因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

反対側から『インテレクチュアル・マスターベーション』

2009-03-31 | 舞台
*このあいだは劇場入って左側のゆったりめ椅子席で、今回は反対側のパイプ椅子席、それも前から2列めに座ってみた。心身覚醒して最後まで堪能。1回めはこんなありさまだったがとにかく1度みたことと、そのあとで読んだ上演台本で、舞台空間の作りや物語の構成、人物のキャラクターなどがどうにか掴めていたことが一助になったのは確かだが、「知った話」をもう一度見に行って、ここまで惹きつけられる体験は滅多にない。なぜだろうか。
 特に幸徳秋水(今里真)に惚れ惚れ。もっと鋭利な人物を想像していたが、おっとりと物静かな風情と穏やかな口調が始終声を張り通しの他の人物とは対照的で劇場の空気を和らげるが、終幕500人の軍人を前にする演説の場面は圧巻であった。舞台を挟んで対峙する客席は、あるときは日比谷公園に結集した労働者になり、騎馬警官隊にも見立てられる作りである。少々緊張を強いられる観劇ではあるが、しっかりした手応えの感じられる幸福な夜となった。公演は明日4月1日まで。
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楽天団プロデュース『バイティン・バック』

2009-03-29 | 舞台
*ヴィヴィアン・クリーヴン作 須藤鈴翻訳 和田喜夫演出 公式サイトはこちら 中野あくとれ 30日まで これまでの劇評はこちら(1,2)
 当日リーフレットによれば、タイトルの『バイティン・バック』は「噛み付き返す」「やり返す」と訳される言葉だそうだ。都会から離れた小さな町で暮らすアボリジニの一家の物語。はじめは小説として書かれ、後に作者にとっての処女戯曲として発表されたという。母親のメイヴィスは、息子のネヴィルがフットボール選手として成功することを熱望している。それだけが社会的な地位を約束するものだと信じているからである。しかしネヴィルには母親の想像もつかない夢を抱いていた。
 物語が始まって間もなく知らされるネヴィルの夢が予想もつかないもので、というより登場人物にどんな背景や過去があり、どんな性格なのかまだわからず、裏づけや伏線がないままで示されることに戸惑うが、セクシュアリティ、人種、男女、世代と、互いの違いに悩み、ぶつかり合いながらやっとこさ共生の道が見えてくる結末は温かく、手応えが得られた。

 しかし全体的にどこかしっくりしない部分がある。グゥェンがダリルから無理矢理押しつけられた粉の入った袋をメイヴィスのキッチンにいとも簡単に置いていってしまうところや、それを探しにダリルが忍び込んでいるのにメイヴィスが全く気づかないところなどが不自然に感じられるのだ。空間の使い方か、あるいは表現方法が小説から戯曲になったときに生じた何かなのか。

 俳優で目をひいたのは、ダリルとトレヴァーの二役を演じた武田至教であった。どちらも白人だが前者は女たらしで薬物のバイヤーというとんでもない悪人で、後者は心優しいゲイの編集者である。特に後者のトレヴァーの造形が際立っていて、このての役柄はとかくやり過ぎてしまいがちになるが、声の出し方やちょっとした仕草すべてに神経が行き届いており、しかもあざとさが感じられず、控えめでお見事であった。

 
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パラドックス定数第十八項『インテレクチュアル・マスターベーション』

2009-03-28 | 舞台
*野木萠葱作・演出 公式サイトはこちら シアター711 4月1日まで これまでの劇評はこちら(1,2)。このあいだまで映画館だったところが、劇場としてリニューアルした。客席が舞台を挟む形は、昨年10月の『三億円事件』を思わせる。途中気分が悪くなったりした場合の退場については開演前に野木萠葱から行き届いた説明があるので大丈夫である。
 本作執筆のきっかけは、作者の野木が居酒屋でのおしゃべりのなかで「大杉栄」をリクエストされたことが発端だという。では大杉栄が主人公かというと、荒畑寒村の絡み方、幸徳秋水の存在はじめ、あの時代を傷だらけになって生き抜こうとした男たちの群像劇なのだった。幸徳秋水といえばた大逆事件であるが、本作は秋水がもはやこの世の人ではなくなった時にはじまり、そこに行くまでの日々を描いたのち、再び幸徳の不在を示して終わるものである。

 パラドックス定数といえば「メガネ男子」の別名で語られるが、今回はみなさん「裸眼」で、しかもどの人物も赤いシルクを基調にした妙にお洒落な格好をしており、あの時代を写実的に描くのではなく、数脚の椅子や蝙蝠傘以外の何の装置もない裸舞台で観客の間近な視線に晒されながら、今を生きる俳優の肉体を通して、会ったことのない実在の人物の、ある側面に肉薄したものである。

 嘘は書けないので正直に言うと、途中どうしても睡魔に襲われ全編をちゃんとみることができなかった。この程度の寝不足や疲れはいつものことであるし、劇の流れに必死についていきたいと願っているのにどうしてもだめであった。登場人物や時代背景などを事前に調べておけばよかったのだろうか。残念でならない。

 終演後の野木萠葱の挨拶は、いつもながら優しく行き届いたもので、今回も客席から拍手が沸いた。野木先生、面目ない。因幡屋今回はいけませんでした。願わくはもう一度チャンスが与えられんことを。
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東京乾電池月末劇場『驟雨』

2009-03-26 | 舞台
*岸田國士作 公式サイトはこちら 新宿ゴールデン街劇場 今月は26日で終了
 毎月行きたいと思いながらなかなか足を運べなかった東京乾電池の月末劇場。花園神社の中を通り抜けてゴールデン街劇場に着く。いつものように「作 演出」と記そうとして当日リーフレットをみると、照明プランや照明オペ、音響、舞台監督のスタッフ名は掲載されているものの、演出家について明記がないことに気づいた。演出家不在の舞台といえば劇団青い鳥や文学座若手有志による公演が思い浮かぶが、今夜の岸田國士の舞台は戯曲を素直に読んで誠実に作られたものであった。
『驟雨』はにわか雨の意味である。本作は2007年にナイロン100℃が複数の岸田國士作品をオムニバス風に?上演した中にもあったので、今でも内容を覚えている。結婚したばかりの妹が、新婚旅行先から姉夫婦のもとにやってくる。夫が嫌になり、別れたいというのである。姉は驚きながらも妹の話を聞いてやり、夫も引き込んで話し合うが、結論は出ない。おもてはにわか雨。

 姉役の宮田早苗。山田太一のドラマ『ありふれた奇跡』でヒロインがよく訪れるスナックのママを演じていたが、舞台でみるほうがずっとずっときれい。いつもの東京乾電池公演でありがちな遊び心や、(よくも悪くも)少し脱線して笑いを取るところがほとんどなく、極めてオーソドックスな舞台であった。手を伸ばせば触れそうな近さに俳優がいても息苦しくなく、しかし登場人物の台詞ひとつひとつが粒だって届き、表情からも目が離せない。1時間足らずの小品でわずか3日間であるが、そのあいだ7回の上演がある。入念な稽古はもちろん、間近な観客の視線に否応なく晒されることで鍛えられ、練り上げられていく様子が想像できる。

 シアタートップスが閉館するため、お芝居で新宿に来る機会が激減すると思っていたが、これからは新宿ゴールデン街劇場にせっせと通うことになりそうだ。自分はなぜ劇場に行くのか、ときどきわからなくなる。楽しみでもあるが、勉強でもあり多少仕事的な面もある。趣味や娯楽は日頃のストレスや憂さを発散し、息抜きをして解放されて活力を得るものである。しかし自分と演劇の関係は必ずしもそうではない。体力気力をどっと消耗する場合もある。今夜の話は結婚の奥義という古今東西正解のない問題を、ある側面から描いたもので、あまりスカッとしない内容だ。だが自分には楽しめた。そのあたりをこれから考えてみたい。
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壁ノ花団『アルカリ』

2009-03-25 | 舞台
*水沼健 作・演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 31日まで
 今回が初見の劇団。古いトランクがいくつも散乱する場所に、男がひとり、女がひとり、柱の影に男がもうひとりいて、そこに女がもうひとり現れる。交わされる会話や登場人物の行動はたやすく糸口の見つかるものではなく、つかみどころのないまま時間が過ぎる。
 舞台で起こっている状況を最後まで把握、理解できなかった。流れのはっきりした物語がなくても、引き込まれるように見入ることができる舞台もあって、今月はじめにその体験をしたばかりである。しかし3月後半のアゴラ劇場とはどうも相性が悪いようだ。身も蓋もない言い方になってしまうが、何をどのように描こうとしているのか、伝えたいことは何なのかがわからなかった。どこを糸口に想像力を働かせたらよいのだろうか。これが今年度最後のアゴラ劇場通いになるだろう。この1年よく通った。楽しく充実した日々だったが、今夜ばかりは不完全燃焼の極みである。駒場の町は夜が更ければいよいよ暗く、静まり返る。手応えが得られたときは、その静けさによってますます確かなものになり、今夜のような場合は寒さが惻々と身に沁みるのである。
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