*木下順二作 丹野郁弓演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 第一部『審判』と交互上演 3月10日で終了(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31,32)
当初本作は1970年、『審判』とともに一挙上演の予定であった。しかし作者の意に充たず、上演中止の申し入れにより、第一部『審判』のみの上演となったいきさつがある。その後改訂され1987年、ようやく第二部『夏・南方のローマンス』(宇野重吉・内山鶉演出)として上演の運びとなった、いわくつきの作品である。自分は2013年の再演(丹野郁弓演出)を観劇し、深い感銘を受けた。もう5年も経ったのか。
戦争中と戦後。日本と南方。異なる時間と場所が交錯するだけでなく、戦後の日本に生きているふたりの女が、ひとりの男をめぐる日本人の罪と罰、裁きの様相を劇中劇のごとく見つめている作りは、やはり斬新だ。テレビドラマでも映画でもない、演劇ならではの趣向であり、劇的緊張が次第に高まるほどに、「自分の作品が自分に書き改めを迫った」と、上演中止を申し入れた劇作家の苦渋を想像するのである。
初演から30年を経た今、日本は戦争責任と歴史的認識を明確にしておらず、特にここ数年のあいだに共謀罪法が成立し、憲法九条改憲の論議は混迷し、そしてこの世から戦争が絶えた日はない。
戦友は悪い夢だったと罪悪感を退け、子とともに残された妻は何もかも忘れたいと言い、女漫才師は「絶対に忘れない」と呼びかける。公園で眠ってしまった彼女の髪に触れ、去っていく男の眼差しが優しい。現実の会話と過去のやりとり、そして女の思いのなかで、交わし得たかもしれない、あるいは話したいこと、伝えたいことが交錯する場面は幻想的で美しく、それだけにいっそう哀しみが募る。
『審判』と本作のどちらにも出演する俳優もあり、急病による降板で配役が変更になったり、労苦の多い一挙上演であったことと想像する。同じような機会はたやすく訪れないであろう。それだけに劇団として、劇作家からこの作品群を託されたことをどうか次世代の俳優はじめスタッフに継承することを切望する。観客もまた見ること、考えることを生まず弛まず継続していきたい。
2月26日の朝日新聞に、62年前に作られた戦犯の祈りと平和を問う「愛の像」が、撤去と復活を繰り返した歴史についての記事が掲載された。「愛」の文字だけが刻まれた像が語りかけるもの。本作の終幕で女漫才師が見えない相手にぶつける叫び。戦争の不条理を自らの死によって受けとめた男、抗い続ける女。前者はこちらの背の辺りに視線が感じられ、後者は掴みかからんほどに荒々しい。いくつも見る芝居のひとつとして流すことはできそうにない。
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