因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

横濱リーディングコレクション#1太宰治を読む!『冬の花火』

2006-08-25 | 舞台
*太宰治作 前嶋のの演出 横浜相鉄本多劇場
 「戯曲をひとつ入れたい」という主催側からの提案で選ばれたのが本作『冬の花火』である。椅子が数脚と木箱のようなものがいくつか置かれた舞台に和服の男性が登場し、下手のドアを開けるとそこから数人の男女がおぼつかない足取りで現れる。舞台に散った彼らは和服男性が手を叩くと、ひとりの女性を除いてその場にぱたんと倒れる。男性は用意してあった台本を、倒れた俳優ひとりひとりのからだの上に無造作に置いていく。倒れなかった女性は戯曲冒頭のト書きを読み始める。登場人物もひとりずつ読み上げられ、それを合図に演じる俳優がからだを起こす。和服の男性が太宰治であり、彼を同じ舞台に存在させることで、「太宰の頭の中にあるものを描きたかった」(演出家の話)のだそう。
 昭和21年冬、東北の小さな町のある家が舞台である。娘の数枝は東京での生活に疲れ、小さな娘を連れて父とその後妻が暮らす家に疎開して終戦を迎えた。夫は出征したまま帰ってこない。数枝には東京に新しい男がいる。父親からこれまでの不義理や継母への態度を責め立てられ、「このうちを出て行け」と言われ、次の場ではずっと数枝に片思いしていた地元の男性が部屋に忍び込んできてしつこく求愛し、あげく刃物を持ち出す騒ぎになる。次は心労で倒れた継母が、実は六年前、あの刃物男と自分は云々という仰天告白をし、数枝はますます追いつめられていく。

 ここまで寒々しくやりきれない話を本式に上演されることを想像すると、ちょっと引いてしまうが、今夜のようなスタイルだと少し距離感が出て静かにみることができる。演出の前嶋ののは音楽の生演奏と演劇を融合した舞台を手がけてきたそうで、今回楽器はなかったがおもしろいところがあった。数枝の娘が祖母に線香花火を買ってもらうのだが、2幕の地元男性求愛の場面で、数枝がその花火に火をつける。出番のない俳優が小さな声で「シュワシュワ」とでも言うのか、文字に置き換えにくい音声を発して、花火の音や燃える様子を表現するのである。不気味な音は数枝を取り巻く世間の声なき声のようでもあり、小さな希望すら蝕み食い散らしていく毒虫のようでもある。

 母の告白に絶望した数枝は激情に駆られて叫ぶ。台詞の詳しい内容まで覚えていないが、この世の理不尽なることへの怒りと、もっていきばのない悲しみである。太宰は中央に椅子を持ってきて数枝をその上に立たせる。「ここからはお前が自分で話しなさい」とでも言うように。終幕、役目を終えた俳優たちは再び床にぱたんと倒れ、太宰はひとり立ち尽くす。

 作家と戯曲と俳優の関係が舞台上に立体化されており、興味深くみることができた。ポストパフォーマンストークで、今夜のゲスト西山水木が「リーディングの場合、自分の台詞でないときは、人の台詞を読んだりして客観的な気持ちになる。役柄を演じるのではなく、戯曲を演じている」という発言をしており、なるほどなと思った。観客も然りで、登場人物に感情移入したり物語に没頭したりではなく、「戯曲」という存在と対峙しているのである。
 

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横濱リーディングコレクション#1太宰治を読む!『駆込み訴え』

2006-08-24 | 舞台
*太宰治原作 椎名泉水演出 横浜相鉄本多劇場 公式サイトはこちら
 2月に上演された「福田恆存を読む!」に続く企画(そのときの記事)。舞台中央に椅子が2脚、台本を置くための譜面台が4つ。天井から小さなランプがいくつかと、紐の先に黒い紙がついたものが何本かつり下がっている。冒頭白い服の少女が現れ、英語で讃美歌を歌う。キリスト降誕を祝う歌だ。続いて黒いTシャツにジーンズの4人の男性が登場し、二人は椅子に座り、あと二人は後ろに立つ。ユダを4人で演じる趣向である。

 高校時代、太宰を好きな友人の影響で『駆込み訴え』を読んだ。読み始めたら最後、ものすごい力でぐいぐいと引き込まれ、まるで自分がユダの訴えを聞いている役人のような気分になってしまった。

 4人の俳優はユダの激しく揺れ動く心情を表す。訴えるもの、自分の気持ちを話すもの、気持ちをうまく言葉にできず、ため息やうめき声を発するものなどである。俳優は顔も声も違うのだが、誰かが際立つこともなく、しかし心情による台詞の振り分けが実に絶妙的確で、演出家が原作を深く読み込んでいることがわかるし、活字で書かれたものを読んで、そこから湧き出るイメージを立体化することに成功していると思う。

 さて冒頭の少女はイエス・キリストを演じる。たとえばユダが「あの人がこんなことを言ったのです」等と言うとき、イエス・キリストとして台詞を言うのである。バレエのような所作で舞い、黒い紙を引っ張る。とそこから白い羽根が舞い落ちる。演じた少女は14歳とのこと、からだつきも細くて台詞も少々たどたどしい。ユダが憎しみと同じくらい愛しており、自分も愛されることを切望した相手が、ふわふわとつかみどころのない存在であるということだろうか。裏切り者、悪役のイメージが強いユダであるが、太宰の『駆込み訴え』には、神が人間を救済することが成就するためには、キリストは十字架で死ななければならなかった、そのために必要な人間として、神に選ばれたものの悲しみややりきれなさが感じられる。
 映画『ゆれる』のパンフレットに、西川美和監督が主演のオダギリジョーと香川照之に参考として『駆込み訴え』を勧めたという記事があり、どちらがユダでも想像するだけでぞくぞくする。しかしひとりでユダを演じる場合、その俳優の個性が前面に突出して、名人芸披露的になる可能性がある。今回4人のユダがよかったのは、それぞれが自分の台詞を言うときと同じくらいの真剣さで別のユダの台詞を聞いていた点である。もちろん台詞の振り分けが非常に細かく、相当に注意していなければタイミングをはずしてしまうから必死で聞いていた面もあるだろうが、揺れ動く自分の心を案外冷静で客観的にとらえると同時に、どうしようもなく持て余したユダの苦しみが伝わってきた。

 再び高校時代の話。「最後の『へっへ』がすごいよね」と友人と意見が一致した。訴えの最後にユダが自分の名前を名乗る。そのときの笑いである。4人のユダは聞き取れないくらいの小さな声で「へへへへ・・・・」と静かに笑った。『駆込み訴え』は、裏切りの密告だけではない。イエスへの強烈な、それゆえに複雑にねじくれた愛の告白でもあったのだ。全部言ってしまった。これで終わりだ。安堵したような諦めたような、静かで悲しい笑いであった。天上の音楽のような美しい女性の歌声が聞こえる中、ユダの訴えは終わる。

 高校生だったわたしの心に強烈な印象を残したユダは、オダギリジョーでも香川照之でもない、黒いTシャツを着た4人の俳優が入れ替わり立ち替わり現れるようになった。太宰を好きなあの友達に、今夜のステージを見せたいと思った。

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ハイリンド第2回公演『牡丹燈籠』

2006-08-21 | インポート
*三遊亭円朝原作 ハイリンド潤色 西沢栄治演出 下北沢「劇」小劇場
 昨年12月旗揚げしたハイリンド(そのときの記事)の第2回公演。『牡丹燈籠』と言えば文学座の財産演目のひとつで、杉村春子と北村和夫の夫婦役が絶品であった。そのせいか、この作品はベテラン俳優による円熟の演技が必須とのイメージがあったのだが、驚いた。下北沢でこんなにイキのいい舞台に出会えるとは。
 
 舞台には赤い柱が数本、出演俳優は色鮮やかな和服だが鬘はつけておらず、化粧も普通で、高座に上がった噺家が一席始めるのを見物する人々という趣向で始まる。ひとりの俳優が二役を、しかも男性が女性を演じたり、女性が男性を演じたりと、俳優全員板に乗りっぱなしの2時間15分。その間まったく気の緩むことなく舞台の熱気を浴びるように楽しめた。ハイリンドの舞台をみて感じるのは、俳優がいずれも舞台が大好きで、いい舞台を楽しんでもらいたいという気持ちがびんびん伝わってくることだ。しかも自分の演技を強く主張するのではなく、戯曲を重んじ演出家を信頼し、舞台ぜんたいのバランスを大切にする姿勢がとても好ましく思える。「お芝居はこうでなくっちゃ!」と嬉しくなってくるのである。

 できればこの舞台は因幡屋通信の次号で詳しく書いてみたいと思っています。今日のところはここまで。


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鉄割アルバトロスケット『高みからボラをのぞいている』

2006-08-20 | 舞台
*戊井昭人作 牛嶋彩緒演出 こまばアゴラ劇場 夏のサミット2006
 この舞台には恐れ入った。最初から最後までほとんどわけがわからず、これまでみた芝居の中で「困惑のベスト5」に間違いなく入るだろう。昨年夏発行の『ユリイカ』小劇場特集で、この劇団についての批評(柴田元幸)を読み返してみたがやはりだめだ。当日配布チラシには「流れのようなもの」として37ケのタイトルが書き連ねられており、一応それに沿って話(?)は進むのだが、コントやネタ、瞬間芸のいずれとも考えにくいのである。最後は全員がネギを持って殴り合い。あれはいったい何だったのだろうか。

 芝居をやりたい、戯曲を書いて舞台で上演したい、人にみてもらいたいと思うからには、何か表現したいもの、訴えたいこと、伝えたいことがあるからだと思うし、観客はそれを見たくて劇場に足を運ぶのだ・・・と自分は思っているのだが、そういったものがあるのかないのかすらわからなかった。

 当日パンフ掲載の今回の公演についての主宰の戊井昭人のコメントを読んだ。川にボラが大量発生したとき、人間はその様子を口をポカンと開けてみていた。その人間とボラの関係性を考えてみたが何もなく、「今回の舞台も、そんなポカンな関係が僕等とご覧になってくださる皆様の間に築ければと思います」。
 ん?とすると、今日の自分の感覚は敵の思うツボということなのか?!

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『ムーンリバー』

2006-08-12 | 舞台
劇団フライングステージ第30回公演 関根信一作・演出 中野ザ・ポケット
 昭和五十年代の下町で、自分はゲイではないかと感じ始めた中学3年生高橋大地(早瀬知之)とその家族、学校の友達や先生たちとの交流を描いたもの。これまでみたフライングステージの舞台と少し違っているのは、ゲイとして今を生きるゲイのドラマではなく、過去を描いたものである点である。「ゲイ」という言葉に馴染みがなく、自分が何なのかわかりかね、持て余している少年の悩みと葛藤。では少年関根信一の思い出かというと、そういう面も確かに感じられるが単なるノスタルジーではない。

 今回わりあい抵抗なく普通に楽しめたのは、ゲイテイストが控えめだった点が大きい。関根信一と石関準は完全女装の女役で、実は男性だったという仕掛けはない。それが自分にとっては妙な安心感になり、どうみても男性なのに女性を演じきる姿を堪能した。これがノンケの俳優さんだったらコントになってしまうのだろうが、このあたりの関係は実に不思議である。登場人物が多く、母親や女の子の友達などセクシュアリティもさまざまで、人物の造形などに少し物足りない面もあったが、温かく柔らかな終幕であった。

 終演後、関根信一はじめ出演者がメイクを落とし、普段着に着替えて客席に出てきた。関根の今日はどうもありがとうございましたという挨拶に拍手が起こった。少し照れている関根さん。芝居が終わって出演俳優が知り合いのお客に挨拶したり、歓談したりする光景はどこでもある。自分はこのての「身内的雰囲気」が苦手で、舞台にいた俳優さんが普通に現れると途端に居心地が悪くなるのだが、今回はまったくそう思わず、自然に拍手している自分に気づいた。

 大地少年はこれからどんな人生を歩むのだろうか。彼がゲイであることをカミングアウトしたら、彼の家族や友人はどんな反応をするだろうか。少年の前途は厳しいが、明るく幸せに生きてほしい。素直にそう願える舞台であった。公演は明日が千秋楽である。

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