因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

かもめマシーン『プライマルスクリーム』

2011-03-27 | 舞台

*萩原雄太 作・演出 公式サイトはこちら 下北沢楽園 27日で終了
 心ひかれたのは、本公演の詳細に記された主宰の文章の以下の箇所であった。

★「だから」も「けれど」も「こんな時だからこそ」もなく、我々は、この劇を上
演します。それは何も「命がけで演劇をする」というような熱の込もった行為 ではなく、とても「平熱」で、「普通」の判断にすぎません★

 震災以後の劇場で、「今だからこそ芝居をやる」という熱気に少しずつ違和感をもちはじめているが、それをはっきり口にすることが憚られる空気が既にある。自分の気持ちはどこにあるのか。その微妙なところを萩原雄太は気負うことなくきちんと表明している。「日常」における演劇とは何なのか、「今、ここ」に存在する俳優の身体性、演劇の嘘について記された当日リーフレットの挨拶文も同様で、確かに3月11日以前とは激変してしまった「日常」であるが、その変化を冷静に受けとめ、自分たちの方法で演劇にしようとしていることが伝わってくる。密やかな熱気とでも言おうか。

 

 劇場は演技スペースはもちろん客席まで芝が敷きつめられていてほかほかと暖かい。何もない分譲地を前に、不動産会社の営業マン、土地を買おうとしている夫婦、かつてその土地に住んでいた人々の血族だと名乗る青年などが登場する。客席にも頻繁に(自分の感覚としてはそう思った)照明があたり、人物が突如客席に向かって延々と自分の思いのたけを語る場面もある。チェルフィッチュの手法に影響を受けているのかとも思ったが、演劇を作ることに対してどんな気持ちであるのかは前述の文章などから感じとれるものの、それを舞台でどう表現するかは、もっと突きつめる必要があるのではないか。

 自分が昨年見逃して悔しい思いをした舞台のひとつが、萩原雄太演出の『4.48サイコシス』(サラ・ケイン作)である。主宰のブログ「深川日記」もおもしろく、読み始めると止まらなくなりそうなので、今夜のところはやめておこう。「かもめマシーン」とは、チェーホフの『かもめ』とハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシーン』という「正反対の戯曲」から命名したものだそう。このあたり、一筋縄ではいかないものを感じる。チェーホフならどうにかなりそうだが、ハイナー・ミュラーはお手上げ分野なのだ。ならばなおさら萩原雄太がしようとしていることをもっと知りたくなった。自分にとってそうとうな負荷であり、収穫よりも困惑や消耗の実感が強いかもしれないが、もう少し頑張ってみたいと思う。

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文学座有志自主公演 久保田万太郎の世界第9回

2011-03-26 | 舞台

*久保田万太郎 作 公式サイトはこちら (活動レポートに詳細) 文学座アトリエ 27日で終了
 鵜澤秀行 演出『暮れがた』、黒木仁 演出『一周忌』に、福田善之 作 鵜澤秀行 演出 坂部文昭一人芝居『草鞋をはいた』を加えた3本立ての企画。
 3月末というのに何という寒さ。開演前に演出の鵜澤さんから客席にご挨拶があった。昭和20年『女の一生』初演のときのこと。鉄かぶとや防空頭巾をかぶった人たちが劇場に行列を作り、空襲警報で何度も中断しながら上演を続けたこと・・・。そうでしたね。これは既に知っている話である。しかしこれまでとは違う感覚をもってしみじみと聴き入った。戦争中といまとを簡単に比較することはできないが、衣食住満たされず、生き死にがかかっていたときになお舞台を作りたい、みたいと思う人の気持ちを考えた。心を落ち着かせよう。

 

 坂部文昭の一人芝居は、三味線(エイコ)と切り絵が加わって上質な語りものの味わい。
 10分の休憩ののち、『暮れがた』が始まった。明治末、浅草三社祭りの二日め、ある商店の店先でのほんの1時間ばかりの物語だ。店のおかみを演じる赤司まり子の流れるような台詞に惚れ惚れと聴き入る。久しぶりに訪れた客が、かつて羽振りがよかったものの、次の商売がうまくゆかないことに気落ちして何度も酒を断るのを、「そうおっしゃらず」と呑むようにしきりに勧める。柔らかく根気よく、決して執拗ではないけれど、どうしてそこまで呑ませようとするのかと戸惑うが、「苦労は苦労、お酒はお酒ですよ」(語尾は少し違ったと思う)と、遂に客に杯をとらせる。何をどういうふうにとまではわからないけれど、おかみは人間の、人生のことをよくよく知っているのだと思う。杯が進んで客は気持ちが明るくなり、浅草に留まることを決めたのだから。

 舞台に姿も台詞もすっかり溶け込んでいる俳優さんがいる一方で、どこかしっくりせず、ぎくしゃくした感じの俳優さんもあって、出番が少ないだけに余計ぎこちなさが目立ってしまうのは致し方ないのだろうか。本作でもまったく、あるいはほとんど台詞がなく、短く出入りするだけの役だったり、たとえば他の作品なら『釣堀にて』の釣り堀で働く小女や、『ふりだした雪』の蕎麦屋の女中であったり、どこがどうと具体的に言えないし、「身体性」の違いとまで言うと大仰だが、「在り方」の違いというと別な意味で深くなってしまう。

 2本めの『一周忌』では、饒舌な人物とほとんど聞き役のやりとりが結構長く続く。ほとんど一人語りに近く、達者な台詞まわしであるがいささか作り過ぎにみえ、後半登場する姉役にも似たような印象をもった。本作には肌や下着を見せずにすいすいと着物を着換える場面があり、昔なら誰もができたことなのだろうが、いまでは神技である。

 文学座のアトリエに来るのは数年ぶりになるが、来るものを包み込むような雰囲気は変わらない。おもてとは違う時間が流れていた。久保田万太郎の世界。これからも年に一度でいいから是非続けていただきたいと思う。知らないものを知り、忘れていたものを思い出すために。

 

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パラドックス定数 第25項『Nf3 Nf6』

2011-03-26 | 舞台

*野木萌葱 作・演出 公式サイトはこちら アートコンプレックス・センター 27日で終了(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10)
 第24項『5seconds』をみたのは3月10日。翌日だったら確実に帰宅難民になっていただろう。というより、劇場に行きつけたかどうか。11日の震災当日も、各地で公演中止があいついだ12,13日もパラドックス定数は上演を行った。自分はパラドックス定数の公演で劇場に入って作・演出の野木萌葱さんのすがたをみるとき、言いようのない安心感を覚える。何があっても動じない、平静そのもの。これからみようとする舞台はおそらく緊張感が漲り、安易な共感や感情移入を許さないものであろうが、上演前に野木さんの挨拶が始まり、低く柔らかい声を聞くと、「この人についていけばきっとだいじょうぶ」と思えるのである。強い余震があったときの避難経路などの説明があり、停電になったときは「懐中電灯で上演を続けます。いえほんとうです」。きっちりと折り目正しい口調のなかに、ゆったりしたユーモアもあって、安心感と同時に「さぁ、これから舞台がはじまるぞ」と背筋が伸びた。気持ちを切り替えよう。
 客席が両側から演技スペースをはさむ作り。入口はいって向こう側、最前列に席をとった。
 右に椅子が2脚、左にチェスの置かれたテーブルがある。収容所の一室にナチスの将校がひとりの囚人を抱えて入ってくる。2人は数学者であり、かつて同じ大学で議論を戦わせた盟友であった。

 本作は2006年に初演、2007年にサンモールスタジオプロデュースでも上演されているが、自分はいずれも未見である。数学やチェスが重要なモチーフであり、劇中のチェスの棋譜や数学用語が理解できればと欲がでるものの、理解できなくても舞台を味わう上で大きな妨げにはならない。戦闘の暗号解読をめぐる攻防は、完全に将校が優位に立つ力関係が次第に変化していく。
 パラドックス定数ではおそらくはじめてみる外国ものであり、将校(西原誠吾)はドイツ人で、囚人である数学者(植村宏司)がユダヤ人の設定と思われるが、いわゆる「翻訳もの」の印象はなかった。実際に起こった事件を題材に作者の想像力(創造力も)が発揮されたこれまでの作品ともひと味違い、第二次大戦末期の死線において、敵味方同士がほんのつかのま、かつてお互いが心を奪われた数式とチェスの美しさに酔い、しかしそれでも無残に現実に引き戻されるまでの夢のように悲しく切ない物語とみた。

 当日リーフレット掲載の野木萌葱の挨拶文に、「これは、パラドックス定数の作品の中で、いちばん美しい作品です」と書かれている。「美しい」という言葉について考える。中学2年のときの数学の先生のことを思い出した。新任で情熱に溢れ、あたりまえすぎて逆に変な言い方になるが、数学が大好きな方であった。黒板に連立方程式を書き、「美しいですなぁ」としきりに感嘆していらした様子が目に浮かぶ。自分には残念ながらまったくわからなかったが、『Nf3 Nf6』が「いちばん美しい作品」であることは、なぜかわかるように思えるのである。
 収容所では毎朝おもしろ半分に囚人を狙撃して殺しているらしく、この朝は数学者が餌食になるところを将校に救いだされた。人間扱いされない側はもちろん、人を人としてみない側も激しく心すさみ、ささくれ立つ。一室で将校とチェスを指した数学者の「人間扱いしないでください」という台詞の痛み。「こんな風に、美しいものを見せて。触らせて。人間扱いしないでください」
 「美しいもの」とは、自分が最も心解き放たれ、それに触れるとき、生き生きとした喜びを与えられる何かではないのか。「美しいもの」を共有できる関係は、成就した恋愛のごとく甘やかな至福の交わりといえよう。

 公演のあとは必ず上演台本を購入することにしている。おもしろいのはト書きの描写だ。登場人物の気持ちが、ひとりごとのように記されており、読み返すごとに舞台の印象が鮮やかに蘇り、変化していく。本作は小さなライト2つだけの照明で上演された。暗い上に、場面によっては人物が完全に背を向けてしまうところもあって表情がみえない。そのぶん台詞はもちろん、かすかな息遣いも聞きもらすまいと耳を澄ませたが、客席の咳払いやからだを動かすときに立てる椅子の音、後ろの席から聞こえる荒い呼吸(「いびき」でしょうか?)にさえ遮られることもあった。上演台本から想像する舞台は、完全に自分だけのもの。ト書きの部分は野木さんの声で読み、「ひとりパラドックス」を堪能している。

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こまつ座  第93回公演・テレビ朝日共同主催 『日本人のへそ』

2011-03-25 | 舞台

*井上ひさし 作 栗山民也 演出 小曽根真 音楽 謝珠栄 振付 公式サイトはこちら シアターコクーン(1,2,3,4) 27日で終了
 震災直後の数回が中止になったが、力強く再開された。井上ひさしのデヴュー作、自分は未見でもあり、喜び勇んで予約した席は前から2列めの中央だ。席からうしろをみるとずっと上までいっぱいのお客さん。嬉しいなぁ。

 

 自分の「井上ひさし歴」を思い起こしてみると、初期の作品が再演になってもほとんどみていないばかりか、戯曲もきちんと読んでおらず、猥雑なエネルギーが爆発したり、毒気が多く後味悪かったり、終演後にどうしようもなく暗い気持ちになるものに対する苦手意識が強いことがわかる。井上ひさし=感動作。この図式にあてはまらないものが、いやそうではなくて、自分の思い込みや決めつけの枠から飛び出すものに出会ったときにどうするか。安定した印象だけを期待する自分の甘い姿勢が問題なのだ。

 井上ひさし追悼ファイナル公演となった本作は、ミュージカルから新劇から小劇場からアングラから、多彩、豪華というより、「これをいっしょにしたらどうなるんだ?」と不安を抱かせるほどの出演陣である。辻萬長の安定感、たかお鷹のこれでもかというくらいの悪ふざけ風、ミュージカルの端正な二枚目がよくもここまでと思わせる石丸幹二、空恐ろしいくらいの風格をみせる笹本玲奈など、俳優すべてが自分の役を最大限に演じていること、小曽根真の音楽が斬新で魅力的であることなどなど、新聞やさまざまなネットの劇評に記されていることを読んで、「もっと違う切り口の批評はないのかな」ともの足りなく思っていたが、観終わったいま自分もほとんど同じ印象をもった。もちろん3時間の舞台をまったく見あきることなく楽しんだ。しかしそこから何をどう考えるか、どんな方向で劇評を書くかということが考えられないのである。
 これは作品や演出に問題があったわけではなく、ほとんどすべて自分自身に起因することであり、今後井上ひさし作品が上演される場合、ただ懐かしさや「あのとき味わった感動」を同じように求めるのではなく、自分の中に問題意識をもって舞台に臨まねばならないだろう。

 もうじき桜の季節である。井上ひさしが亡くなってから来月で一年が経つのだ。終演後、もう一度客席からうしろを振り向いてみた。両袖の通路に立ち見のお客さんもある。舞台を楽しんだ満足感に溢れる多くの笑顔。この世に人生が与えられて、電車もどうにか動き、町中がいつもより暗いけれども井上ひさしの舞台がみられる幸せを改めて噛みしめた。

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文学座有志による企画公演『アズ・イズ 今のままの君』

2011-03-25 | 舞台

*ウィリアム・M・ホフマン 作 沼澤恰治 訳 中野志朗 演出 公式サイトはこちら 文学座 新モリヤビル1階 27日で終了
 当日リーフレットに演出の中野志朗の挨拶文が掲載されており、本作は1985年、「当時のニューヨークのゲイ・コミュニティにおける空前のエイズ騒動に取材して」書かれたものとのことだ。自分が「エイズ」のことを知り、日常会話で見聞きしたのは86年か87年ごろと記憶する。当時はまさに罹患したら最後、死に至る病であり、同性愛者のなかで広がりつつある特殊で恐ろしげな、自分とは遠い場所にあるものという認識であった。その後ゲイを題材とした芝居、そのなかに半ばお約束のように折り込まれるエイズの話題に、よくも悪くも次第に「慣れる」感覚になっていった。
 それから20年以上もたった今はエイズに対する知識や認識が変わり、何より劇団フライングステージ(1,2,3,4,5,6,7,89) の舞台との出会いが、同性愛に対する自分の意識はもちろん、演劇人生に多大なる影響をもたらした。同性愛やエイズは決して舞台上の設定ではなく、自分の人生、日常と同じく現実に存在していることが実感できる。
 80年代のニューヨークで、ゲイのカップル(ソール/横山祥二、リッチ/斉藤祐一)が登場する。リッチがエイズを発症し、リッチがそれを受け入れるまでを、2人の家族や友人、ホスピスワーカーや医師などを絡めながら描く1時間50分の物語である。

 建て変わった文学座に行くのはこれがはじめてで、アトリエの手前に「新モリヤビル」がある。舞台と同じ高さから客席が組まれた作り。壁も床も黒く塗られ、床には椅子が数脚、壁にはさまざまな衣装、小道具類が掛けられている。出演俳優は白と黒のシンプルな衣装で、ソールとリッチ以外は壁にかかった上着や帽子などを加えながら複数の役柄を兼ねる。

 冒頭、ホスピスワーカーの女性(麻志那恂子)が客席に向かって語りかける。舞台の照明が思ったより強く客席にあたり、また人物との距離も近く感じられ、ホスピスワーカーぜんたいのたたずまいが、舞台の人物というよりも客席に向かって語りかけるという強い方向性をもっていることに戸惑った。客席を舞台に巻き込んだり、物語の一部に見立てる設定は珍しいことではないが、今回の舞台はどのあたりを狙ったのだろうか。前述のように主演の2人以外は多くの役を兼ねるが、その演じ継ぎ、演じ分けも巧みで混乱することはない。さまざまな立場にある人々の思惑のなかで、リッチは自分の病を、ソールは病のパートナーをどう受けとめていくかという物語の主軸が次第に明確になっていく過程が本作のみどころになるが、出演俳優がはけることなく、ずっと板付きで通すことや電話のコール音やカーテンを閉める音を俳優が音声で表現すること等々、これまで別の舞台で体験していることもあって、とくに新鮮に感じられないのはまだしも、微妙な違和感があったのはなぜだろう。舞台から発せられる熱気をどのように受けとめればよいのか距離感を測りかね、終始迷いながらの観劇となった。
 ホフマン自身のセクシュアリティがどうであるかも少ながらず重要になると思うが寡聞にて自分は作者のことを知らず、本作がはじめての作品になった。原作にどこまでどのような指定があったかがわからないのだが、戯曲を読めば俳優が演技する上で客席との距離をどう取るか、そして客席が舞台に対してどのような在り方をするのかが多少はわかるかもしれない。本作上演について、関わった方々の並々ならぬ思いは舞台からも公式ブログからも伝わってくる。はじめてみる俳優さんも数年ぶりの方(1,2)もあり、若手中堅ベテランが力を尽くして実現した舞台だ。国中が震災の影響で揺れ動く日々、劇場に身を置いてようやく平常心を取り戻せた。『アズ・イズ』はいろいろなアプローチでの上演が可能な作品であると思う。病は医学で克服できても、同性愛への偏見、家族の確執に人種問題や宗教が絡むとそう簡単に解決はしない、永遠の問題である。本作をエイズと同性愛を題材にしたものと決めず、ひとりひとりがかけがえのない人間であり、互いが互いを「アズ・イズ 今のままの君」であることを認める過程を描いたものとして、ニュートラルな状況で何年か後にもう一度出会いたい。

 

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