になったらいいなと思って」。
 おどろいた。というより、うろたえた。2005年夏に上演された『カリフォルニア』は、自分が青木豪とグリングにのめり込むきっかけとなった作品だ。これまでみた青木作品のなかで、もっとも好きといってよい。いや「好き」というより、思い入れがいささか過剰なほどで、それはちょうど同じ夏に劇団フライングステージの『Four seasons~四季~』(関根信一作・演出)を観劇しており、ゲイとその周辺の人々の悲喜こもごもを描いた作品と、女性どうしの悲しい恋の物語である『カリフォルニア』が好対照を成していたこと、この2本がいわゆる小劇場系演劇に足を踏み入れ、なかでもセクシュアリティについて考えはじめた時期と重なったこともあり、自分の演劇人生における転機だったわけである(因幡屋通信第21号にこの2本の劇評掲載)。
「民藝の仲間」に掲載の<ものがたり>を読んで、登場人物のなかの「亜希」や、作品の舞台であるスナック「柊」(ひいらぎ)の名から、『カリフォルニア』の柊子をまったく想起できなかったとは。

 青木豪の『カリフォルニア』と『海賊』、そして『クリームの夜』を3部作と捉えることについて考えてみる。なるほど主要な人物のうち同じ名前の人物が登場し、台詞のなかにも出てくる。、周辺の設定も似ている。しかし決して単純な連作、続編ではない点が青木豪作品の特徴であり、観客としてはそれを旨みを感じとれるかどうかが、味わいの分かれ道であろう。

 単なる続きものではなく、「●部作」と呼ばれる作品群について考えてみた。共通するモチーフがあり、それを軸にゆるやかにつながっているもの。たとえば大林宣彦監督の映画「尾道3部作」は、『転校生』、『時をかける少女』、『さびしんぼう』といった具合である。この場合尾道が舞台である点がゆるぎないため、観客もそこに視点を落ち着かせることができる。
 考えてみると、青木豪の連作構想は複雑で微妙である。このたびの『クリームの夜』観劇後、久しぶりに『カリフォルニア』と、『海賊』の上演台本を読み直した。前者がもつ哀切な痛みが改めてよみがえり、観劇直後にはいまひとつ印象のはっきりしなかった『海賊』に、新たな魅力を見いだすことができたのだ。 

 青木豪の『カリフォルニア』と『海賊』は、設定や人物の配置などが少しずつずれている。1作めの軸は女性どうしの愛であった。しかし『海賊』ではその話題は出てこない。柊子と亜希の愛がどうであったのか、それが周囲の人々にどんな影響を与えたのか。その答を『海賊』に求めると、肩すかしを食うことになる。なので第一作で疑問に思ったこと、このつづきはどうなるのかといった期待に応えてくれるものではない。観客の予想や期待を、ある意味で大胆に裏切り、べつの物語、ことなる地点へといざないながら、新しい方向へ導いていくのだ。

 それが『クリームの夜』では、いきなり第一作に引き戻された感覚がある。また同性愛について、元小学校教師の男性が「病気だ」と一刀両断に切り捨てること、亡霊がみえるという電器店の3代目、なぜこの人なのか最後までわからない娘の恋人など、書ききれていない部分が多いのではないか。青木豪作品には、しばしば複数の会話が同時に進行する場面がある。本作にもふたりの人物が会話するなかに、携帯電話で話す人物の台詞がかぶる場面があったが、こなれていない印象だ。題名の『クリームの夜』が最後のあの場面から来るというのもやや無理がある。というより、 『カリフォルニア』に負けないほど、シンプルななかに深い意味のこもった、この作品にふさわしい題名があるはず。

 ベタな続きものとしないこと、敢えて別の視点で、新しい方向へ物語をつくることは、劇作家青木後のひとつの矜持であり、観客への挑戦、あるいは青木独特の語りかけではないだろうか。つづきを知りたいと思ってもずばりの答ではないこと、謎がさらに謎になり、いっそう悲しみが募ること。それをもっと味わいたい。

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