因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

2015年因幡屋演劇賞

2015-12-28 | お知らせ

 年末恒例、因幡屋演劇賞の発表です。感謝と喜びをもって、2015年は以下のみなさまへ。

*劇団文学座公演 森本薫作 戌井市郎補訂 鵜山仁演出『女の一生』
  リーディングと講演が行われた『女の一生』プレ・イベントも大変おもしろく、舞台の魅力がいっそう増し加わった。『女の一生』は、わたしの演劇人生に必要な舞台であることを改めて認識した。

*劇団文化座アトリエにおける三好十郎作品 『稲葉小僧』(原田一樹演出)、『廃墟』(劇団東演との合同公演 鵜山仁演出)の上演
 老舗新劇劇団の安定感はもちろんだが、ノスタルジアではなく、清々しく新鮮だ。三好十郎は年月を経てなお、客席に新しい風を呼び込むのである。

*三月大歌舞伎「菅原伝授手習鑑」の通し上演 () 
 えびす組劇場見聞録49号に少々。

*帝劇ミュージカル ミュージカル ミヒャエル・クンツェ脚本、歌詞 シルヴェスター・リーヴァイ音楽、編曲作 小池修一郎演出、訳詞 『エリザベート』
 15年前、皇太子ルドルフ役で彗星のごとくデヴューした井上芳雄が、黄泉の国の帝王トートを演じた。あのときとはまったく別の作品のように驚き、酔いしれた一夜の幸福。

*猫の会主宰 北村耕治の仕事
『ありふれた話』の作・演出、作『親戚の話』の作(田中圭介演出 コマイぬ上演)
 いずれも小さな空間でささやかに行われた公演だったが、見る人の心に確かな手ごたえを残した。丁寧で誠実な仕事である。

 1年の観劇本数は95本で、数年ぶりに100本を切りました。これは生活に占める俳句の比重が増えたためにまちがいありません(苦笑)。時間にもお金にも限りがあるのですから、何かを取ったら何かはあきらめる、あるいは一時置いておくように、頭を切り替えたいものです。
 それにしても、もし自分が演劇を見ることなく、俳句も作らなかったとして、いったい何をしていたのでしょうか?!それくらい大事にできること、打ちこめるものに出会えたこと、それも自分から求めて得たのではなく、自然に与えられたことに驚いております。

 因幡屋ぶろぐにお越しくださいましたみなさま、ほんとうにありがとうございました。来年もまた、よろしくお願いいたします。どうかよいお年を。

 

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東京バビロン提携公演 pit北/区域閉館公演 パラドックス定数第36項『東京裁判』

2015-12-27 | 舞台

*野木萌葱作・演出 公式サイトはこちら pit北/区域 31日まで(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22
 サブタイトルにある通り、pit北/区域の閉館記念公演。そしてこれが因幡屋2015年の芝居納めの舞台になる。
 10月の俳優座劇場公演からわずか2カ月で、2007年に本作が初演され、その後も繰り返し再演されてきた、いわば「本拠地」で観劇できることはとても嬉しい。狭く暗い階段を降り、客席二面の舞台に小さな机と椅子が置かれているのをみたとき、「こうでなくっちゃ!」と心が弾んだ。

 今回で本作4度めの観劇となってなお、新鮮な刺激と発見があることに驚かされる。とくに本日昼の回はことさら熱い舞台であった。5人の弁護士を演じる俳優それぞれ適材適所の配役であるが、台詞の言い方、間の取り方、顔の向きをほんの少し変えたり、心の動きを表情に乗せる過程など、みごとなものであった。
 自分の感覚の変化としては、俳優の演技についてなのか、演じている役柄、人物その人のことを考えているのか、だんだんわからなくなってきた。
 敗戦から1年しか経っていない日本である。末永(小野ゆたか)は闇物資を拒否して腹を空かせながらも、喧嘩腰の異議申し立てをやめない。星之宮(井内勇希)は本気で勉強した英語を武器に、生き生きと通訳をつとめる。広島で被爆した柳瀬(今里真)は弁論の手助けに専念していたが、終盤でついに立ち上がり、日本の報復権について渾身の抗議を行う。父親が戦犯である水越(植村宏司)は裁判が進むにつれて次第に力強くなっていく。主任の鵜沢(西原誠吾)は、はじめこそいささか小心な調整役風であったが、及び腰の者を鼓舞し、暴走気味の者をやんわりとなだめ、28人の被告ぜんいんを救うことをあきらめない(柳瀬が発言をはじめたとき、舞台の照明が次第に暗くなってきた。これまでもそうだったのだろうか。思い出せない)。

 カーテンコールは拍手鳴りやまず、ダブルコールとなった。『東京裁判』では、いやパラドックス定数でははじめての体験である。客席の期待が高く、舞台がそれにじゅうぶん応えていることの証左であろう。

 終演後、2階の傍聴席から舞台を眺めてみて、ああ、一度はこの席から観劇しておけばよかったかと後悔がよぎった。pit北/区域での本作上演は、チラシにある通り、「これで、最後」である。しかし新しい劇場空間と出会い、いっそう刺激的で心を打つ『東京裁判』に再会することを祈念する。

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鵺的第一短編集

2015-12-25 | 舞台

*高木登作・演出 公式サイトはこちら 新宿眼科画廊 23日で終了  (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11
 はじめての短編集公演とのこと。鵺的公演おなじみのスペース雑遊や「劇」小劇場よりも、今回の新宿眼科画廊はもっと小さい。会場の構造や演出の都合上、遅れて入場することも、途中退場することもほぼ不可能な空間である。体感する広さや雰囲気は、梅ヶ丘BOXであろうか。気温がぐっと下がった祝日の今日は、両隣のお客さまとからだが触れ合うほど、ぎっしり満員の盛況であった。

1、『ふいにいなくなってしまった白い猫のために』
 つきあってまだ日が浅いカップル。妹と仲の良い友だちが恋人になったというつながりだ。互いの距離の取り方へのとまどいか、彼女(堤千穂)は彼(杉木隆幸)を「お兄さん」と呼び、彼は彼女を「日向さん」と名字で呼ぶ。だが彼が実は妹を愛しており、彼女はそれをずいぶん以前から知っていたことが明かされる。
 妹は近々結婚するが、日向さんによれば、ほんとうは兄が好きなのだという。そして「お兄さん」もまた妹への思いを断ち切れていない。「それでもいい、わたしをななみ(妹の名)だと思って抱いてください」ときっぱり。ならば日向さんはほんとうに、芯から「お兄さん」が好きなのかというと、客席から見る限り、確信がもてなかった。そこがおもしろくもあり、痛々しくもある。
2、『くろい空、あかい空、みどりいろの街』
 レズビアンのカップルの凄まじい三角関係のもつれと悲惨な顛末。奥野亮子、高橋恭子、中村貴子が火花を散らす。女性のひとりは、セクシュアリティを隠して裕福な男性と結婚し、自分だけでなく、その恋人までも養わせるという。何と恐ろしいと驚愕しつつ、「そういうやり方があるのか」と感服した。愛のために愛を装うのである。
3、『ステディ』
 ゲイのカップル(平山寛人、稲垣干城)が暮らす部屋に押しかけてくる女性(とみやまあゆみ)。三角関係というか、痴情のもつれが延々描かれる。平山はつきあう相手がいればその人だけという古風な男性だが、稲垣は女性とも軽い気持ちでつきあう。本気にした女性は、彼をまちがった関係から救いだすために、ほとんどストーカーと化す。仕事の関係で部屋に訪れた女性編集者(木下祐子)は冷静沈着なレズビアンだ。

 近親相姦、同性愛と、いずれもマイノリティの関係を描いているが、マイノリティであることが核ではない。相手が肉親であろうと同性であろうと、それじたいはさほど特別なことではなく、ひとつの設定に過ぎない。愛によって人は美しく、強く豊かになると願いたいが、ときにねじくれて手に負えない様相を生みだす。相手をひたすらに愛しているといってもそれはエゴの暴走であり、性的にはノーマルであっても、人の話をまったく聞こうともせず、自己主張を繰り返すのは迷惑行為でしかない。登場人物にはそれぞれ「歪み」があり、それを自分のなかでどうにかバランスを取ることができる人と、歪みがむき出しになって歯止めが効かない人が出会って愛し合うようになってしまったことの悲しみや、第三者からみれば、その様相がときにユーモラスに見えることの残酷が描かれている。

 いつも重苦しい鵺的の舞台だが、今回はさらりと見ることができた。出演俳優さん方も、「追いつめられてる感」が薄れて、作品を味わい、役を楽しむゆとりが感じられる。舞台にある種の「軽み」があることは、観客の気持ちを楽にすると同時に、「あの1本のその後を知りたい」、「長編に書き膨らませることができるのでは」という希望を抱かせてくれるのだ。
 

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劇団チョコレートケーキ with パンダ・ラ・コンチャン『ライン(国境)の向こう』

2015-12-17 | 舞台

*古川健作 日澤雄介演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場シアターウエスト 27日まで
1,2,3,4,5,6,7)快進撃を続ける劇団チョコレートケーキが新たに挑戦したのは、実力派俳優・近藤芳正が主宰をつとめるパンダ・ラ・コンチャンとの共演である。公演チラシに両者の出会いから今回の公演までの歩みが記されている。近藤が2013年上演の『親愛なるわが総統』を観劇して好印象を持ったことにはじまり、半年後の『起て、飢えたる者よ』で、演技アドバイザーとして参加、続いて近藤が長年温めていた企画を演出の日澤に持ちかけ、これが劇作の古川の企画と内容が一致したことにより、最新作『ライン(国境)の向こう』が合同公演として実現の運びになったという。幸運な出会い、企画の一致など、さまざまな条件が結びついてひとつの舞台が作られることの不思議を思う。

 出演陣は、劇団員の岡本篤、西尾友樹、浅井伸治はもちろんのこと、近藤芳正自身、戸田恵子、高田聖子と、テレビや映画の出演が多く、パブリックネームの高い俳優はじめ、自身が所属する劇団だけでなく、さまざまな舞台への客演が多い谷仲恵輔、寺十悟、若手の小野賢章、清野菜名が顔を揃えた。初日の劇場ロビーは、客演陣の幅広い活動を示すたくさんの祝花が立ち並び、立派なパンフレットも販売されている。

 舞台には薄茶色の階段が左右に広がっている(鎌田朋子舞台美術)。第二次世界大戦に敗れた日本が、関東以南の本州、九州、四国で構成され、アメリカが統治する「日本国」、北海道と東北で構成され、旧ソビエトが統治する「日本人民共和国」に分断されたという架空の物語である
 国境はあるものの、舞台となった村に暮らす高梨家と村上家は、それぞれの妻が姉妹であることから、お互い農作業を手伝い、子どもたちの面倒をみたり、これまでと変わりなく助け合っている。村上家には北日軍の下士官が、高梨家には南日軍の一等兵が居候し、国境警備をしつつ農作業を手伝いながら、ほとんど家族のように暮らしている。しかし、村上家の長男が軍隊を脱走してきたことから、両家の関係はしだいに軋みはじめる。

 戦勝国によって日本が分断されるということはまったくありえない話ではなく、劇作家は多くの資料にあたり、架空の物語とはいっても、歴史的事実をじゅうぶんに検討した上で本作を執筆したと想像する。これまで歴史に実在した人物や事件を題材に創作をしてきた「劇チョコ」の舞台を思い浮かべると、大きな変容が感じられる。

 しかしながら、さまざまな新しい試みが舞台を有機的に構成していたかどうか、いまひとつ明確な手ごたえが得られなかった。登場人物は野良着をまとい、農具や弁当の入った籠などをもって出入りする。しかし舞台にあるのは階段だけであり、実際に農業をする場面は描かれない。シンプルで無機的な舞台美術ゆえに観客の想像が自在に広がって、田んぼや畑の土の匂い、人々の汗がかえって濃厚に漂うようであったり、そこに立つ人物がいっそうリアルに際立つという演劇的効果があればと思ったが、舞台も客席も広々として生身の存在が伝わりにくいものになっていた。

 企画面でも意欲的であり、自分たちの劇団とその周辺にとどまらない幅広い演劇人と交わること、そこから生まれる新しい舞台を見たいと願っている。決して「下北やサンモールスタジオのいつもの劇チョコさんがいい」と狭量なことを言うのではない。しかしながら、いまひとつ現実味の薄い物語に、テレビや映画でよく見知った俳優が登場するとき、舞台の空気がどうなるか、客席に届くものがどんなものであるのかを考えざるを得ないのである。

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シアター風姿花伝プロデュースvol.2 『悲しみを聴く石』

2015-12-15 | 舞台

*アティク・ラヒミ原作 ジャン=ルネ・ルモワール脚色 岩切正一郎翻訳 上村聡史演出 公式サイトはこちら シアター風姿花伝 21日(月)まで
 大好評を博した2014年夏の『ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる』に続く第二弾。同じく上村聡史の演出で、本邦初演に挑む。
 公演チラシ掲載の挨拶文に、当劇場の支配人であり、俳優として今回の舞台に立つ那須佐代子が、「(前回の『ボビー~』は)小さな民間劇場の企画公演にしては身に余るような演劇賞をいただきました」と記しているように、シアター風姿花伝は、劇場のあり方、運営方法、さらに支配人がバリバリに主演をつとめるという点でも非常に特殊であろう。さまざまな劇団やユニットから出演者やスタッフを募り、ひとつの公演を企画し、実現にこぎつけることは、こちらの想像が及ばないほどの労苦があると察するが、高い志、あくなき挑戦の姿勢、完成度の高さなど、2回めにして早くも観客の期待を集めるものとして着々と足場を固めつつある印象である。

 公演チラシや当日リーフレットには今回の作品上演のいきさつが詳しく記されている。これは第1回公演の作品選びの段階で、演出の上村が最初に提案してきたものだという。ただ原作が小説であることや、主人公の女性を演じることに那須佐代子の躊躇があり、候補作から除外された。それが何度も原作を読み直し、「これはやられるべき本だと思うに至り」、3年越しの夢を叶えて上演の運びになったというから、関係者の感慨もひとしおであろう。
 演出の上村にとっては、最初は「那須佐代子という表現者をどう見ているか、または自分の好奇心がこういうものにあるという提示だった」そうだが、やはり小説の舞台化という点で、立ち上げるには時間がかかることが懸念されたとのことだ。

 現代の中東。どこかの町。紛争が絶えない。ほとんど廃屋に近いような家のなかで、女(那須)がひとりコーランの祈りを捧げている。傍らには点滴されながら呼吸をしているだけの男が横たわっている。味方の銃弾に当たって意識を亡くしたまま、16日が過ぎた夫(中田顕史郎)である。女はもの言わぬ夫に向かって、ときにつぶやき、ときにぶちまける。身売り同然に結婚させられたこと、原因は夫にあるのに不妊を責められ、暴力的な扱いを受けつづけてきたことなど、これはもう性的虐待といってもいいほどだ。そして銃を持って押し入ってきた敵側の若い兵士(清水優)に対し、女は最初は「自分は娼婦だ」といって強姦から身を守る。それは「若い処女を犯すのでなければ、彼らの手柄にはならない」からであり、しかしそのつぎにやってきた彼は金を出し、女は肉体を差し出すことで身を守る。

 舞台を客席が三方向から囲む作りで、互いの距離も近く、逃げ場がなく息づまるような緊張感に満ちている。ただ予想はしていたものの、ほとんどが主人公のひとり語り状態であることを受けとめ、体制を立て直すことに思いのほか戸惑い、「見る」姿勢を整えるのに時間がかかってしまった。よって集中が保てず、おそらす流してしまった場面や台詞が少なからずあると思われる。本作の場合、意識不明で聞こえていない(と思われるが実は・・・?)夫に、女が一方的に積年の恨みを語る様相というものは、いわゆる「一人芝居」を見ることとは別のエネルギーが必要であった。

 戦乱に翻弄される女性の人生といったものかとぼんやり想像していたが、女にとっては戦争よりも、女という性に生まれたことが呪わしいほど、夫、その母、結婚という制度、概念、因習が苦しみの根源である。
 一片の愛情もなく、自分を心身ともに支配するだけの夫。押し入ってきた若い兵士は金を出して何度か女を抱く。しかし女に不慣れな若者をなだめながらの交わりはむしろ、女にとって救いであり安らぎであったのではないか。若者と女には単にからだの交わりだけではない触れ合いが生まれかけていた。もしかしたらここから女の人生が変わるのではないか。だが物語はまさかの展開を見せ、バタンと扉が閉じられるように終わってしまう。

 ある意味で、不完全燃焼感が濃厚に漂う作品である。重苦しいものが提示されて終わりという印象があり、明確な手ごたえを得るには至らなかった。それを残念に思う気持ちは確かにあるが、本作と出会いによって自分はどこか新しい方向へ導かれるような予感がするのである。

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