因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

蜻蛉玉第13回公演『頂戴』

2007-03-31 | 舞台
*島林愛作・演出 こまばアゴラ劇場 公式サイトはこちら 4月2日まで 記事には少々ネタばれあります。
 桜は不思議な花だ。明るい青空のもとで見上げると実に晴れやかで心が浮き立つが、曇り空のときは少しもの悲しく感じられる。そして夜の闇に浮かぶ桜は妖気を漂わせて狂おしく、何かが宿っているかのようである。春の一夜、「見えない桜」をみてきた。今回が初めての蜻蛉玉の舞台は、そんな印象である。

 舞台中央奥に桜の木を模したオブジェが置かれている。白い布を巻きつけてあるのだろうか、枝には箱がいくつも吊り下げられている。浩輔(シトミマモル)と美雨(神林裕美)の二人が現れて会話が始まる。声の大きさも話し方も普通の日常会話である。二人は若いというより幼さが感じられるくらいだが、既に結婚しているらしい。結婚前に浩輔の東北の実家を初めて訪れたときの場面になり、また現在の二人の会話に戻る。家族は東北弁で盛大に話すのだが、なぜか浩輔はときどき関西弁になり、美雨が「関西弁だいっきらい。浩輔のお母さんと話してるといっつもおこられてる気がする」と言い出したり、よくわからなくなる。美雨の中学時代の同級生との再会(彼は男の恋人といっしょだった)し、いっしょにカレー屋にいく場面に続き、やや唐突にこの二人が離婚届を出したことがわかる。一瞬、えっ嘘と思うが、そうすると冒頭に美雨の靴紐が解けているのを浩輔がしゃがんで結んでやる場面の美雨の反応が理解できる。浩輔はずっと優しく、美雨も彼が好きであることがわかる。二人は憎み合ってなどいないのだ。最初から別れるつもりで結婚する人はいないだろうし、なぜ別れるのかはその二人にしかわからない。いや当事者にすらわからないのかもしれない。浩輔と美雨もはっきりした理由が描かれないまま別れを選択したことが示される。

 美雨の心から抜け出た存在を示す羊(熊埜御堂彩)、女を背負った男が出てくる場面は坂口安吾の『桜の森の満開の下』だろうか。過去のことやその人の心の闇が少しずつ、少しだけ描かれる。劇中音響効果はまったくなかったと記憶する。井の頭線の電車の音がいつもよりもよく聞こえ、それはこの舞台の静けさを示すものである。中央のオブジェに吊り下げられた箱に明かりが灯ると、息を呑むほど美しい。オブジェだけでなく今回の舞台の照明効果は素晴らしく、ほとんど見えないほどの暗さのなかで浩輔が母親と交わる場面は、二人とも着衣のままなのに生々しく、それでいて幻想的なまでに美しい。明るくすることと同時に、暗くすることの効果である。

 若い二人が結婚するまでと、別々の生活をはじめるまでの心の風景。言ってしまえばそれだけの話である。劇作家の実体験が濃厚に描かれているものではなさそうだし、心の迷いや悩みをそのまま描いたのではなく、距離をおいて淡々と静かにみつめる透明さが感じられる。終演後これほど劇場を立ち去りがたい気持ちになることは久々だった。静かな駒場の町から電車に乗り、渋谷に出るのが惜しい。できればこのままぼんやり佇んでいたい。井の頭線のホームから桜が見えた。満開の夜桜。桜は何も起こらなかったかのように毎年咲いて散っていく。人が生まれて誰かと出会い、交わって別れていく。それは奇跡のような喜びをもたらすが、同時に癒しがたい悲しみも生んでしまうのである。

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THE WHO's『TOMMY』

2007-03-27 | 舞台
*THE WHO音楽 いのうえひでのり演出 湯川れい子、右近健一訳詞 日生劇場 公式サイトはこちら 東京公演は31日まで

 中川晃教ファンの友人に早々と良席を予約してもらったものの、幕開けからネットでの酷評に少々びびりながら観劇。全編大音響のロックにのって展開する物語だ。CGを駆使して場所の転換や時間の経過、登場人物の心情まで表現しているところにまず驚いた。こうすれば大掛かりな舞台装置を組むことなく、教会から工場から病院から何から自在に描くことができ、主人公トミー(中川晃教)の両親の結婚式からはじまる物語をどんどん進めることができるのだ。しかし反面、人物の顔や姿までもが延々と映し出されると、「ほんもの」が舞台に立っているのになぁ、もったいないと思った。

 幼いころのトラウマによって三重苦になってしまった少年が、叔父の性的虐待やいとこの暴力を受けながらも、ピンボールの才能によって一躍有名人になり、突然三重苦から解放されて人々の教祖的に祭り上げられて・・・という大変に盛りだくさんなお話なのである。ロックオペラだから音楽や歌を楽しみながらみることができたが、これがストレートプレイなら、相当に重苦しいものになったのではないか。思い出したのは劇団四季の『エクウス』である。ほとんど裸舞台に近い空間で、少年が起こした事件の真相、彼の心の闇が示されていく様子は呼吸が苦しくなるほどスリリングであった。音楽や映像など、観客を楽しませたり、リラックスさせる要素はまったくといっていいほどなかったと記憶する。今回の『TOMMY』と比較するのはあまり意味がないことかもしれないし、自分はTHE WHOの音楽をまったく知らず、映画も昨年来日したブロードウェイ版も見ていない。本作への思い入れや関わり方が実に浅いのである。そのせいだろうか、彼の物語を敢えてロックで、という必然性がいまひとつ伝わってこなかった。

 それだけに本作に対する自分の期待は、劇団☆新感線のいのうえひでのりの演出の手腕と、中川晃教の歌を聞きたいという2点であった。2004年帝劇公演『SHIROH』の組み合わせならと。しかし前者は映像過多な舞台作りにいささか肩すかしをくらい、後者については、マイクを通した声ではなく、もっと生の声で聞きたくなった。中川晃教は日本人の歌手、俳優で他に類を見ないタイプで、「ステージアーティスト」という呼び名が自分の中ではぴったりくる。歌によって劇的世界を造形することができる点で、カリスマを感じさせる存在だ。カーテンコールで投げキスをしてこれほど様になる人は、ちょっとほかには思い浮かばない。非常に特殊な才能をもった人である。コンサート、ライブのスタイルで『TOMMY』を聴けたら。

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戯曲『ステキなアバター クリックひとつで気持ちはつながる?』

2007-03-26 | 舞台番外編
*ジュールズ・ホーン作 谷岡健彦訳 
 2006年にエディンバラのトラヴァース・シアターで初演され、スコットランド国内を巡演した作品。3月はじめ大阪・伊丹市のアイホールで、日英現代戯曲交流プロジェクトとしてリーディング上演された。演出はニットキャップシアターのごまのはえで、関西のさまざまな劇団から気鋭の俳優たちが参加した。昨年の『アイアン』(そのときの記事)と同じく上演には足を運べなかったが、翻訳者のご厚意で戯曲を読むことができた。ほんとうにまったく戯曲読みだけの、因幡屋演劇体験第2弾である。

 関西在住の友人がこのリーディング公演に行き、とても楽しんだとのこと。よし、わたしは戯曲初見で友人に負けないように楽しむぞ、と意気込んで読み始めたのだが、結果は惨憺たるものであった。まず4人の登場人物が思うように動かせない。地方の古い家やその周辺の様子には埃っぽい空気や曇り空など、戸外のイメージが思い浮かぶのに、そこに引きこもって、インターネットで出会った男性と初めて対面しようとしている30代の女性(エイミー)が、しっくりとはまってくれないのである。さらに隣人のダンとローズがヴィデオ撮影をしている場面がうまくつながらない。そうするうちにエイミーのお相手のラフィが登場するのだが、彼のキャラクターがこれまた把握できず。いつも戯曲を読むときは、わりあい早いうちに俳優のイメージが浮かんで、その人を動かしながら読み進むめるのに、こんなにも「言うことをきいてくれない戯曲」も珍しく、はじめの意気込みはどこへやら。意気消沈。

 数日後、再読。いささか安易というかベタだが、暫定的な配役を決めてみた。エイミー:寺島しのぶ ダン:大森南朋 ローズ:銀粉蝶 ラフィ:香川照之。すると急に台詞が目から頭へどんどん入り始めた。お芝居ぜんたいの構造もわかり、具体的なイメージが感じられるようになってくる。そうか、そういうことだったのか。テンポの早いやりとりの空気が掴めてくる。俳優の動きや表情までもが思い浮かびはじめる。わからなくなると、パソコン画面をスクロールして何度も読み返す。読めることのメリットをもっと活かしてこの作品を楽しもう。そう気分を切り替えた。

 インターネットで知り合った男女の交流と言えば、森田芳光監督の映画『(ハル)』を思い出した。会ったことのない二人のそれぞれの日常生活と、彼らがチャットで交わすおしゃべりの画面がスクリーンに映し出されながら進行する物語だ。「プラトニックラブ」という言葉には、何か意志が感じられるが、エイミーとラフィのバーチャルな恋愛関係には、うっかりすると病的な危うさを感じさせる。恋愛に限らず、人間関係には生の、リアルな交わりがどうしても必要なときがあり、それは人を幸せにもするが、同時に不幸にする可能性もはらんでいる。

 いつのまにか寺島さんも香川くんも、わたしの中からいなくなってしまった。俳優の顔がないままに、繰り返し戯曲を読む。俳優の既成イメージに限定されずに読む楽しみが味わえるようになったらしい。先入観も予備知識もほとんどない、パソコンの画面からやってくる戯曲の世界。上演をみていないことによって、逆におもしろさを感じられる関わり方を体験できたことを感謝したい。

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play unit-fullfull『ふたりが見た景色』

2007-03-23 | 舞台
*ヒロセエリ作・演出 渋谷LE DECO 公式サイトはこちら 公演は18日で終了
 登場人物の言葉から、おそらく名古屋近辺と思われる町の小さなアパートの一室が舞台。畳の上に布団が敷かれ、男が一人横たわっている。薬の袋と何かの書類(これはあとになって重要な意味をもつ)をじっとみつめて、布団に潜り込む。暗転して再び明るくなると、男の姿はなく、喪服を着た女性がふたり座っている。彼女たちは男の妹で、もうひとり弟もいて、男の葬儀が終わったあとという設定だ。両親が営む商売や両親の死をめぐって、男はきょうだいたちと諍いを起こして絶縁状態にあり、妻子にも内緒でアパートを借りていた。男には愛人がいて、この部屋は彼女との密会の場である。

 男が死んでしまったあとの現在と、まだ生きていた頃の過去が交差しながら物語が進む。妹のひとりは霊感が強いのか、「兄ちゃんが見える」と言い出したり、アパートの隣人や、彼に首ったけの蕎麦屋の娘がやってきたりする。現在と過去、こちらの世界とあちらの世界を自在に行き来する手法は演劇ならではのおもしろさだ。男がどんな人生を送ってきたのか、家族に何を伝えたかったかがだんだん見えてくる。二つの世界が平行線を越え、交わりぶつかる瞬間がこの手法のいわば決め手になるのだが、この点はもう一息の印象が残った。

 男(野本光一郎/ONEOR8)と愛人(勝平ともこ/劇団M.O.P)の姿は、「愛人」「密会」「浮気相手」という言葉を使うことが憚られるくらい慎ましく、手助けをしてやりたいという気持ちにさせられる。逆に男の妻は何だか感じの悪い女で、しかも彼女は自分の夫の弟と浮気(この言葉を使うぞ、わたしは)をしていて、こちらの愛人たちは厚かましく感じられ、見ていて不愉快になってしまった。作者のあて書きが絶妙で演出が的確であり、俳優の演技も巧みであることの証左だが、二組の男女の雰囲気の違いはどこからくるのだろう?この印象は拭いがたく、今回の俳優さんが違う舞台に出演されているのを見て、「う、あのときのあいつじゃないか」という感覚がつきまといそうである。

 勝平ともこは芯のしっかりした聡明な女性を演じて忘れがたい。劇中何度か衣装が替わり、そのどれもが高価ではないが、とても上品で彼女によく似合っていた。特に中盤に着ていたフリル襟の白いブラウスに茶色のセーター、ベージュのタイトスカートの組み合わせはよかったな。

 生きているうちに和解し、幸せに暮らせるほうがいい。しかし往々にしてそうはいかない現実がある。きょうだい、夫婦、親子という濃密なつながりを持つもの同士だからこそ、関係がこじれると溝が深まり、修復は困難になる。話し合えば許し合えば理解できるようになるというのは、もしかしたら幻想かもしれない。あっさりと割り切れないところが厄介で、それがまた人の心を苦しめるのである。過去の時間は取り戻せず、死んだ人は戻ってこない。あのとき電話でもっと話していればよかった、ちゃんと打ち明けてくれればよかったのに。やりきれない後悔もまた、その人に対する愛情なのだと思わせる。
 
 このひと月でルデコ通いが3回になり、自分の中で新しい空間としてあっと言う間に定着した。劇場に入るとジャンジャンに似た雰囲気を感じるのである。ここで見た芝居はどれも初見のカンパニーで、新鮮さを楽しむと同時に、何度も通ったジャンジャンの懐かしい空気が蘇るようなところもあって、実に不可思議な空間だ。

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スロウライダー第9回公演『Adam:ski アダム・スキー』

2007-03-19 | 舞台
*山中隆次郎作・演出 三鷹市芸術文化センター 星のホール 公式サイトはこちら 公演は25日まで この記事にはネタばれがあります。ご注意くださませ。
 スロウライダー初見。風は冷たいがよく晴れ上がった日曜の昼下がり、日当たりのいいロビーでのんびりと開場を待っていた。先入観も予備知識もなく、これからみる舞台がどんなものか知らずに。

 客席が階段状に組まれており、結構高い位置から舞台を見下ろす形になっている。手前の主舞台から少し奥側のやや高い位置に、別の空間が作られている。男性二人がテーブルをはさんで向き合って座り、片方がもうひとりに取材をしている様子だ。男は以前、ある民俗学者の門弟だった。その「先生」の死にまつわる話が主舞台である書斎で展開する。学者のうちには数人の門弟が同居しており、彼の死後、書きかけの自伝を皆で完成させようとしている。だがそれぞれの「先生」への思い、証言がことごとく食い違って執筆は行き詰まり、門弟たちは互いに混乱して争いはじめる。

 あろうことかわたしは最初の15分間眠気に襲われてしまったため、もしかしたら重要な場面を見逃した可能性もあるのだが、異質な空間に身柄を拘束され、逃げ道を塞がられたような恐ろしさにからだが固まってしまった。いったいわたしは何が怖かったのだろうか。

 血や内臓が出るわけでもなく、幽霊が出てくる怪談ものでもない。いささか猟奇的な内容とはいえ、「キワモノ」ではないと思う。恐ろしかったのは、「先生」が、死んでしまっているにも関わらず、門弟たちの精神を支配し、思考を操り、行動を狂わせている点である。門弟たちの力関係が、小さなことをきっかけにしてあっという間に逆転し、優位に立ったものが弱いものをいたぶり、弄び支配する。彼らをみている「先生」が、この空間のどこかにいる・・・。

 映画なら、さまざまな技術や手法を駆使していくらでも見栄えのする映像を作れただろう。今回の作品は、照明や音響の効果も確かにあったが、それよりも舞台で起こっていること、混乱して迷走する門弟たちの様相が怖くてならなかった。そして最後の最後のあの台詞で、観客はさらなる恐怖に襲われることになる。

 終演後、逃げるように劇場をあとにした。何かに取り込まれそうな気がして。しかしからだにまとわりつくようなあの書斎の空気は、決して不愉快ではなかった。劇場でしか、演劇でしか味わえない「ホラー体験」に、わたしは魅せられてしまったのかもしれない。

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