因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝稽古場公演『葉桜 岸田國士一幕劇3本立~結婚にまつわる風景』

2018-07-28 | 舞台

*岸田國士作 西川明演出 公式サイトはこちら スタジオM(劇団民藝稽古場内)30日まで
 岸田國士作品を観劇する機会は少なくないが、劇団民藝の公演はこれがはじめてである。確認できる範囲で、別の劇団やユニットでの観劇記録をリンクしておきますので、ご参考までに。→2011年夏の演劇集団円のドラマリーディングは、今回とまったく同じ3本の組み合わせ!ほかに『葉桜』(1,2,3 *2の公演は『葉桜』と『紙風船』の2本立)、『紙風船』(オクムラ宅旗揚げ公演)。
 台風12号の接近が心配される土曜の午後、結婚にまつわる風景は以下の順に上演された。

1、『頼母しき求縁』…結婚相手にいくつも条件をつける娘。紹介されたのは、その全てに当てはまらない男性だが、意外や意外。
2、『葉桜』…お見合いの首尾に気をもむ母と、煮え切らない娘の会話。
3、『紙風船』…結婚1年め、互いが顔を突き合わせる倦怠に悩む若夫婦の日曜。

 『頼母しき求縁』改めて本作の舞台である「結婚媒介所」という機関について考える。現在でもツヴァイなどの結婚産業から婚活ネットまで、当事者の需要によってさまざまなものがあるが、本作のそれは、亡夫が裁判官をしていたという女性が所長を務める、ごく小さなところと思われる。訪れる人々に対して如才なく振る舞い、双方の希望をじゅうぶんに聞いて、ふさわしいお相手を紹介するのであるから、相当「できる」人物でなければならない。そしてこの媒介所を利用するのは、どのような人々なのか。ある程度の社会的ポジションを持つ親であれば、さまざまな人脈から縁談があるであろう。そこを敢えて金を出して媒介所を利用するというのは、何らかの「戦略」があるとも考えられる。本作においても「ただの縁談なら降るようにあるが、当人の希望で広くチャンスを求めたい」という父親の台詞があるが、これまで親戚筋などいくつかの縁談を娘が気に入らなかったという経緯も語られ、もしかすると周囲から匙を投げられた父娘が万策尽きて訪れたのであろうか。相手方の男性は、付き添いの従兄によれば、ほぼ八方ふさがり状態らしく、本人も悲壮な決意でお見合いに臨む。

 俳優がどのような造形をするかによって、戯曲に明記されていない人物の過去や物語の背景が想像されることがある。

 演劇集団円公演では、所長の平木曾根を演じた高間智子が実に明晰な台詞と端正な佇まいで、この人物の知的で上品な様相がみごとに表現していた。ト書きには彼女について特に指定はない。曾根の年齢は四十とあるから、円の高間さんの場合、少々高めの配役だ。しかし前述のような手腕を求められる職であれば、落ち着きと気品を兼ね備えた人物として、適役であると思う。今回の民藝公演では藤巻るもが担った。三十代なかばであるから、戯曲の設定には少々若い。しかし裁判官である夫を亡くして、女手ひとつで結婚媒介所を立ち上げた若い未亡人が、銘々勝手な主張をする(そう思う!)顧客たちの言い分を聞き、ふさわしい縁結びをせんと一生懸命つとめている。そんな泥臭さや若々しいエネルギーを見せる造形も可能かもしれない。

 ふと鷲尾真知子のことを思い浮かべた。その名を広く知らしめたのは、NHK朝の連続テレビ小説『澪つくし』での、あわてんぼうの女中さん役であった。以来、ずっこけたおばさんのイメージが強いが、非常に知的で落ち着いた雰囲気を持つ美しい女優である。もし鷲尾真知子がこの結婚媒介所の所長を演じたならどうであろう。気さくで親しみやすく、何があっても動じない。今回のお見合いはまさかの展開になるのだが、もしかするとそれも想定しての仲介だったのかと思わせるくらい、確かな手腕を秘めている等々、物語が膨らんで非常にわくわくする。

 劇団のプロフィールによれば、藤巻るもは日本舞踊や長唄三味線の心得をお持ちとのこと。こうした素養やキャリアを活かし、新しい曾根所長を見せることも可能ではないだろうか。今回の上演の場合、父親と媒介所長の造形がいささかコミカル過ぎるのではないか。喜劇的な要素を敢えて強調して示す必要はないと思う。

 本作でまことに喜ばしかったのは、お見合いをする当人たちがはじめてお互いに向き合ったときの表情である。これは「一目惚れ」だ。降ってわいたような僥倖を自らが認識し、相手の気持ちを確かめ、結婚を決めるまでのふたりの心模様を考えると、きっと大丈夫、何とかなると、幸せを祈りたくなってくるのである。

 世は結婚難の時代である。生涯未婚率が上がり、少子高齢化が進む。生き方は人それぞれ自由であるが、本作からは結婚に対する夢や希望が温かく伝わる。それも決して浮ついたものではない。収入はいくら、財産はと条件をつけていた娘が、「水仕事だって、やってみなければ分かりませんわ」と、爽やかに自己変革を遂げたのだから。

 当日リーフレットに記された演出の西川明の一文を読み返す。砂防会館ホールで上演された『泰山木の木の下で』(宇野重吉演出 北林谷栄、垂水悟郎出演)が、「まるで映画を観ているような舞台だった」とのこと。舞台表現の可能性に無頓着だった西川は「叩きのめされた」。映画監督になりたいと夢見ていた進路を(舞台へ)決定づけたのだという。西川の言うところの「映画のような舞台」というものが具体的にどんな舞台なのか、自分にはまだピンとこないのだが、今後舞台を見る上で、重要な意味を持ってくるのではないかと考える。

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ドイツ同時代演劇リーディング・シリーズより『フラウ・シュミッツ』

2018-07-26 | 舞台

*公式サイトはこちら ドイツ文化会館ホール 29日まで
 公演チラシには、「現代社会とそこに生きる人間、演劇のあり方を問う最新ドイツ語演劇4作品を一挙リーディング形式で紹介!」と記され、関連企画として作劇法ワークショップや朗読会(本記事のリーディングとは別)とディスカッションなども行われる。会場にははじめて足を運んだが、地下鉄青山一丁目駅から徒歩7分の近場でありながら周辺は緑多く、1階ロビーからは広い庭も見えて、落ち着いた雰囲気の建物だ。連日の猛暑が嘘のように涼しいこの日、自分にとっては非常になじみの薄いドイツ語演劇の1本を体験した。

『フラウ・シュミッツ』…ルーカス・ベアフース作 松鵜功記翻訳 矢野靖人(shelf 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11)演出 ベアフースはスイス生まれ、チューリヒを拠点に活動する作家である。
 フラウ・シュミッツは勤務する会社の重大な任務を背負い、女性をビジネスの相手として認めないお国柄を考慮して、スーツを着た男性としてパキスタンに赴く
。仕事は首尾よく終わるが、帰国した彼女に上司も同僚も困惑し、持て余しはじめる。さらにフラウの家庭はある種の特殊なもので、パートナーや子どもとの関係もまた単純ではないようである。

 舞台の中心にトルソーが置かれ、深いグリーンのロングドレスが着せられている。その両サイドに俳優の座る椅子が数脚、女性の洋服のかかったハンガーもある。黒のスーツを素敵に着こなした冲渡崇史が登場し、『フラウ・シュミッツ』のはじまりである。

 上演後の矢野と翻訳の松鵜氏、出演俳優お二人とのトークによれば、原作戯曲の指定通りのところと、矢野とshelfのクリエイション独自のところがあるとのこと。実は物語冒頭、フラウと彼女を口説こうとしている男性社員とのやりとりで躓いてしまい、舞台に意識を集中するまで少々手間がかかった。と、ここでチラシを読み返してみると、「フラウ・シュミッツ、彼女は本当は何者なのか?」。本作は、登場人物といっしょに観客も混乱させ、翻弄するものらしい

 トルソーが見立てるもの、沖渡が演じているのは誰なのか、果ては川渕優子が演じているのは女性か男性か等々、確かに混乱するが、次第に本作ならではの味わいや旨みとして楽しんでいることに気づく。ジェンダーが反転し、物語が変容する点が本作の魅力であるが、トリッキーな趣向が目的の劇ではない。人間のアイデンティティは、その人が確固たるものを持っているわけではなく、周囲の人々の思惑のなかで形成される面が多々あること、その人と周囲の人々とのあいだで絶えず揺れ動き、変容するものであることなどを、あまり声高でなく示そうとしているところが好ましい。できれば戯曲を読んでみたいものだ。

 矢野は自分たちの舞台の作り方について、「俳優には、テキストと距離は取るが、嘘はつかないで。それぞれ沖渡崇史、川渕優子として存在し、その人とテキストが響くところを大事にしてほしいと話している」とのこと(発言は記憶によるもの)。これまで観劇した矢野とshelfの舞台の印象を思い起こし、物語の世界にどっぷりと身を浸し、俳優には役になりきることを要求するものではないことを改めて認識した。

 リーディング公演のひとつの見どころは、戯曲と作り手との距離の取り方を見せる点である。それがshelfの作劇姿勢とうまく噛み合い、非常に刺激的であり、それでいて実験や試みに留まらず、本作の深い味わいや、フラウ・シュミッツの心の奥底の揺らぎを感じさせるリーディングとなった。shelfによる本式の上演をぜひ見たいものだが、もしこれを超リアリズム演劇として捉えたなら、いったいどんな舞台になるのだろうか。「これしかない!」という強い思い込みでなく、さまざまに想像を膨らませる『フラウ・シュミッツ』。あなたはいったい誰なのか。できればもう少し仲良くなりたいのだが、さてどうしたものか。『フラウ・シュミッツ』。新しい、不思議な友だちができた。嬉しい一夜であった。

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ナショナル・シアター・ライブ5周年シンポジウム

2018-07-21 | 舞台番外編

公式サイトはこちら 青山学院大学本多記念国際会議場 721

 ナショナル・シアター・ライブ(以下NT・ライブ)とは、ロイヤル・ナショナル・シアター(略称ナショナル・シアター 以下NT)によるプロジェクトで、イギリスでの数々の名舞台を収録し、世界の映画館で上映するというものだ。2009年、ヘレン・ミレン主演の『フェードル』にはじまり、40ヶ国で上映されている。舞台本編だけでなく、魅力的な前説が観客の期待を否応なく高め、舞台と同じくインターミッション(休憩時間)があり、そこにも気の利いた工夫が凝らされている。カメラワークは緻密かつ大胆。「映画館の観客がベストシートで演劇を見ているかのような感覚で楽しめるものを」をモットーに、舞台の天井からのショットがあるなど、舞台と客席の息づかいまでもが、より臨場感をもって多角的に伝わってくるのである。演劇の本場イギリスならではのプロジェクトと言えよう。

 日本では2014年、ダニー・ボイル演出の『フランケンシュタイン』が初お目見えして5周年を迎えたことからシンポジウムが開催された。以下プログラムごとの印象である。

*第一部 NT・ライブ 映像放映
 NT は、50周年を迎えた2013年に記念イベントを収録したDVDを作成、このたび日本語字幕付きでNBCユニバーサル・エンターテイメントより発売されることになった。半世紀におよぶ全36場面のうちから厳選した4シーンが上映された。青山学院教授の狩野良規氏は、Tシャツにジーンズの黒子スタイルが実に自然で軽やか。手短で簡潔な前説をされ、気持ちの良い導入となった。

*第二部 NT・ライブの裏話を聞く
 登壇者は、NT・ライブの配給会社である「カルチャヴィル」代表の中村未知子氏、演劇ライターの兵藤あおみ氏。

 観客にとって、映画の配給会社についての実感は乏しいが、一筋縄ではゆかない業界の事情や、大手シネコンの上映をめぐる話など、この場がなければ知ることができない話をお聞きし、配給会社なくして映画が上映されることはなく、必須の存在であることが実感できた。中村さんは「自分は演劇についてはあまり詳しくない」と言っておられたが、演劇に対してニュートラルな感覚の持ち主とお見受けした。先入観なくひとつの作品を捉えることができ、演劇ライターとして情報とフットワーク、人脈を持つ兵藤さんと、まことによいコンビであると思われた。

*第三部 NT・ライブの回顧と展望
 第二部のお二人に加え、東京大学大学院教授の河合祥一郎氏、劇作家・演出家の青木豪氏、映像翻訳家の柏木しょうこ氏が登壇した。二部、三部通して、聞き手は明治大学准教授の井上優氏がつとめた。自分にはいまだに劇団グリング(2014年解散)の青木さんのイメージが強いのだが、この数年間でみるみる活動の幅が広がり、いまや劇団四季公演『恋に落ちたシェイクスピア』の作・演出を手掛けておられる。ロンドンへの留学経験もあり、現場の演出家として、またひとりの観客としてNT・ライブを多く鑑賞し、わかりやすいことばでその魅力を発言しておられた。

 今回のシンポジウムを最も盛り上げたのは、柏木さんであろう。まず驚いたのは、NT・ライブの字幕は言語に関わらず、NTがすべて管理していることだ。先方の字幕が的確でない場合も少なからずあり、柏木さんは「字幕監修」という立場でNT・ライブに関わっておられる。欧米国と日本での「字幕文化」の違い、舞台作品(つまり戯曲)を映像で見せることのむずかしさ、字幕を移すタイミング(箱切り?)には、翻訳者の個性が出るなど、自身が俳優経験をもち、作・演出を手掛けたこともある柏木さんならではのお話に、身を乗り出して聞き入った。

 河合祥一郎氏の話のなかでは、ハロルド・ピンターの『誰もいない国』について、「ピンターの戯曲には全部が書かれていない。俳優の演技が書かれていないところを埋めていく。NT・ライブの本作を見ていると、その様子がわかる」、シェイクスピアの『お気に召すまま』で、「女性であるロザリンドを男性俳優が演じ、物語の最後に「もしわたしが女だったら」と明かす場面のドラマティックアイロニーが素晴らしい」など、見逃したことが悔やまれる。いちばん勇気づけられたのは、「舞台が面白くないのは作り手のせいであり、ご自分が悪いのではないですよ」の一言であった。

  実は自分はNT・ライブのよい観客ではない。2015年『スカイライト』に足を運んだきりである。この作品は、佐藤正隆事務所(現・佐藤正隆シアター・カンパニー)公演、パルコ劇場版のテレビ放映を見たものの、確かな手ごたえが得られず、本場の舞台を見ようと勇んで出かけた。ところが言葉にしがたい違和感と距離感があり、次の新しい作品を見るアクションにはつながっていない。もっとも大きな理由は、向こうの舞台についていけなかったこと、向こうの観客のリアクションが理解できなかったことである。自分の体験した日本の『スカイライト』に、笑える箇所はまったくといってよいほどなかったと記憶する。それがNT・ライブでは何度も笑いが起こるのである。字幕翻訳の台詞を読み、俳優の演技を見ても、似たような感覚は抱けなかったのだ。

 さらにNT・ライブを全く知らない方への説明が存外むずかしいことに困惑しており、このブログ記事ですら、非常に下手な説明を長々と書いているようで難儀している。おそらくその理由は、「舞台は生であることがもっとも重要であり、生命である。それを映像化して提供するのは二次利用であり、もっと言えば一種の邪道ではないか」という圧力(どこの誰からというのではなく、自分で作ってしまった圧力かもしれない)や呪縛(同じく)が、口を重くし、言葉を拙くさせるのだろう。
 しかしながら配給会社、ジャーナリスト、映像翻訳、演劇研究者と、演劇や映画に携わる方々がそれぞれの立場で「この舞台の素晴らしさを伝えたい」「もっと多くの人と、この作品を味わいたい」という情熱をエネルギーに知恵を絞り、人脈を駆使し、労苦を重ねて実現にこじつけ、継続されていることがわかった今、新たな気持ちでNT・ライブに再び足を運ぼうと思う。

 今回のシンポジウムは、インタネットによる申し込みが始まった初日から応募者続々だったとのこと。広いホールはほぼ満席で、興味深く刺激的な話が次々に披露される様子に客席の反応も上々、2度の休憩をはさんで3時間半の長丁場が、ほんとうにあっという間であった。これだけ盛況であるのは、演劇も映画も情報が集中している東京であればこそであろう。自分がそういう環境に置かれていることは大変な恵みであり、感謝して享受しつつ、これをもっと広く知らしめることが重要であり、どうすればよいかと考えると、猛暑のためばかりでなく、軽く眩暈を覚えるのである。

  NT・ライブを地方で展開することは非常に困難で、中村さんは「地方に人はいないんじゃないかと」との発言に場内は笑いに包まれたが、地方出身者の自分はまったく笑えなかった。地方にも人はいる。ただ触れる機会、知らされるきっかけが少なすぎるのだ。何かひとつ投げかけられれば、そこから広がる可能性はあるはず。中村さんはツイッターなど、SNSにおける観客の意見にも目を配っておられるとのことだから、「この町で何とか」「こんな人材がいる」といった情報から、NT・ライブのより充実した展開が実現するのではないか。

 日本ではシネマ歌舞伎、あるいは劇団新感線のライブビューイングなどが、「映画館で見る演劇」として認知されている。NT・ライブも今後よりいっそう広がっていくことが望まれる。しかしそこに、生の舞台を見ることへの強い欲求が希薄にならないよう、通常の映像作品を見るように気軽に足を運びつつも、そこからよりよい舞台に出会うことへの欲求を確かに抱けるよう、観客側も意識を強く持ちたい。前述の『誰もいない国』についての河合さんのお話を聞くと、NT・ライブを見たい気持ちと同時に、戯曲をもっと読み込み、自分の脳内で俳優の演技を立ち上げるなど、決して簡単ではなさそうだが、それだけに新たな楽しみを体験できる希望がわいてくるのである。

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TEAM KAWAI~Attract vol.1~『楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~』

2018-07-20 | 舞台

*清水邦夫作 大場正昭演出 公式サイトはこちら 六本木・Morph-Tokyo 21日まで
 歌舞伎界から劇団新派へ転身した河合雪之丞はじめ4人の俳優による新しいプロジェクトの公演。男優ばかりの座組が、バックステージものの傑作戯曲『楽屋』に挑む。本ブログで追うだけでも以下の観劇歴があり(1,2,3,4)、今回どんなページが加わることになるのか。2日間だけの公演ではあるが、カーテンコールでの河合誠三郎の挨拶を借りれば、「このとてつもない暑さのなか」初日は2回、千秋楽は3回公演の大奮闘である。

 まず実感したのは、歌舞伎の女形は、非常に特殊な存在であることだ。どんなに美しい女に見えようと、今風の言い方で「中の人」はまぎれもなく男である。しかし着物によって腕や足は隠され、からだの線がくっきり出ない見せ方をして、歩き方から何まで女らしいしぐさを身に着け、さらにゆったりとした七五調の台詞を言えば、「ほんとうにこれが男なのだろうか」と本気で思うほど、女よりも女らしい女を作り上げることができるのである。しかしながら、この技をそのまま現代劇に活かすことは、こちらの想像以上に難しいのではないか。

 洋装ゆえ腕や足が晒されると、「中の人」が男性であることが否応なく見えてしまう点は否めない。また胸元の作り方もむずかしそうだ。この点ではずっと立役をしてきた河合誠三郎は戦前の女優役で、浴衣を纏っているためにカバーされており、男役で『斬られの仙太』実演の場面では生き生きして自然であり、ひとつの見せ場になっている。一方で、河合宥季演じる若い女優Dは、からだぜんたいがまことに華奢で、腰も足もすんなりとして、息をのむほど可愛らしい。しかし声や台詞の発し方はまだ途上のようである。

 河井雪之丞演じる女優Cは、なぜ40歳を過ぎて『かもめ』のニーナに執着するのだろうか。さらに、それほど執念を燃やすニーナ役なのに、どうして専属のプロンプが必要なのか。果たしてこの女優Cは、現実においてどれほど優れた女優であるのか。同じ『かもめ』のアルカージナや、いっそ『桜の園』のラネスカヤ夫人へ進むのではなく、あくまで「ニーナ」であるのはなぜなのか。

 河井雪之丞は、冒頭から黒のドレスに身を包み、美輪明宏ばりの低い声で貫禄たっぷりに「わたしはかもめ」の台詞を発した。「中の人」としては40歳過ぎであっても、『かもめ』に登場するニーナは若い娘である。前述の「わたしはかもめ」の台詞は、物語後半、女優を目指した娘の成れの果てのごとく尾羽打ち枯らし、振り絞るように発せられるのではあるが、それはまだうら若い彼女の口から吐かれるからこそ、いっそう哀れで痛ましく聞こえるのである。雪之丞の冒頭の造形については、その意図を知りたい。

 これからも『楽屋』はさまざまな座組で上演されていくことだろう。それだけ俳優はじめ作り手として得るものが豊かな作品であることの証左である。そして重要なのは、観客も座組による比較に終始せず、自分はこの作品に何を求めているのか、どんな『楽屋』を見たいのかと常に考える必要があるということだ。『楽屋』との交わりを継続し、探求する喜びは、観客にも与えられているのである。

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二兎社公演42『ザ・空気ver.2 誰も書いてはならぬ』

2018-07-06 | 舞台

*永井愛作・演出1,2,3,4,5,6,7,8公式サイトはこちら 先月富士見市民文化会館キラリ☆ふじみで開幕し、7月6日まで東京芸術劇場シアターイースト その後9月2日まで全国を巡演 
 昨年冬上演の『ザ・空気』に続く「メディアをめぐるシリーズ」第2弾。志と信念をもって報道番組を制作していた人々が、政界からの圧力に苦悩し、挫折する様相を描いた『ザ・空気』終演後の寒々とした感覚は忘れがたい。

 ver.2は、国会記者会館の屋上で展開する。開幕して無味乾燥な屋上の風景を見ると、前作の終幕が放送局の屋上であったことがどうしても思い出される。あのやりきれなさを、また味わうのだろうか。

 冒頭の不安は半分は杞憂であった。ネットメディア記者(安田成美)は、デモの撮影をしようと本来は入れない記者会館に忍び込み、屋上にカメラを備えた。そこにやってくるリベラル系全国紙の記者(眞島秀和)、公共放送局の記者(馬渕英里何)は、記者会館のコピー機に残されていた1枚の紙を前に喧々諤々を始める。首相が会見を無難に乗り切るためのQ&Aが記されたその紙を見つけてしまった保守系大手新聞社の若手記者(柳下大)、そしてQ&Aを書いた張本人と思われる論説主幹(松尾貴史)もやってきて、報道各社の思惑、ジャーナリストとしての葛藤が、政界とメディアの癒着を巡って迷走する1時間45分である。

 前作に比べると笑いの要素がふんだんに盛り込まれ、客席は大いに沸く。台詞の随所に、不利と思われる証拠が出てきて会見をしなくてはならなくなったが、これを乗り切れば国民は忘れる、首相は副総理より漢字を読める、機械を通した声だから自分のものとは思われないなど、現在の政権の混迷「あるある」がこれでもかと出てくる。どの人物も、それぞれの立場で崖っぷちにおり、真剣そのものなだけに余計におかしい。杞憂だった理由は、この点である。

 松尾貴史は立ち姿も台詞まわしも堂々たるものだ。現首相のものまねをする場面など、松尾ならではの見せ場なのだが、この舞台におけるものまねは、バラエティなどで見せる本気のそれとは違う造形であったと自分は捉える。たしかに似ているが、本来の松尾貴史であれは、対象にもっと肉薄し、そこに毒や針を仕込んで、嫌味なほど技巧的にできるはず。そこを敢えて抑制し、「下手なものまね」、あるいは日ごろからあまりに首相べったりなために「無意識に口調が似てしまった」態のレベルに造形し、結果、この吐き気がするほど小狡い論説主幹の性根を炙りだすことに成功したのではないか。

 安田成美のネットメディア記者は、前作で若村麻由美が演じた報道番組キャスターを、夫と子どもを持つ点でもより庶民的で身近な存在にスライドした印象の女性である。『かたりの椅子』で竹下景子が演じたイベントプロデューサーに似ているところもあり、沢口靖子主演の『シングルマザーズ』での懸命な母たちに似た気質を持つ。ただこれだけ美しい人が娘からの電話に「母ちゃんは忙しいんだ」といった言葉づかいをするのは、声質の点からも少々無理があり(男言葉を使わせるのは、永井愛ならではの主張であるのかも)、オーバーアクションにならない演出のつけ方が必要では?

 目の前の様相はまさに茶番であり、それは取りも直さず、今わたしたちが生きているこの国の政治が茶番状態にあることの証左なのではないか。そう思うと、舞台の右往左往を暢気に笑っているわたしたちは、別のところから笑われているのではないか、笑っている場合ではない、でも何をどうすれば、と次第に心が波立ちはじめる。冒頭の杞憂の残り半分は、やはりやりきれない無力感であり、「おもしろかった」と言い切れない歯切れの悪さであり、持ち帰る課題の重たさであった。しかしそれこそが作者が伝えたかったことではないかと思うのである。

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