因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

Straw&Berry#3 『モリー』

2016-02-28 | 舞台

 *河西裕介作・演出 公式サイトは こちら サンモールスタジオ 3月2日で終了
 2007年河西裕介が旗揚げした国分寺大人倶楽部は、活動休止期間を経て今年7月の『ラストダンス』を最後に解散することになった。 Straw&Berryは、活動休止中の2013年に河西裕介が旗揚げした新ユニットで、今回で3回めの公演となる。

 公演チラシに掲載の妊娠を知った女性のひとりごとがおもしろい。妊娠を心から喜んでいるわけではなく、しかしそれをきっかけに恋人との関係を少しでも好転させたいといういじらしい願いも伝わる。だが「あ、生理きた」。さて彼女はどうなるのか。今回の物語はここからはじまりそうだぞ。
・・・というのは安易な想像であった。女性ふたりと男性ひとりの3人がルームシェアしている家のリビングが舞台である。まず冒頭、加奈子(佐賀モトキ)と千尋(山田佳奈/劇団ロ字ック 1,2,3,4,5,6,7)がキムタクの話をしている。部屋の奥から2階につづく階段が見え、2階の一室からであろう、女性のあえぎ声が小さく聞こえてくる。まさにコトの最中なのだ。だが加奈子と千尋は何となくキスになり、そこへ小田(小西耕一 1,,2,3,4)が帰宅し、ふたりを見て多少驚くが、「ちょっと出てくるから、続きやってて」と大人の対応をする。コトが終わったチエ(岩崎緑)が2階から降りてくるが、お相手は別れると決めた恋人なのだ。

 恋人や友だちや知りあい、ときには家族がつぎつぎに訪れるので、そもそもこの家を住まいとしているのが誰なのかわからなくなるが、そこもまたおもしろい。チエは、女優を目指しているといっても、堅実に生きる妹に比べると社会人としてはなはだ頼りない。最大の難点は身持ちがよくないことで、バイト先の後輩とくっついたかと思えばすぐに捨てられ、今度は既婚のヴォイストレーナーと不倫のあげく妊娠し、妻に乗りこまれて別れざるを得なくなる。終幕近くまで来て、やっとチラシに記載の「あ、生理きた」を思い出した。チラシの女性と舞台のチエとは、必ずしも同一人物ではないとも言える。男女合わせて9人の出入りをテンポよく描きながら、少しずつ状況は違うが、さまざまな屈託を抱え、思うに任せぬ日々を送る現在の若者たちのある一面をあぶりだす。彼らに温かく寄りそうというより、むしろ冷静で客観的な視点が感じられる。といって男女のあれこれをてんでに描いて終わるわけではなく、最後の最後になって、「こう来るのか!」とまったく先の読めない一瞬を提示して幕を閉じるあたり、なかなか心憎い。いやほんとうに、最後にあの場面ということは、●〇と●〇はどうなるのだろう。

 公演の前半には、おまけ演劇の『ボジョレ先生ぬ~ぼ~』という短編が上演された。本編とはまったく関係のない作品で、サークルの合宿の出しもの的というか、大急ぎで作った印象の寸劇風である。俳優たちは本編とはまるで違うキャラクターに扮し、非常に楽しそうである。せっかくなのだから途中で噴き出したりせず、真面目にやってほしいが、あれこれ言うのは野暮であろう。当日リーフレットには「(おまけ演劇は)本編の余韻を著しく損なう恐れがあるので、余韻を楽しみたい方はご覧にならないよう」という注意書きがある。迷ったが、結果的に見てよかった。
 本編の終幕が客席に与えるのは「余韻」というより、「予感」である。自分などはつい安易な展開を想像してしまうのだが、本編とまったく関連のない『ボジョレ~』を見たことで気分が一新され、晴れやかに劇場をあとにすることができたのだ。

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ハイリンド番外公演vol.2 『人の気も知らないで』

2016-02-27 | 舞台

*横山拓也作 有馬自由演出 公式サイトはこちら 下北沢ギャラリー 28日で終了 (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16
 ハイリンドの女優・枝元萌、はざまみゆき+宮越麻里杏の三人芝居。iakuの横山拓也の本作は一度観劇したことがある。今回は扉座の有馬自由の演出で、下北沢駅南口改札から徒歩10秒のビルの3階にある「下北沢ギャラリー」の上演だ。室内中央に演技スペースがあり、それを取り囲まんばかりの近さで座席が作られている。このように逃げ場のないところで演技をするのは、俳優にはどんな苦労があるのだろうか・・・といった心配は、はじまって早々どこかに吹き飛んだ。関西出身である枝元萌、はざまみゆきのハイリンド女優と、客演の宮越麻里杏。3人の丁々発止の応酬にぐいぐいと引き込まれた。

 本作は、アデコというあだ名の同僚が事故による怪我で入院しており、彼女が非常に痛ましい状態にあることが大きなポイントである。それが何かが知らされるまで、彼女たちの会話に前のめりで聴き入らせる劇的効果があり、知らされたときの衝撃や、いったいこの話がどう終わるのかという興味が、新たな力で観客を引っ張っていく。自分は流れがわかっているため衝撃はないものの、それでも前回よりはるかに強くしっかりと3人の会話に聴き入ることができた。それは小さな会場であるからだけでなく、女優の演技の勢いが強いせいもあるだろう。

 にもかかわらず、実はサンモールスタジオで見た長田(オサダ)を演じた永津真奈の演技が思い出されてならないのである。アデコの怪我と同僚の寿退社の穴埋めで激務になった苛立ちや、かつて自分自身が患ったことや恋愛で傷ついたことなどを、戯曲を読むとどれだけきつい調子で、しかめっ面で演じるのかと思いきや、そこを敢えて、なのかこの役の本意はこうであるという演出の意図なのか、無表情といってもよいほど淡々と演じるのである。

 アデコの傷は、目に見える身体の一部欠損であり、オサダのそれは外見はそうと見えない傷である。しかし後者の傷は、聞いたとたん、日常生活の困難のあれこれよりも、「恋人との関係がどうなるか」を否応なく想起させ、実際そういった台詞が続いた。これはいたしかたないことなのだろうか。女性が負う傷という、一種の型になっているようにも感じるのだが。

 大阪ことばで演じるハイリンド女優お二人の素顔を見られたようで嬉しい。番外公演の旨みをぞんぶんに味わうことができ、この劇団がますます好きになった。がもっとも大きな収穫は、やはり横山拓也の戯曲の魅力を改めて知ったことであろう。これだけ温度の異なる座組みであっても揺らぐことなく、座組みごとの個性を引き出すことができるのだから。本公演ももちろん楽しみであるが、こうした番外公演もちょくちょく企画してほしいというのは欲張り過ぎだろうか。

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TRASHMASTERS vol.24 『猥り現』(みだりうつつ)

2016-02-27 | 舞台

*中津留章仁作・演出 公式サイトはこちら 赤坂RED THEATER 28日で終了
 ここ数年、まさに「ぶっ飛ばす」ような勢いで精力的な活動をしている中津留章仁だが(1,2,3,4)、しばらく足が遠のいていた。東日本大震災と福島第一原発事故以来、これまでこの国で何が起こり、何が見過ごされて今に至ったのか、現在起こっていること、これから起こり得ると予想されること、何がいけなかったのか、どうすればよいのかといった極めて硬質で喫緊の問題に、恐れることなく正面からぶつかる姿勢には、「頭が下がる」などといった控えめな感想では太刀打ちできない。観る方もただ受けとるだけではなく、何らかの主体的な考察、行動を求められているかのようで、重すぎることが理由のひとつ。それから舞台の勢い、発するエネルギーの力強さはたしかにものすごいものがあるが、うまくことばにできない違和感があった。

 最新作のテーマは「宗教」である。オウム真理教による一連の事件が起こってから20年が過ぎた現在、世界を脅かしているのはIS(イスラミック・ステート)によるテロ行為、破壊活動だ。

 結論から言うと、自分は2時間30分を長尺とも思わず、緊張感を保ったまま舞台に集中し、かつ芝居として楽しむことができたのである。中津留章仁作品の観劇でははじめての感覚で(失礼!でもほんとうなのだ)、それは何本か体験して慣れたからというよりは、今回最前列の座席になり、最初はただでさえ強烈であろう中津留作品を、この距離で見るのはきついと怯んだが、はじまってみるとまったくの杞憂であったのだ。最前列であるから舞台しか見えない。ほかのお客さまがどんな様子であるかということを、ほぼまったく感じることなく、あたかも「舞台VS自分」のごとく、気を散らさずに見ることができたのは幸運であった。

 物語は、冒頭こそ「クリスマスに恋人がいないとどんな気分か」といったふわふわした会話が聞かれるが、あっという間に怒濤のごとく議論の応酬になり、とんでもない事件が起こる。引き込まれながらも、ところどころ、「あれ、これでいいのかな」とか、「ちょっと無理があるのでは」といった箇所が散見する。前半の警官の挙動や、一般企業人と言いながら実は刑事である男性が終盤に宗教学者に同行を求めるところで、逮捕状を見せながら何の容疑か口にしないこと、どういう経緯で彼が逮捕されるに至ったかがよくわからないところ、警察を頸になり、宗教学者に利用された元警官や、宗教学者にひれ伏すほど感謝していた店長が小切手を破るところなど、流れが強引であることなどなど。何度か観劇したり上演台本を読めばわかるのだろうか。
 さらに、ここまで細かいことを指摘せずともよいかもしれないが、気になったことをひとつ。商店街で不動産業を営む男性が登場する。彼はカトリック教徒だ。それほど熱心ではないと謙遜する場面で、「両親は週末は教会に行きますが」という台詞がある。彼は日曜のミサに行くことを「週末は教会に」と言ったのか。キリスト教徒にとって、一週間は日曜からはじまる。なのでこの言い方ではいささか妙ではないか。
 彼の別れた妻は弁護士で、イスラム教徒になった。この元夫婦は互いの宗教について、激論を交わす。これが自分の信仰を大切にする気持ちのあらわれでもあろうが、宗教のみならず世界の歴史、日本はじめ世界の政治状況まで網羅する大変なものなのである。ここまで詳しく、情熱溢れる議論のできる人物が「週末は教会に」などと言うのはどうにも残念だ。

 宗教、政治、戦争といったテーマのなかに、ごく個人的な恋愛事情を持ちこむ人物として、若いOLが登場する。ムスリムの青年をしきりにデートに誘う言葉や態度は、彼に恋をしているからというより、興味本位の軽薄な振る舞いに見えるため、彼が同性愛者と知ってショックで号泣するところもとってつけたようである。終始一貫して凛とした姿勢をくずさない弁護士に向かって、「自立した大人の女性になりたいんです」と問いかけ、「女を磨きます」と宣言する。こういう言い方をすることじたい、いや、劇作家がさせることに対して、自分は違和感が拭えないのである。弁護士との対比のためか、軽いノリでムスリムの青年を誘っていた彼女が少しずつ成長していくことを示す意図があるのか。女性の造形について、もう少し踏み込んでほしいと思うのだ。

 この公演のあと、中津留章仁は4月に青年劇場で『雲ヲ掴ム』の作・演出、秋には劇団民藝に書き下ろしと、快進撃が続く。今回の観劇をよいステップにして、また中津留作品と向き合いたい。

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劇団民藝 『光の国から僕らのために-金城哲夫伝-』

2016-02-10 | 舞台

*畑澤聖悟作 丹野郁弓演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアター 21日まで
 70年代、日本中の子どもたちを熱狂させたテレビドラマ「ウルトラマン」を世に送り出した脚本家・金城哲夫の半生の物語。

 ウルトラマン誕生のプロセスや、いかにして魅力的な番組になったか、特撮の苦労話やとっておきのエピソードなど、いわゆる「メイキング」のおもしろさは、あまり描かれない。沖縄という地に生を受けた主人公が戦争を生き抜き、東京で仕事に成功するも、それを捨てて故郷に戻ること、沖縄海洋博の仕事に関わり、沖縄と本土のかけ橋になろうと奮闘するが、板挟みになって苦悩すること、やがて酒で心身を壊し、泥酔して二階から転落死するという、むしろ「ウルトラマン」以外の物語に焦点があてられている。

「光の国から僕らのために」。このタイトルは、放送当時から半世紀を経てなお子どもたち、昔子どもだった大人たちをも魅了するウルトラマンだけでなく、光溢れる沖縄からやってきて、ウルトラマンの脚本を書き、去って行った金城哲夫その人のことでもあると思われる。
 怪獣たちから地球を守ってくれるウルトラマンは、現実には存在しない。金城が逝って40年経ったいまも、世界から戦争はなくならず、沖縄の基地問題も解決していない。ウルトラマンは夢であり、希望であるが、冷静に現実を見据えると、決して来ないヒーローを、それでも待ち望む人間の悲しみでもある。

 実は観劇前、ウルトラマン誕生の秘話や創作プロセスを大いに期待していたのだが、徐々に「これはそうではないらしい」ということがわかってきたとき、観劇の体制を立て直すことがうまくできなかったらしい。舞台のどこを見て、どう感じるかは観客に委ねられているのだからどのような見方をしてもよいのだが、作り手の意図を受けとめきれなかったようである。

 金城はじめ、創世記の円谷プロで「ウルトラマン」が生まれんとする場面で、「ウルトラマン」の主題歌が即座に歌われる場面は、あまりにすんなりと歌が完成しているようでいささか不自然であったし、海洋博でひと儲けしようとする本土の男性ふたりが、ずっと黒いサングラスをかけたままで、特定の人物というより、ヤマトンチューの象徴として登場しているが、その造形がいかにも類型的である。それは同時に沖縄の人々の描写も凡庸である印象が否めないことでもある。人々に沖縄のことばを使わず、標準語で話させたことには何か意図があるのだろうか。前半で、上原が沖縄ことばを使う金城をたしなめる場面と関連があるのだろうか。

 冒頭、ヘリコプターの機上からラジオの実況をする金城のうしろに彼が兄と慕い、創作の同志と信頼を寄せた上原正三が、現在の年老いた姿で彼をみつめるところや、終幕で、下手に酒浸りの金城、上手に上原がいて、互いの来し方を穏やかに語り合う場面はしみじみと切なく、心に残る。

 舞台全体をみたとき、「ウルトラマン」がやや後退しているように感じられた。なので、ラストシーンからカーテンコールにかけて、懐かしいあのテーマソングを出演俳優が歌い、客席もなんとなーく唱和する流れに少々無理が感じられる。
 これだけ魅力的な人物がいて、あれほど子どもも大人も熱狂させた「ウルトラマン」を作りだしたのだ。舞台と客席が一体になって、「光の国から僕らのために」と自然な大合唱になるような熱い舞台にならないだろうか。

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人形劇団ひとみ座 『赤い蝋燭と人魚』

2016-02-06 | 舞台

*同時上演 『野ばら・月夜とめがね』 小川未明原作 伊東史朗脚本・演出 公式サイトはこちら 県民共済みらいホール(横浜・桜木町)2月6,7日 
 開演の際、「文化庁委託事業 平成27年度次代の文化を創造する新進芸術家育成事業、児童青少年演劇、新進芸術家育成公演」等々まで、きっちり長々とアナウンスされたのには戸惑った。長すぎて観劇前の高揚感が萎える気もするが、当日パンフレットの挨拶文を読むと、今回は若い人形遣いが「新進芸術家」として何人も抜擢され、朗読を行う俳優座の岩崎加根子と共演の機会を得たことも相まって、今後の活動に対して非常に期待されているとのこと。
 気を取り直して、1本め『月夜とめがね』の開幕である。

 人形劇を見るのは何年ぶりだろう。これまで江戸糸あやつり人形結城座の『マクベス』や『リチャード三世』などを見たことはあるが、すっかり足が遠のいている。以前から知己に勧められていたこともあり、今回ようやく1948年に創立された人形劇の老舗劇団・ひとみ座の観客デヴューとなった。

 圧巻は3本めの『赤い蝋燭と人魚』である。海のなかを泳ぐ人魚、嵐に猛り狂う海など、さまざまに創意工夫が凝らされており、これが大変おもしろい。人形劇の劇世界は繊細であると同時に大胆だ。人形には目玉の部分に細工があり、見開いたり閉じたりすることで表情の変化を見せることのできるものもあるが、人間の俳優ほどの変化を作ることは困難であろう。まして『赤い~』に登場する人形は和紙で作られている。一見のっぺらぼうだ。にもかかわらず、「人形が無表情だ」とは決して思わなかったのである。喜怒哀楽はもちろんのこと、そこに 収まりきれない、もっと複雑で微妙な心の動きが伝わってくる。

 人間のエゴイズムが人魚の思いを踏みにじる残酷。海は穏やかで優しいときもあれば、魔物のように荒れるときもある。地上で起こることには関わりなく、いや人間のあれこれを知っていてさまざまな顔を見せるのか。

 またひとつ、魅力的な劇世界を知ったこと、ひとみ座に出会えたことは、大変嬉しい。からだがいくつあっても足りないが、心に覚え、次に観劇する機会をぜひ作りたい。

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