因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝稽古場公演『葉桜 岸田國士一幕劇3本立~結婚にまつわる風景』

2018-07-28 | 舞台

*岸田國士作 西川明演出 公式サイトはこちら スタジオM(劇団民藝稽古場内)30日まで
 岸田國士作品を観劇する機会は少なくないが、劇団民藝の公演はこれがはじめてである。確認できる範囲で、別の劇団やユニットでの観劇記録をリンクしておきますので、ご参考までに。→2011年夏の演劇集団円のドラマリーディングは、今回とまったく同じ3本の組み合わせ!ほかに『葉桜』(1,2,3 *2の公演は『葉桜』と『紙風船』の2本立)、『紙風船』(オクムラ宅旗揚げ公演)。
 台風12号の接近が心配される土曜の午後、結婚にまつわる風景は以下の順に上演された。

1、『頼母しき求縁』…結婚相手にいくつも条件をつける娘。紹介されたのは、その全てに当てはまらない男性だが、意外や意外。
2、『葉桜』…お見合いの首尾に気をもむ母と、煮え切らない娘の会話。
3、『紙風船』…結婚1年め、互いが顔を突き合わせる倦怠に悩む若夫婦の日曜。

 『頼母しき求縁』改めて本作の舞台である「結婚媒介所」という機関について考える。現在でもツヴァイなどの結婚産業から婚活ネットまで、当事者の需要によってさまざまなものがあるが、本作のそれは、亡夫が裁判官をしていたという女性が所長を務める、ごく小さなところと思われる。訪れる人々に対して如才なく振る舞い、双方の希望をじゅうぶんに聞いて、ふさわしいお相手を紹介するのであるから、相当「できる」人物でなければならない。そしてこの媒介所を利用するのは、どのような人々なのか。ある程度の社会的ポジションを持つ親であれば、さまざまな人脈から縁談があるであろう。そこを敢えて金を出して媒介所を利用するというのは、何らかの「戦略」があるとも考えられる。本作においても「ただの縁談なら降るようにあるが、当人の希望で広くチャンスを求めたい」という父親の台詞があるが、これまで親戚筋などいくつかの縁談を娘が気に入らなかったという経緯も語られ、もしかすると周囲から匙を投げられた父娘が万策尽きて訪れたのであろうか。相手方の男性は、付き添いの従兄によれば、ほぼ八方ふさがり状態らしく、本人も悲壮な決意でお見合いに臨む。

 俳優がどのような造形をするかによって、戯曲に明記されていない人物の過去や物語の背景が想像されることがある。

 演劇集団円公演では、所長の平木曾根を演じた高間智子が実に明晰な台詞と端正な佇まいで、この人物の知的で上品な様相がみごとに表現していた。ト書きには彼女について特に指定はない。曾根の年齢は四十とあるから、円の高間さんの場合、少々高めの配役だ。しかし前述のような手腕を求められる職であれば、落ち着きと気品を兼ね備えた人物として、適役であると思う。今回の民藝公演では藤巻るもが担った。三十代なかばであるから、戯曲の設定には少々若い。しかし裁判官である夫を亡くして、女手ひとつで結婚媒介所を立ち上げた若い未亡人が、銘々勝手な主張をする(そう思う!)顧客たちの言い分を聞き、ふさわしい縁結びをせんと一生懸命つとめている。そんな泥臭さや若々しいエネルギーを見せる造形も可能かもしれない。

 ふと鷲尾真知子のことを思い浮かべた。その名を広く知らしめたのは、NHK朝の連続テレビ小説『澪つくし』での、あわてんぼうの女中さん役であった。以来、ずっこけたおばさんのイメージが強いが、非常に知的で落ち着いた雰囲気を持つ美しい女優である。もし鷲尾真知子がこの結婚媒介所の所長を演じたならどうであろう。気さくで親しみやすく、何があっても動じない。今回のお見合いはまさかの展開になるのだが、もしかするとそれも想定しての仲介だったのかと思わせるくらい、確かな手腕を秘めている等々、物語が膨らんで非常にわくわくする。

 劇団のプロフィールによれば、藤巻るもは日本舞踊や長唄三味線の心得をお持ちとのこと。こうした素養やキャリアを活かし、新しい曾根所長を見せることも可能ではないだろうか。今回の上演の場合、父親と媒介所長の造形がいささかコミカル過ぎるのではないか。喜劇的な要素を敢えて強調して示す必要はないと思う。

 本作でまことに喜ばしかったのは、お見合いをする当人たちがはじめてお互いに向き合ったときの表情である。これは「一目惚れ」だ。降ってわいたような僥倖を自らが認識し、相手の気持ちを確かめ、結婚を決めるまでのふたりの心模様を考えると、きっと大丈夫、何とかなると、幸せを祈りたくなってくるのである。

 世は結婚難の時代である。生涯未婚率が上がり、少子高齢化が進む。生き方は人それぞれ自由であるが、本作からは結婚に対する夢や希望が温かく伝わる。それも決して浮ついたものではない。収入はいくら、財産はと条件をつけていた娘が、「水仕事だって、やってみなければ分かりませんわ」と、爽やかに自己変革を遂げたのだから。

 当日リーフレットに記された演出の西川明の一文を読み返す。砂防会館ホールで上演された『泰山木の木の下で』(宇野重吉演出 北林谷栄、垂水悟郎出演)が、「まるで映画を観ているような舞台だった」とのこと。舞台表現の可能性に無頓着だった西川は「叩きのめされた」。映画監督になりたいと夢見ていた進路を(舞台へ)決定づけたのだという。西川の言うところの「映画のような舞台」というものが具体的にどんな舞台なのか、自分にはまだピンとこないのだが、今後舞台を見る上で、重要な意味を持ってくるのではないかと考える。

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