因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝 『闇にさらわれて』

2019-06-26 | 舞台

*マーク・ヘイハースト作 丹野郁弓翻訳・演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASIMAYA 7月3日まで(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31,32,33,34,35,36,37,38 ,39)ユダヤ人法学者の父フリッツ(西川明)、ドイツ上流階級出身の母イルムガルト(日色ともゑ)を持つ若き弁護士ハンス・リッテン(神敏将)は、1931年、ある殺人事件の証人としてアドルフ・ヒトラーを召喚し、激しい尋問を行って反ファシズムの旗手として喝采を浴びる。しかし2年後成立したヒトラー政権に拉致され、強制収容所に送り込まれる。母イルムガルトは、息子を救い出すために孤独な闘いを始める。

 作者のマーク・ヘイハーストは2011年、ハンス・リッテンを題材にしたテレビドラマおよびドキュメンタリーを発表したのち、初戯曲を執筆。2014年に初演され、高い評価を得たとのこと。冒頭は母と息子が離れて左右に位置し、母が息子の手紙を読み、息子がその内容を語り掛ける場面に始まる。異なる時空間をひとつの場として提示する手法である。ふたりの台詞が最初は見事なタイミングで発せられているが、やがて重なって聞き取りにくくなるあたりに、母子の運命の歯車が狂わされることを予感させ、観客を舞台に一気に引き込む。

 奇しくも今年4月9日に逝去した舞台美術家・島次郎の最後の作品となった。ステージ中央に四本の鉄柱が立ち、ハンスが投獄された収容所、イルムガルトがゲシュタポ将校(千葉茂則)を訪ねていく部屋などになり、手前や両脇のスペースも尋問室や応接室などに変化し、最後はハンス逮捕の発端となった31年の法廷の場面にもなる。舞台の左右の壁には格子の嵌った小さな窓があり、天井の中央にぽっかりと穴が開いている。ハンスはじめ政治犯、アナーキストたちが収監された牢獄が、社会から隔絶された場所であり、そこからの生還することがいかに困難かを象徴するものなのであろうか。

 物語が進むうちに、ファシズムの暴力によって連れ去られ、劣悪な環境の収容所で過酷な尋問を受ける息子、ひたすら息子の無事を祈って奔走する母親。権力者によって翻弄される市井の人々の悲しみと、不屈の闘志、家族の情愛といったものを想像するのはいささか安易で甘かったとことに気づかされる。

 登場人物の心象や行動は複雑で、微妙である。愛する息子を助け出したいと願っていても、夫と妻とでは考えや行動が異なり、しばしば衝突し、相容れない。物語後半、イギリスの貴族で、政治家であったアレン卿(篠田三郎・客演)を前に、リッテン夫妻が諍う。夫にもアレン卿にも腹を立てて退出するイルムガルトのことを「息子を思う母親というものは…」というフリッツの言葉が、取り繕うにしてもあまりに凡庸に聞こえたことは、悲しいすれ違いを示す一場面である。

 すれ違いは夫婦間だけでなく、母と息子のあいだにも生じる。母は、ナチが要求している情報を明かし、解放されるように息子を説得するが、彼は聞き入れない。母子を引き裂いたのは、ナチという暴力的な権力だけでなく、イルムガルトとハンスは、別の人格であり、濃厚な血のつながり、家族の情愛を以てしても変えることのできない、生き方の違いである。

 ドイツ人とユダヤ人。一般市民とナチスという二項対立の関係性には収まり切れない複雑なものは、イルムガルトが何度も訪れるゲシュタポ将校とのやりとりにも表れている。イルムガルトは、彼を訪ねる際、大きな声ではっきりと「ハイル・ヒトラー」と発し、敬礼をする。それは、相手の懐へ入り込むためのひとつの手段であり、巨大権力者への果敢な挑戦の一声でもある。イルムガルトと将校の論戦は見応えがあり、次第に皮肉なユーモアを醸し出すほどだ。

 本作のテーマは、イルムガルトの最後の台詞に集約される。この物語は終わっていない。観客が舞台から受け取るものは非常に重苦しいが、終演後は清々しく、なぜか勇気が湧く。誠実に作られた舞台は、たとえ悲劇的なものであっても、観客に佳きものを与えられることの証左であろう。

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流山児★事務所公演 『新宿オペラ 由比正雪』

2019-06-25 | 舞台

唐十郎作 流山児祥演出 公式サイトはこちら Space早稲田 30日終了 
 由比正雪は江戸時代前期、徳川幕府転覆を計画した実在の人物であるが、出自には諸説あり、謎が多い。本作は、1968年の新宿騒乱に象徴される若者たちの圧倒的な熱量と、それが受け止められない閉塞感、虚脱感が混在した当時の世相を反映したものだ。流山児祥は、51年前の
本作初演に小さな役でデヴューした。昨年の『腰巻お仙 振袖火事の巻』から半年、上演を前に大久保鷹、流山児祥と「由比正雪」史跡を歩き、大島渚監督作品「新宿泥棒日記」上映のイベントも行われ、満を持しての開幕だ。

 すでに衣裳、かつらをつけた役者陣が観客誘導を行い、小さな劇場はたちまち満員となる。穴倉のような劇場での「唐十郎の唯一の革命時代劇」(公演リーフレット/流山児挨拶文より)は、むせかえるような濃厚な熱気と、冷たい刃のような鋭さを併せ持つ不思議な作品だ。劇には4人の正雪が登場し、怪奇もののような正雪誕生からその死まで、金井半兵衛、丸橋忠弥など実在の人物(といっても正雪と同じく不明なところが多い)、夜鷹たちが目まぐるしく交錯し、狭い空間も何のそのの本格的な殺陣による大活劇が展開する。

 流山児は喧嘩を売っている。半世紀前の若き自分に、作者の唐十郎に、必死で戯曲に食い下がり、稽古中から生傷が絶えないであろう劇団員たちに、客席に。その喧嘩腰は劇場に留まらず、まだ舞台を見たことのない観客にまで及ぶ。前述の朝日新聞の記事には、「自分なんてつまんないぜ。諦めることはない。自分が変われば社会も変わる。冒険を恐れず、街に開けた演劇を一緒にやろうぜ」と檄を飛ばしている。街とのつながりという視点で唐十郎作品に触れるのはこれがはじめてかもしれない。テントのようにラストの屋台崩しの無いSpace早稲田での唐十郎作品は、観客が舞台に触発されて自ら心の扉を壊し、街のなかに飛び出すことでさらに広がり、深まるのではないだろうか。

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劇団7度 dim voices2『象』

2019-06-22 | 舞台

*別役実作 伊藤全記演出1,2,3,4,5,6,7公式サイトはこちら スタジオ空洞 23日まで
 古今東西さまざまな作品に果敢に挑戦する劇団7度と伊藤全記が、別役実の初期代表作に取り組む。本作は燐光群の上演を見た記憶があるのだが、残念ながら当ブログに記載は見当たらない。

 スタジオ空洞を縦長に使い、演技スペースを客席が対面式に左右から挟む形を取る。観客が入場した扉と階段は劇中重要なモチーフとなり、池袋駅周辺の喧騒から離れた小さな地下スタジオが、いつの時代のどこの場所とも特定できない、まさに7度だけの演劇的時空間に変貌する80分である。

 別役実の原作戯曲は、原爆症に蝕まれている「男」が物語の主軸である。彼の叔父はかつて被爆による背中のケロイドを見世物にしていた。死が近づくにつれて、叔父はかつてのあの街へ帰ろうとする。そこに叔父の妻、医師、子どもを産むことを願うがそれが叶わない看護婦、叔父のケロイドに触れようとする女の子など、戦争の傷跡がまだ生々しく描かれており、社会的、政治的な要素を否応なく感じさせる。

 伊藤全記の7度版に登場するのは、三人の女優である。必ずしも物語の筋を追わず、冒頭の「男」の台詞が何度も発せられる。スタジオ手前には、劇中の「アカイツキ」を想起させる凹凸のある円形のオブジェがあり、スタジオ奥は鏡張りで、目の前の女優、鏡に映る女優、観客を見ることで、物語は変容していく。

 自分にとっての別役実の戯曲は、演劇集団円や文学座など新劇系の劇団が、戯曲を丹念に読み込んで、舞台に立体化することで成立する劇世界であった。しかし7度の『象』は、戯曲のみならず観客の概念を解体してゆく。

 正直に言うと、会話を聞き取り、物語の流れを追うことができないため、しばしば集中を欠き、少なからず困惑したのも確かである。彼女たちがつぶやく「アカイツキ」は、311の原発事故で燃え上がる炎かもしれない。初演から長い年月を経た戯曲を上演する場合、とかく「上演の意義」や「今日性」を求めがちであるが、今夜の舞台は安易な解釈を拒否する鋭さがあり、まだ粗削りで、多くの人の共感を得る舞台成果には至っていないものの、観客が自分でも気づかない「戯曲の風景」を垣間見せ、「人物の声」を聴きとろうとさせる。

 伊藤全記と劇団7度がしていること、しようとしていることは、観客が作品からあらかじめ受けたものとはほどとおい。しかしそこから新たに戯曲を知り、演劇ができることの可能性を目の当たりにできる。もしかするとこの感覚は、当日リーフレットに伊藤が記した「『ホンモノ』と『ニセモノ』の間でゆらいでいる間」であるとも言えそうだ。

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新宿梁山泊 第65回公演『蛇姫様 わが心の奈蛇』

2019-06-19 | 舞台

唐十郎作 金守珍演出 公式サイトはこちら 新宿・花園神社境内特設紫テント 24日終了1,2,3,4,5,6,7
 1977年、状況劇場が九州筑豊のボタ山から各地を巡演ののち、東京は青山墓地で上演された伝説的作品だ。梁山泊の場合、テントというより、テント風の芝居小屋といった風情だ。役者への祝大きな祝い花が賑々しく飾られ、周囲をぐるりと回って場内に入ると、客席前方こそ桟敷だが、あとは椅子席が組まれている。小屋内には煌々と明かりがつき、数台の扇風機がうなっている。

 物語を追ったり、筋道を考えたり整理することはせず、舞台で起こっていることに心身を委ねることがだいぶできるようになった唐十郎作品であるが、2回の休憩を挟んだ3時間の長丁場を乗り切るには心身のスタミナが必要だ。舞台にはところ狭しと次々に人物が登場し、大道具小道具、歌やダンスも盛りだくさんだ。客席から舞台を水路が貫き、役者は劇中何度もそこへ踏み込み、ときには倒れ込む。周辺の観客がビニールシートで水を防ぐところも感興のひとつである。

 舞台の見せ場を作ることについては金守珍と梁山泊の力は大いに発揮されている。派手な衣装や大掛かりな舞台美術、水を多用する演出は、確かに観客の気持ちを強く掴む。しかしそのことによって、言葉を聞くこと、唐十郎戯曲の台詞を発する役者自身を見ることの醍醐味が薄まってはいまいか。「見たい」という欲求もさることながら、「聴きたい」という気持ちが湧いてくるのも唐作品の魅力のひとつであり、高揚感に包まれながらも、どうしても欲が出てしまうのである。

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劇団桃唄309『アミとナミ』

2019-06-16 | 舞台

*長谷基弘戯曲・演出・音楽 公式サイトはこちら 座・高円寺1 16日終了(1,2,3,4
 当日リーフレットに掲載の長谷の挨拶文には、ハンセン病を題材に舞台を作ってきた過程、志の強さが誠実に綴られている。これまでに中編を2本作り、2016年には、国立療養所大島青松園を描いた『風が吹いた、帰ろう』を同じ座・高円寺で上演した。本作は4本めになるとのこと。日本社会の暗部とも言えるテーマに寄り添い、多くの困難を乗り越え、舞台作りに取り組む姿勢に、改めて感銘を受けた。

 舞台上手寄りに喫茶店らしきスペースがあり、中央から下手側で物語本編が進行する。喫茶店風スペースに出番を待つ、あるいは出番の終わった俳優が出入りするが、全員がそこを必ず通るというわけでもなかったと記憶する。本編は複数の場所、時間が目まぐるしく交錯し、いささか混乱する。喫茶店風スペース設置の意味合い、舞台効果が感じ取れないこともあり、残念ながら舞台の勢いに最後まで心がついていけなかった。それぞれの立場で問題の捉え方は異なり、互いが交わることで考え方も関わり方も変容していくが、個々の人物の造形、物語の展開いずれも駆け足で、どこに視点を向ければよいのか、舞台に対する心の向け方が決まらず、落ち着かないままの観劇になってしまった。

 テーマの歴史を紐解きつつ、過去の出来ごととせず現在につなげ、演劇として見せること。過去と今とこれからを舞台で描くこと。むずかしいことだが、倦まず弛まず活動を継続することは素晴らしい。また桃唄の舞台には、「挑戦」という強張った気概よりも、対象に寄り添うしなやかさと優しさがあり、それを受け止めることができればよかったのだが。

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