因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

東京乾電池公演『牛山ホテル』

2014-12-28 | 舞台

*岸田國士作 嶋田健太演出 公式サイトはこちら アトリエ乾電池 12月4日で終了 (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13
 今ごろになってⅡでございます。こちらも記憶をたどって何とか。

 下北沢の東京乾電池に行くのは、小田急線が地下に入ってからははじめてである。以前はなかなか開かない踏切を渡って通りを長いこと歩いたが、この日は通りのいろいろなお店の様子を楽しみながら意外に早く到着した。満席の盛況だ。

 舞台は戦前の仏領インドシナ(現ベトナム)にある「牛山ホテル」は、異国に出稼ぎに来た「からゆきさん」の駆け込み寺のようになっている。そうとうに作り込まれた舞台装置で、しかも劇中に場面転換が何度もあり、ホテルのロビー、二階の客室、宴会場らしきところなどを、この小さな劇場できっちりと写実につくっているのは立派である。登場人物のほとんどが強いなまりのある九州ことばを話す。意味がわからない台詞ややりとりも結構あるのだが、あまり気にならない。新劇風といってもよいほどオーソドックスなつくりのなかに、ロオラという外国人妻や、年配の人物の化粧やかつらなどがいかにもとってつけたようだったり、ところどころ力を入れたようで抜いているというか、いかにも乾電池らしいところがあっておもしろい。

 「手だれ」という言い方がある。「手足」、あるいは「手練」と書き、技芸や武芸などに熟達していること、よく慣れて上手な手並みを指す。高く評価することばではあるのだが、使いようによっては巧すぎること、手慣れていることに対する嫌みな気持ちを感じさせるときもあって、注意が必要な表現だ。

 今回の舞台をみて、舞台美術のつくりや俳優の演技から、この「手だれ」のマイナスイメージが感じられないことがもっとも強く印象に残った。それは意識して技術を前面に出さないことでもあり、稽古の段階で演出家も俳優も戯曲をよく読み込み、何が書かれているのか、それを的確に表現するにはどんな声、台詞の言い方、動作が必要なのかを試行錯誤し、吟味したことの証左であろう。
 仮にこの作品を文学座や民藝が上演するとしたら、立派な舞台美術をつくり、俳優も若手から中堅、ベテランまで堅固で正統的な舞台を構築するであろう。そういう舞台もみたいけれども、東京乾電池の『牛山ホテル』はあまり気負わずして、いわゆる新劇系の正統派とはべつの方向性を探りながら、もしかすると戯曲の求めるものにより近い舞台をみせているのではないだろうか。

 来年1月、東京乾電池は新宿ゴールデン街劇場において、岸田國士ふたり芝居を3本上演する。行かねば。

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てがみ座第10回公演『汽水域』

2014-12-28 | 舞台

*長田育恵作 扇田拓也(ヒンドゥー五千回)演出 公式サイトはこちら シアタートラム 12月6日で終了 12月12日より穂の国とよはし芸術劇場PLAT/アートスペースで上演 (1,2,3,4,5,6,7
 今ごろになってお恥ずかしいのですが、ひと月前の観劇記録を記憶を頼りに(苦笑)書かせていただきます。
 前作夏の文学座アトリエ公演書き下ろし『終の楽園』も好評を経て、ホームグラウンドのてがみ座で最新作の上演となった。勢いのある劇作家の公演は、開演前から場内に熱気があってわくわくする。
 タイトルの「汽水域」は「きすいいき」と読み、海水と淡水がまじりあう場所を意味する。公演のDMには、「ウナギの稚魚がのる潮流を背景に、現代の日本と、かつて移民として渡った日系二世・三世たちの物語を編んで行こうと思っています」と記されている。
 フィリピンの河口、汽水域でウナギの密漁をしていた少年は、日系二世の父とフィリピン人の母を持つ。やがてみずからのルーツを求めて日本に密航する。2020年の東京オリンピックの準備がすすむウォーターフロントで不法労働者として働く。

 複雑に組まれた足場は、フィリピンの河口と少年が家族と暮らすスラムであり、コトブキと呼ばれる日本の労働現場にもなる。主軸の人物以外はフィリピンと日本の人物のりょうほうを演じる。まずこの舞台装置がすごい(杉山至+鴉屋)。劇作家の描こうとする世界を何としても具現化するのだという気迫が感じられる。水の匂いやそこで暮らす人々の生活臭までが漂ってきそうなのに、どこかこの世のものではないかのような静謐な雰囲気があって、物語がはじまる前から客席を圧倒する。

 舞台美術にこれだけの気迫があれば、あとは俳優である。てがみ座の舞台をみていつも感じるのは、劇作家に対する強い信頼と、皆が情熱を注いでよい舞台をつくろうという全力投球の姿勢である。劇団員はもちろんのこと、客演の俳優ふくめ、自分の力を最大限発揮せんとするエネルギーに満ちている。しかし今回は俳優の演技のバランスなのか、質のちがいなのか、物語のなかにすっと入っていけないぎくしゃく感があった。フィリピンの村と日本のコトブキが交錯するつくりはおもしろい。だが出演俳優はぜんいん日本人であり、フィリピンの場面で人々が日本語でやりとりしているのを聞きながら、「ここはフィリピンなんだ」と、ときどき自分に確認しなければならなかった。フィリピンから日本に密航した少年は、自分の村では普通に日本語の台詞を話すが、日本の工事現場では片言の日本語になる。日本人俳優が日本語を話しながら、ひとつの場が日本とフィリピンを行き来することを受けとめるのに、思いのほかエネルギーを要したのである。何だかものすごく単純な、入口のところでつまづいてしまったようなのだが。

 そのために物語ぜんたいをとらえて味わうところまでたどり着けなかったのが残念だ。どうすればよかったのか。

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2014年因幡屋演劇賞

2014-12-28 | お知らせ

 年末恒例の因幡屋演劇賞を発表いたします。リンクはいずれもブログの記事です。
 深く豊かな時間をありがとうございました。

*シアター風姿花伝プロデュース ラーシュ・ノレーン作 富永由美翻訳 上村聡史演出
『ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる』
*シアタートラム ワジディ・ムワワド作 藤井慎太郎翻訳 上村聡史演出
『炎 アンサンディ』 
*studio salt椎名泉水作・演出『柚木朋子の結婚』(10月11月
*顔見世大歌舞伎より、市川染五郎初役の『勧進帳』弁慶
*十一月新派特別公演 十七代目中村勘三郎、十八代目中村勘三郎追善公演 『鶴八鶴次郎』『京舞』
*ロ字ック公演 山田佳奈脚本・演出 『媚媺る、』
*ミナモザ公演 グードルン・パウゼヴァング原作 高田ゆみ子翻訳 瀬戸山美咲上演台本・演出『みえない雲』

 じつに節操なくバラバラというか、偏っているというか(苦笑)。
 今年は観劇のほかにも早稲田大学エクステンションセンター主催のオープンカレッジの新劇セミナー(1,2,3,4,5,6,7,8,9)や金星句会の鍛練合宿など、さまざまなことがありました。そして年末にはまさかの仕事状況激変となり、出会いと導きによって今があることを感謝しております。
 来年はどんな年になるのでしょうか。目の前の舞台を素直に受けとめること、自分の心の動きを冷静にみつめること、文章が書けないことを恐れない、考えることをやめない・・・などなど課題は山積です。できないことがこれほどたくさんあると思うとめげますが、「これからできるようになるかもしれない」と思えば、少しは楽しくなるかも?ともかく心身が守られ、意欲を持って舞台に臨めますよう。
 来年も因幡屋通信、因幡屋ぶろぐ、そして因幡屋ツイッターをどうぞよろしくお願いいたします。
 今年1年ありがとうございました。よいお年をお迎えくださいませ。

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ミナモザ第16回公演 『みえない雲』

2014-12-19 | 舞台

*グードルン・パウゼヴァング原作 高田ゆみ子翻訳 瀬戸山美咲上演台本・演出 公式サイトはこちら シアタートラム 16日で終了(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21
 
 1986年チェルノブイリで原発事故が起こった。本作はその翌年、ドイツで執筆された架空の原発事故の物語である。
 主人公のヤンナ・ベルタは、平和でのどかなドイツの町で両親とまだ幼いふたりの弟と暮らす14歳の少女である。ある日、授業中に聞いたことのない警報が鳴り響いた。校長先生は校内放送で「生徒は即刻帰宅するように」と叫ぶ。遠い町の原子力発電所で事故が起こり、放射能が流れ出したというのである。両親はあいにく泊まりがけで出かけており、ヤンナ・ベルタは8歳の弟ウリとともに自転車で町を脱出しようとする。町は大混乱に陥り、人々はパニック状態だ。弟を亡くし、友だちともはぐれ、見知らぬ町の病院に収容されたヤンナ・ベルタの過酷な日々が容赦なく描かれる。
 ドイツの町の名前を「フクシマ」に置き換えれば、そのまま2011年3月11日からの福島第一原発事故に重なる物語であり、舞台をみながら背筋が寒くなるのを覚えた。

 舞台は「私」という女性が子どものころ、図書館で原作を手に取る場面にはじまる。出演俳優が図書館に並べられた本のように立ち、「私」はたくさんの本のあいだから『みえない雲』を選びとる。この導入部の照明や、俳優が本に扮する演出がすばらしく、一気に劇世界に引き込まれる。
 が、なぜか自分は舞台の「私」が「瀬戸山美咲」ということがすぐに理解できず、現代に生きるひとりの女性としての「私」だと捉えていた。なので、「茨城県の東海村で放射能の臨界事故が起こり」という「私」の台詞に、「なぜ“日本の”と入れないのかな」と不思議に思ったのである。つづいて、「臨界事故をモチーフにした作品を書いた」という台詞を聞いて、ああこれは2003年上演のミナモザ第3回公演『まちのあかりがきえるとき』だとわかって、ようやくこの舞台の構造が把握できたのであった。

 瀬戸山美咲は、原作の小説に2014年の今の視点のみならず、今時点に至るまでのみずからの歩みを盛り込んだということなのだ。
 それは非常に演劇的でおもしろいつくりなのだが、「私」が瀬戸山美咲と名のりこそしないものの、『ホットパーティクル』の構造がここにも出てしまっているようで、自分としては疑問を禁じ得なかった。

 ヤンナ・ベルタの物語だけで、じゅうぶんな重みと深さがある。そこに「私」、つまり瀬戸山自身が原作者のパウゼヴァングさんをドイツに訪ねたおりのエピソードが決して短くはない時間で描かれる。通訳の女性が重要な役割を果たしていることもあり、原作者がどのような女性であるか、どんな話をしたのかも大変興味深い。しかし対話というよりも「私」の語りの文体になりがちなこともあり、そこまでの劇の感興を削がれる。
 終盤ちかく、「私」が原発事故や、それを容認してきた政府や関係者、自分自身にまで及ぶ激しい怒りを爆発させる長いモノローグがあって、ここは賛否や好みが分かれる箇所であろう。演じる俳優の身体の動きや台詞は、おそらく演出家とともに試行錯誤を経て練り上げられたものと想像する。しかし劇作家自身の思いをここまでベタに舞台で発するのはいかがなものであろうか。彼女の台詞が男言葉になってしまうところも、それだけ感情が激していることの表れであり、ある種の効果はあるだろうが、舞台の品位を下げてはいないか。
 自分の主張を「いかに言うか」だけでなく、「いかに言わないか」も大切ではないだろうか。

 疑問に思ったところをまず書いてしまったのだが、自分は今回の舞台からいろいろなことを感じとった。困難に襲われたとき、何が人を助けられるのか。物質的、人為的、経済的な支援など、具体的で目に見えて手で触れるものがまず必要だ。しかしそこから先、文学や音楽、そして演劇などの創造物の果たす役割がぜったいに必要だ。さらに、優しく柔らかく人の心を癒すものも大切だが、厳しいもの、重苦しいものが人を救うこともありうることを忘れてはならない。

 原作の小説、今回の舞台ともに、チェルノブイリ原発事故と東日本大震災と福島第一原発事故がなければ生れなかったものだ。原発事故は起きてはならなかったことであり、痛恨の極みである。しかしそこからこの小説が書かれたこと、さらに30年近い年月を経てこの舞台が生まれ、それを2014年の現代の観客が出会えたことは、ひとつの希望ではないかと思うのである。

 終幕で、ヤンナ・ベルタは祖父母の家にたどりつく。放射能によって髪の毛が抜けてしまった彼女は帽子をかぶったままだ。祖父は事情がわかっていて敢えて言うのか、単に食事の席での無作法が許せないのか、「帽子を取れ!」と孫を叱責する。襲われた不幸を共有できない現実。ヤンナ・ベルタは自分に起きたことを話そうと決意し、「あのね」と言って帽子を脱ごうとする。
 ここからヤンナ・ベルタの新しい物語、新しい闘いがはじまるのだ。

 今年の現代劇の観劇はおそらく本作が最後になる。年の瀬にたしかな手ごたえを得て、嬉しく幸せな一日になった。瀬戸山美咲は小学生のとき、『みえない雲』に出会った。それが今回の舞台に結実したことを、客席から喜び祝福したい。
 

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劇団ロ字ック第9回本公演 『媚媺る、』

2014-12-12 | 舞台

*山田佳奈脚本・演出 公式サイトはこちら 下北沢小劇場B1 14日まで (1,2,3,4
 タイトルは「びびる」と読む。師走の下北沢で、劇団ロ字ックと山田佳奈が新作をかっとばした。快作である。

 小劇場B1で行われる公演が全席自由席の場合、どこに座るかは毎回悩ましいことである。演技スペースを二方向からはさむ形なので、舞台のつくりや席による舞台の見え方などを、入場してすぐに判断しなければならない。自分は「こちらのお席もみやすいですよ」という誘導に従って、手前ではなく左奥の座席についた。
 そこからみると舞台は縦長につくられていて、手前にアパートのリビングらしき空間があり、その奥にオフィスらしい空間がみえる。
 山田佳奈の作劇の特徴として、複数の舞台空間をつくり、それらがときに同時進行したり、少しずつずれながら絡みあったりする。登場人物は異なる空間を行き来しながら、ひとつの物語を形成していくのである。これまで数回みた劇団ロ字ックの舞台は、いずれもサンモールスタジオであり、そのときは舞台手前にひとつ、そして2階をつくるようなかたちで、もうひとつの空間がある場合がほどんどであった。今度は舞台を横方向に使うらしい。

 舞台がはじまってすぐ、自分の座席選択がまちがっていたのではという思いがよぎった。それは、客席に背を向けた俳優のせりふが急に聞こえなくなるためであった。開演前にスタッフから注意事項のアナウンスがあったとき、右手がわの客席に向かって話すスタッフの声が非常に小さく聞こえたので少し不安になったのだが、それが的中した。手前のアパートでの会話は無理なく聞こえる。しかし奥側のオフィスでのやりとりが、聞きとりづらい箇所が少なからずあった。ふたつの空間を左右に見渡せる位置ならば(劇場に入って右スペースの端あたりか?)、もっと臨場感や切迫感が近く感じられたかもしれない。
 「小劇場」という名を持ちながら、この小屋は思ったより横に距離があるのだ。

 主人公は自分の考えを口に出すことが苦手な白石マイ子(片桐はづき)である。職場は入浴剤を扱う会社の商品管理課で、マイ子以外は同僚も後輩も、上司ですらまともな社会人はゼロに等しく、マイ子はいつも割を食っている。マイ子には同棲している恋人の徹(川本ナオト)がいるのだが、彼の妹のマリ(榊菜津美)がずるずると居候しており、職場でもうちでも居心地が悪い。
 出産で退職した先輩(堂本佳世)にかわって、新人の森谷マイ子(日高ボブ美)が入社し、マイ子の周辺が少しずつ変わってくる。

 人物の性格や造形が少々極端なところもあるが、ありえない設定ではないと思う。みな一様に軽薄で仕事もろくにせず、相手に対する配慮や気づかいといった感覚が欠落している。言いたい放題の無責任。
 現実に誰しも職場や家庭で小さな我慢を重ねている。話し合いによって環境の改善し、よりよい人間関係をつくるなどということがほとんど不可能に近い状況というのは、じゅうぶんにありうることである。

 個々の人物の性格の描き分けが明確で、声や表情、ちょっとしたしぐさに至るまで、「これでもか」というほど嫌な空気を撒き散らす。劇作家・山田佳奈のペンは冴えわたり、「そこまで言うか」、「普通言うか」といった刺や毒のあることばをつぎつぎに放つ。また演じる俳優が劇作家の期待に応えて、自分の役どころを的確にとらえている。こんなに嫌な女の役を演じることに、傷つくのではないかと秘かに心配になるほどだ。

 いつものロ字ック作品の笑いもぐっと影をひそめ、客席は異様なほどに静まって、舞台を凝視している。

 現代の閉塞的な状況に生きる人々の様相を切り取った一種の社会劇としてとらえることもできるし、自意識過剰な主人公の「相手にはっきり言ってやりたい」という妄想がつくりあげた幻想劇とも言えよう。同じマイ子の名を持つ白石と森谷は、ひとりの女性の表と裏、心の奥底に眠る「もうひとりの私」かもしれない。

 物語の流れや個々のやりとり、ふたつの空間の繋ぎ方などが実に絶妙で、舞台から目が離せない。はじめてロ字ックの舞台をみたときの「粗削り」や「むき出し」といった印象を思い起こすと、劇作家のペンが強靭で巧みになった。これはテクニック面が巧くなった、つまり技巧がよくなったということではなくて、自分の心の様相を舞台に映し出すことに、苦悩よりも幸福を覚えているからではないか・・・あ、いやこれは因幡屋の妄想かもしれない。

 今回の『媚媺る、』は、完成形ではない。設定を変え、人物をずらしながら山田佳奈のなかでこれからもつづいていく物語ではないだろうか。ほとんど救いのない話なのに、終演後の気持ちが清々しいのは今後への期待のためである。白石マイ子にいつかまた会いたいと思う。

 観劇後の心がまだふわふわしていて、ことばの選択や文章の構成が整っていないが、どうしても今夜のうちに書いてみたかった。「みたかった」というのはへんな言い方だが、ロ字ックの舞台に「してやられた」のだろう。「ああ、ちゃんと書けないよー」と情けないのに、何だか嬉しいのである。

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