因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋7月の覚え書き

2011-07-31 | お知らせ

 一泊二日で南信州へ出かけた。最高齢はたぶん七十代前半の方から、いちばん小さい人は生後八カ月の坊やまで合わせて約三十人がにぎやかに集う。温泉施設で汗を流したあとは、地元で採れた新鮮野菜を使ったおいしい手料理を囲む。星空を観察したり花火をしたり、墓場へ肝試しのナイトハイクもあり。
 夜、離れで布団を敷きながら誰かがつぶやいた。「何だか映画のロケみたいですね」。
 残念ながら天の川は見えなかったが、夏の大三角形や北斗七星、さそり座やカシオペアもみることができた。さらに山の向こうから月が煌々と照り輝きながら昇るさまに言葉もなく。翌日は川遊びのあと、大混雑の中央高速を通って帰宅した。渋谷駅の喧騒にしばし呆然。
 無趣味で出不精なうえ、穴倉のような劇場にこもることが多い身にとっては、異空間にいるかのような感覚であった。

 7月心に残った芝居は月末の一日に集中した。昼間の演劇集団円のドラマリーディング「岸田國士を読む」に続いて、夜は声を出すと気持ちいいの会の『黒猫』。観劇のはしごは疲労困憊が常であるが、この日は心身軽く、余力を感じるほどであった。夕刻から降り出した雨が、終演後には気持ちよくあがり、初日の盛況を寿ぐよう。

 
 

【本】
*ソーントン・ワイルダー戯曲(講談社「世界文学全集88」より)
 『楽しき旅路』 8月に上演される劇団フライングステージの『ハッピージャーニー』の予習を兼ねて。
 『長いクリスマス・ディナー』 昨年柴幸男演出をみたばかりだが、中野成樹演出の舞台が、タンタンの鮮やかな切絵とともにに心に残る。
 『特急寝台』と『楽しき旅路』はいずれも中野成樹演出(1,2)をみているのだが、一度もみたことのない『小説なればこそ』が断然おもしろかった。前述の作品には進行役がいたり、登場人物がこの世からあの世へ旅立ったりと、ある意味で宗教的な到達点を感じさせるのだが、本作に描かれているのは現実世界次元で起こっていることのみだ。四人の登場人物がどんな性格なのか、どんな顔でどんな台詞の言い方をするのか字面から想像しにくく、小説家の妻の台詞を音読して「ひとりリーディング」を試みたりしたがやはりわからない。
 恵比寿の「クリニックシアター」さん、次回公演に本作はいかがでしょうか。
*多和田葉子『アルファベットの傷口』(河出書房新社)
 本書を手に取ったのは、演劇批評誌テアトロ掲載の新国立劇場で上演された『ゴドーを待ちながら』(岩切正一郎翻訳 森新太郎演出)に対する、菅直行氏のすさまじい酷評がきっかけである。今回の新訳への批判に始まり、「多和田葉子の『アルファベットの傷跡』(原文ママ)を見よ!あの小説は翻訳家の実生活の血だらけの格闘から生まれた。」とある。自分は舞台を大変楽しんだが、この批判によって、吸い寄せられるように本書を読むことになった。
 翻訳業の女性が、異国の地で小説を訳している。現地の人々や小説のなかの人物、果ては原作者までがあらわれ、彼女を翻弄し追い込んでいく。描写も形式も独特で、なかなか世界を具体的に感じ取れないが、主人公の雰囲気としては中谷美紀あたりが出てきそうだ。
 原本が消失して翻訳しか残っていない本もあるという話題になり、なぜそれが原本でないと分かるのかと問われ、彼女は「翻訳というのはそれ自体がひとつの言語のようなものだから、何かバラバラと小石が降ってくるような感じがするのですぐ分かる」と答える。また「作者はわたしなど必要としていない」と自暴自棄になる。どこまでが現実でどこからが幻想かはわからないが、彼女は言葉の海から逃げようとするも、海に入らざるをえないことを知っている。外国語に堪能な人を無条件に尊敬してしまうが、自分には想像も及ばない世界である。
 読むうちにゆるゆると眠くなり、我に返ってまた読みなおしては熱帯夜の幾日かを過ごした。

 そのほか室生犀星『蜜のあはれ』(国書刊行会)、松本清張『駅路』/向田邦子『最後の自画像』(新潮社)など。前者は7月19日に亡くなった俳優原田芳雄主演のテレビドラマ『火の魚』が収録してあったもの。後者は松本清張の原作と、向田邦子の脚色によって1977年に放送されたドラマのシナリオが併録されたもの。2009年、役所広司と深津絵里の共演でリメイクされたテレビドラマ『駅路』は素晴らしかった。原作と脚色の関係について考えるきっかけになりそう。

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鵺的(ぬえてき)第3回公演 『昆虫系』(改訂版)

2011-07-30 | 舞台

*高木登 作(1,2,3) 寺十吾(tumazuki no ishi) 演出 公式サイトはこちら スペース雑遊 8月1日まで 
 初演は2004年机上風景vol.10、埼玉県で起きた保険金殺人事件をベースにした作品である。
 わずかのスペースに補助椅子や丸椅子をひとつずつ増やし、客席は隣りどうしの腕が密着しあうほどぎっしり、当日券もキャンセル待ちの盛況である。

 場末のスナックが舞台横いっぱいに作られている。中央に地上に上がる階段、上手にカウンター、下手にソファ席。社長と呼ばれる男が保険業者とグルになり、借金で首が回らなくなった男たちを社員として雇い、彼らに膨大な保険金を掛け、スナックのホステスに偽装結婚させ、さんざんに弄び、虫けら同様に扱う。社会の闇、吹き溜まり、裏社会。金と欲にまみれた鬼畜である。
 

 これまでみた高木登の作品のなかで最も醜悪で陰惨な内容であり、描写であった。
 身も蓋もない表現になるが、この内容をここまでグロテスクに描くのはなぜなのだろう。
 醜悪でみじめで残忍な人間のすがたをリアルに描こうとしているのはわかる。公演チラシには、「暗い、不快だ、むずかしいと言われる自作の衝動の根源にあるのはたいがい義憤で、自分は観客と怒りを共有したくて書いている」と記されており、劇作家のモチベーションの持ち方として、大変まっとうであると思う。
 そして「だがそんな気持ちもつい相対化したくなるので、書いた当人にとっても意地の悪い作風になるのだ」と続く。これもわかる。怒り、それも義憤をそのままぶつけられると、みるほうとしては引く。自分を激しくつき動かす「何か」にそのまま流されるのではなく、冷静にあるいは冷徹に「何か」をみつめ、相対化したところに演劇が成立するのだと思う。それが「意地悪な作風」になるということも察しがつく。作者が聡明であり、創作に対して意欲的である証左であろう。
 自分の内面、心の動きに対してここまで客観的な作者の視点をもってすれば、今回の題材はもっと違う見せ方が可能になるのではないか。
 個人的な好みとして、暴行暴言や女優に際どい演技をさせること、嘔吐などの生理的反応をリアルにみせることに対して拒否反応をしているのではなく、作者の「義憤」「相対化」「観客と共有したい」という方向性が、自分の求めているものと噛み合わないのだ。「暗い、不快だ、むずかしい」というより、「違うんじゃないか」と思うのである。

 昨年秋発行の因幡屋通信36号で、第2回公演『不滅』について考えた。加害者が被害者をいたぶり続け、その諍いを扇動する者が絡む陰惨な物語に示そうとされている希望を見出したく、次回公演に備えようと決めたのだが、その意気ごみは残念ながら持って行き場のないものとなった。山崎哲でもなく土屋理敬でもなく、マキタカズオミでもない、現実の社会、実際に起こった事件に対する高木登の「義憤」が演劇的に昇華した舞台を、自分はぜひともみたいと願っている。 

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 声を出すと気持ちいいの会 第7回公演『黒猫』

2011-07-29 | 舞台

*山本タカ 作・演出 シアターグリーン学生芸術祭参加 劇団サイトはこちら シアターグリーンBASE THETER 31日まで (1,2)
 シアターグリーン学生芸術祭は、自分たちの学内で活動している学生劇団が、より多くの観客の目に触れてほしいとの思いから2007年に始まったフェスティバルである。約1か月間、5つの劇団が公演を行う一方で、毎週月曜と火曜にはそれとは別の6つの劇団が30分の短編を3本ずつ上演するショーケース企画「TangPeng30!」も行われる。何が出てくるかわからない、熱気に溢れた盛りだくさんのお祭りだ。

 先陣を切るのは、明治大学の演劇集団声を出すと気持ちいいの会(以下コエキモ)の『黒猫』である。エドガー・アラン・ポオの小説『黒猫』と数編の詩をベースに、ポオ自身の人生を90分の物語に構成したものだ。
 2009年春、第3回公演で初演された作品を初の学外公演に向けて戯曲も演出も一新し、芸術祭のトップバッターをつとめた。生憎の雨となったが、開演まぢかに汗だくで駆け込んでくるお客さんもあって、ほぼ満席の盛況。

 物語はポオ自身が小説『黒猫』の主人公であるという設定で進行する。幼くして両親に死なれ、裕福な養い親に引き取られるも、文学を志して出奔する。作家として認められたいと強く願いながら仕事は思うようにならず、酒に溺れる日々。おさな妻は痛ましい死を遂げ、ポオはそのあとも幾人かの女性と恋をするが、40歳でこの世を去る。いま、ポオの作品は世界中に多くの愛読者、信奉者を持つが、彼自身は称賛を実感することもなく、失意のなかで亡くなった。苦しみ傷つき、病むために生まれてきたのだろうかと思うほど、彼の人生は痛ましい。

 自分はポオの熱心な読者ではないこともあり、『黒猫』にしても『モルグ街の殺人』にしろ、おどろおどろしい描写や悲惨な結末など、ホラー、オカルト風の箇所ばかり迫ってきて、繰り返し読もうとは思えないのが正直な気持ちだ。今回の舞台が単に小説の『黒猫』を舞台化したものであれば、食指が動かなかっただろう。
 『黒猫』とポオ自身の人生が重ね合わされたとき、彼はこれほどまでに暗く救いのない残虐な小説を書き、その一方で瑞々しく、輝くように美しい詩を綴っているのはなぜなのか、みずからを切り刻むような創作の苦しみとともに、数奇な人生を送った19世紀の異国の人が、生々しい血肉をもった人間として感じられてくるのである。

 ポオ役の後藤裕哉以外の5人の俳優は、妻や義父、編集者や警官など複数の役だけでなく、黒装束に身を固め、「黒猫」役も演じる。中央に扉、左右に出入り口があるだけのシンプルな舞台であるが(舞台美術:きたざわふみこ)、目まぐるしい場面転換があり、そのなかで俳優は机や椅子、酒樽などの小道具を移動させる。これらを無理なく矛盾なく行うために、俳優の動線?を決める演出家、またそれを身体にたたき込んでミスなく行う俳優には、大変な労苦があったと想像する。

 冒頭と終盤に、群衆がポオのことを「社会に適応できなかった者だ」と糾弾する台詞がある。自分の存在を他者から認められ、できることなら愛されたいと切望しながらそれがかなえられないことに病む現代人の心象を照射していると明確に主張するものではなく、そこがよかったと思う。このあたりはじゅうぶんに考えて改めて書きたいが、自分探しやコミュニケーション不全、自己解放など、劇作家個人の小さなスペースで示される劇世界は枚挙にいとまがなく、今なら震災や原発事故に衝撃を受けた自分を持て余して悩む様相が、他者に提示するには不十分な描写のまま放り出されているようなものもあって、ときおり食傷気味になる。

 劇作家山本タカがオリジナルでなく、既にある小説や戯曲、詩などをベースにして自らの劇世界を構築する手法を若くして手の内にしていることは、特筆すべき点であろう。奇想天外なSFものや凝りに凝った手法が観客を驚かせるオリジナル作品に比べれば非常に地味であり、分の悪い面もあるだろう。しかし敢えて奇をてらわず、江戸川乱歩の『芋虫』やシェイクスピアの『ハムレット』などに誠実に向き合い、原作の魅力をもっと深いところから掘り起こし、誰にも真似できない「コエキモ」の舞台を作り上げる姿勢は、もっと多くの人に知られてよい。
 音楽の使い方や俳優の造形などの演出面については、研究改善の余地があるだろう。他大学の劇団と競う今回の芸術祭では、自分の作劇や演出について自信が揺らいだり、疑念がわくかもしれないが、取り入れるものと貫くものとのバランスを柔軟にとりながら、頑固に生真面目に舞台を作り続けてほしいと願っている。

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演劇集団円 ドラマリーディングvol.2「岸田國士を読む その1―あゝ、結婚―」 

2011-07-29 | 舞台

*岸田國士作 公式サイトはこちら ステージ円 30日まで
 結婚をめぐる三つの作品を次の演出で。
「頼母しき求縁」 大間知靖子演出
「葉桜」 小森美巳演出
「紙風船」 小川浩平演出

 岸田國士作品に関する記事はこちら→1,2,3,4,5,6,7,8,9,10
 特に意識していなかったのに案外な本数であることに少し驚く。
 いつもよりも高めに作られた舞台には椅子と譜面台(この場合は台本台というのだろうか)、上手にト書きを読む俳優が位置する。極めてシンプルな形式のリーディングであった。3つの作品のうち、はじめてみる(聴く)「頼母しき求縁」 がもっともおもしろかった。

 結婚相談、仲介所で行われる一組のお見合いの様子を描いた作品である。父親に連れられた娘は具体的な条件をいろいろと提示し、強気な姿勢だ。相手の青年は年上の従兄に付き添われ、この縁談がまとまらないなら、もう自分は結婚などしないと悲壮感を滲ませている。両者が話をするうちに、青年の釣り書きの内容はほぼでたらめであることが次々に明かされるのだが意図的ではなく、娘の提示する条件に合わなければ合わないほど、多少素っ頓狂なところはあるものの、彼が良心的で伸びやかな心をもった人物であることがわかってくる。
 まともな収入も財産もなく、毎月どうして暮らしていらっしゃるのですかという娘の問いに、毎月はどうかわからないが、毎日ならやっていってますとにこにこしている。開き直っているわけでもなく、事実をありのままに話しているだけだ。実に清々しい。
 青年に水仕事など出来ますかと聞かれた娘は、やってみなければわかりませんわと次第に打ち解け始める。最初はまったく一致点などないと思われた男女が、いったいどんなめぐりあわせか、まさにご縁としか言えない不思議な導きによって意気投合する。まさかの展開。いやこうしてみるとなかなかお似合いのふたりではないか。客席に温かな微苦笑がひろがる。仲介所の職員?を演じた高間智子の台詞は、聞いているこちらの背筋が思わず伸びるほど格調高く美しい。ベテラン、中堅、若手みな過不足なく演じてすっきりとした味わいを残す。

 「葉桜」に描かれる母娘の泣き笑いの会話は何度みてもしっくりこないのだが、柳川慶子演じる母親が、娘に自分のような苦労はさせたくないと願いながら、結婚を迷う娘の背中を押す姿に胸が疼いた。「紙風船」の終幕、隣家の少女が投げ入れた紙風船と戯れる妻をみつめる夫のまなざしに、胸が締めつけられる。どうしてこの人はこんなに切なげな眼で妻をみるのだろう。

 結婚難の時代と言われる一方で3月11日の大震災以降、結婚が増えたという報道も目にした。家族の絆、人と人とのつながりがいっそう求められるなか、社会の孤族化の根は深い。誰と結婚すればよいのか、そもそも人はなぜ結婚するのか。正解のみつからないことのなかに宿る奥義を岸田國士戯曲の世界に探す。不思議で贅沢な90分のステージであった。
 

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中津留章仁LOVERS VOL.4『黄色い叫び』

2011-07-28 | 舞台

*中津留章仁作・演出 公式サイトはこちら 新宿タイニイアリス 31日まで
 4月に初演の舞台が好評を博し、早々に再演の運びとなった。当日リーフレットに初演が「演劇評論家に太鼓判を押される」と記してあるように、3月11日の東日本大震災からわずか1か月後に、その災害に正面からぶつかった本作は小劇場界のみならず、多くの人々に衝撃を与え、称賛を浴び、見逃した人に「再演はぜひとも」との気持ちを掻き立てるものになったようである。

 実は初日に観劇したのである。もう1週間も経ってしまった。初演をみた夜は心が高揚し、前のめりになって記事を書いたのに、まるで宿題を先延ばしにしている子どものようにぐずぐずしていたのだ。

 10名の登場人物のうち初演から続けて出演する俳優は3名で、早々の再演を違う顔ぶれで作品の新たな面を引き出そうという意欲が感じられた。人物の関係に新しい設定が加えられていたり、台詞の増減もあるが、登場人物、物語の設定の大枠は初演と変わらない。テアトロ8月号に掲載の戯曲は初演版である。

 再演というのはむずかしいものだ。ましてあの大震災が題材になった作品である。4月に観劇したときは、繰り返し報道される被災地の惨状、福島第一原発事故による首都圏の混乱が生活実感のなかに生々しくあって、舞台から発せられるものがからだに直接ぶつかってくるような痛みや皮膚がざらつくような感覚があった。
 物語の設定は2011年の夏である。春にあって「今年の夏はどんなことになるのだろう」と、恐怖に近い不安を抱いていた身には、本作の放つエネルギーを受けとめるだけで精いっぱいだったのではないか。そして恐れていた夏が来た。被災地の復興はなかなか進まず、原発事故の収束の先は見えない。九州電力のやらせメール事件や、「稲わら」による食肉汚染など、天災と人災が複雑に絡み合い、政局は目を覆うばかりに混乱している。

 初演のときの未来が現在になっており、そして時々刻々状況は変化している。時の流れは容赦ない。そのなかで本作を再演するのは、単に初演が好評であり、見逃した多くの人の要望に応えるためだけではない、新しい視点、切り口が必要だと思う。付け加えられた台詞に、原子力保安院の広報担当者が更迭されたことや、なでしこジャパンのことなどがあって、初演以後のいまを反映させてはいるが、舞台を動かすために有機的な作用はしていない。また人物の設定や造形がひどく表面的に感じられ、台詞が粗かったり展開が雑にみえたり、初演ではあまり気にならなかったところで引っかかり、筆を鈍らせるのである。気にする余裕がこちらになかったこともあるし、「震災後1か月でこの作品を上演したのだ」ということに呑まれてしまったとも言える。

・・・これではやりかけの宿題である。もっとしっかりしようと思う。この作品のどこが素晴らしいのか、どこに問題があるのか。受けとめる側の問題も含め、もう少し考えたい。
 

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