因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

後半に追加しました!2018年6月観劇と俳句の予定

2018-05-31 | お知らせ

 6月の観劇予定から。今月は前半に集中しております。後半に1本追加いたしました(6月1日)
Triglav 1st work 「The Collection」
 学生時代に出会い、共に舞台を作った仲間が、それぞれの場所で経験を積んだのち、新たなユニットを結成、ハロルド・ピンターの初期戯曲に取り組む。
*コニエレニ×ビニヰルテアタアvol.1短編戯曲集『ふたつの小部屋』
 劇団唐組を退団した俳優の赤松由美が個人ユニット「コニエレニ」を立ち上げた。ポーランド演劇を活動の主軸にするという。同じくかつて唐組の紅テントで共に演じた千絵ノムラのビニヰルテアタア(1,1')と二篇の戯曲を上演する。東京乾電池の俳優との共演も楽しみ。
日本のラジオ『ツヤマジケン』1,2,3,4,5,6,7,8,9,10
 あの「津山事件」がモチーフである。
新宿梁山泊63回公演『ユニコン物語~台東区篇~』1,2,3,4,5

劇団民藝『ペーパームーン』佐藤さつきの新作書き下ろし。1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31,32,33
劇団7度 ソポクレス作 呉茂一翻訳 伊藤全記演出・構成『アンティゴネ』(
1,2,3,4,5,62000年以上も前に書かれたギリシャ悲劇が、駒込妙義神社にて現代に蘇る。それにしてもこの半年あまりで『お國と五平』→『ハムレットマシーン』→そして『アンティゴネ』と、7度の動きについて行くのに必死。 

 句会の兼題、勉強会の季語は次の通り。
*かさゝぎ俳句勉強会「祇園会」「瓜」「行水」
*十六夜句会「梅雨の月」「蟻地獄」
*演劇人句会「蛍」「さくらんぼ」
*金星句会「ソーダ水」「水馬」(あめんぼう)…この句会は4月から5句出句が7句になった。7句×参加者12名=84句と、結構なボリューム。それぞれ選んだ句を発表し(欠席者からはメールやFAXで)、選ばれた句一つひとつについて議論するため、出句が増えればその時間もさぞかし!と思っていたら、これまでの5句出しと同じくらい、あるいはもっとスピードアップして1時間半で終了した。これは指南役の方の進行、仕切りがいかに手際よく的確で無駄がないかの証左であり、ひとえに感嘆と感謝なのであります。それともうひとつの理由は、参加者の選があまり分散しないことか。別な言い方をすると、わたくしの場合、7句出したからといってそれまでより選が増えるかというとまったくそんなことはなく、むしろ「選ばれなかった句」が増えているということなのであります。

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劇団おおたけ産業5月公演『はこぶね』

2018-05-28 | 舞台

*屋代秀樹(日本のラジオ 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10)作 大竹匠(劇団おおたけ産業)演出 劇団公式サイトはこちら 新宿眼科画廊スペース0 30日で終了

「神さまの声が聞こえてくるようになったため、信者4人くらいの新興宗教を何となく流れで始めることになったニートの青年と、彼を信じることにした人々の短いお話」。日本のラジオ公式サイトにある通り、神さまの声が聞こえて、その人の前世がわかる若者が何となく教祖のようになり、自宅に人が集まってくる。同居の姉は宗教にはみごとなまでに関わっておらず、しかし弟のことは好きでよく面倒を見ており、信徒たちにも「弟の友だち」として普通に接している。信徒の意識にも強度差があり、真剣に修行しているもの、気楽にやっているもの、教祖を本気で慕うものなどがいる。ある日信徒の一人が見学の女性を連れてきたことから、大学のサークルよりも緩そうな「友だち同士教団」風のコミュニティが軋みはじめる。

 冒頭、姉は旧約聖書「創世記」を朗読している。人間の堕落に絶望した神は洪水で人間を滅ぼそうとし、この世の動物すべてを一つがいずつ船に乗せるよう、ノアに命じるくだりである。まさに今回のタイトル『はこぶね』だ。しかし平仮名で書くとどこかファンタジーのようであり、目の前で鼻呼吸をしている若者たちの向うの何かを象徴しているのかとも思われる。

 カルト集団のような荒っぽい修行や強引な勧誘、反社会的行為は皆無である。教祖とされる若者もおっとりと優しい風情で、仕送りと姉のバイトでようよう暮らしている。攻撃的なところもなく、どこにでもいそうなニートである。ただそれだけに、この社会においてあまり特殊な経緯も理由もないまま、「それらしい」コミュニティが生まれる可能性を暗示しているようでもある。

 見学にやってきた女性はとても可愛らしく、何より信徒たちに比べてノーマルである。しかも彼女の夢診断とともに、前世が教祖に見えることで打ち解けたとあっては、その後の展開はじゅうぶんに予想できる。恋をしたら教祖も普通の男性に戻ってしまい、コミュニティは崩壊したらしいというのが本作の顛末だが、おもしろかったのは、教祖の姉の立ち位置と性格である。弟がニートのあげく新興宗教らしきことを始めたにも関わらず、平気そうに見えるのだ。前述のように弟をとても大切にしており、信徒たちがやってくると、ほとんど弟の友だちが来たのと同じ感覚で「チャイ飲む?」、「じゃあ、あたしバイト行ってくるから」とまことに自然体で接している。そして折に触れて旧約聖書を朗読するのは、弟のしていることを理解したいためなのか、といっても体操しながら読んだりと、どの程度本気なのかは計りかね、この姉のほんとうの気持ちがどこにあるのかは、最後までわからない。

 作りようによっては、シビアな社会派ドラマになりそうな題材だ。人物もそろっており、ストーリー運びも巧みである。だが演出の大竹匠は屋代秀樹の作風、作劇の意図を的確に掴み、舞台を作り上げた。さらりと軽く、しかし決してふざけすぎない。素直で誠実な姿勢が感じられ、気持ちの良い一夜となった。

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唐組第61回公演【唐組30周年記念公演第1弾】『吸血姫』

2018-05-26 | 舞台

*唐十郎作 久保井研+唐十郎演出 公式サイトはこちら 大阪、新宿・花園神社、雑司ヶ谷・鬼子母神、長野市城山公園ふれあい広場、駿府城公演富士見広場をツアー 6月23日まで1,2,3,4,5,6

 1971年に産声を上げた作品が、2018年の初夏、狂おしくも鮮やかに蘇った。唐組が状況劇場時代の作品を上演するのは極めて珍しく、さらに今回の眼目は、「最後のアングラ女優」と呼ばれる銀粉蝶を客演に招いたこと、唐十郎の長女大鶴美仁音、次男の大鶴佐助きょうだいがそろって出演することである。初演を知る人にとっては切ないまでのノスタルジーを掻き立てるであろうし、50年近い年月を経て再び観客の前に現れる作品への期待もあるだろう。休憩を挟んで2時間30分の長丁場にも関わらず、紅テントの熱気はいつにも増して熱いものであった。

 大鶴きょうだいの熱演については、すでにさまざまなサイトで称賛の声が上がっている通りである。謎の引っ越し看護婦役の大鶴美仁音は、人力車に乗って声だけ聴かせる登場の場面からただ事ではない迫力を予感させ、近づけば火花が散り、触れれば血が噴き出るかのような演技で魅了する。大鶴佐助は、第25回読売演劇優秀女優賞を受賞した藤井由紀演じる主婦を口説いたあげく殺してしまうという振り幅の大きな役で、今後どのような立ち位置の俳優になるのか全く読めないところが非常に嬉しい。

 今回特筆したいのは入団して数年の若手の大健闘である。公演ごとに表情が引き締まり、声にも張りが増して舞台の立ち姿も力強くなった。本作は奇妙奇天烈なオープニングで、ごてごてと飾り立てた実に安っぽいお立ち台に乗り、既に剥げ落ちそうな厚化粧に金髪、看護婦の白衣がほとんどチンドン屋と見まごうほど珍妙な銀粉蝶が、若い看護婦の福原由加里、加藤野奈を両脇に従えて登場する。このとんでもない趣向に、福原と加藤はまったく負けていない。「いいわあ」しか言わない福原は、その不自由性を逆手に取るかのようなしたたかさを見せ、子持ち看護婦役の加藤はむち打ち症の亭主(久保井研)相手に、これまた一歩も譲らない。

 まことに地味な場面だが、謎の引っ越し看護婦の乗った人力車の車夫役の大澤宝弘も、編み笠を被って顔を伏せたままながら、わけありの佳人を乗せ、みずからもまた日陰の身であるような雰囲気を纏って台詞も明瞭。河井裕一朗は、看護婦役(福原、加藤とは別の白衣の天使隊))ではなかなか可愛らしく、それが一転、後半ではふてぶてしい老人を演じ継ぎ、ここでも成長ぶりを見せる。

 謎の引っ越し看護婦の父親役(なのに娘と結婚しようとする)清水航平は、2016『夜壺』では看護婦役とナンバー1ホストの追っかけ?の二役に抜擢され、大いに気を吐いた。今回後半まで出番がなく、しかも長く舞台にいる人々のなかに突然入り、その熱量のなかで演じるのは、ある意味で出ずっぱりよりもむずかしい面があると思われるが、物語のなかでこの人物にはどんな役割があるか、それを的確に表現するにはどうすればよいかをきちんと体現する演技であった。

 某演劇情報サイトに掲載された久保井と藤井のインタヴューによれば、劇団員には敢えて配役を発表せずに本読みを行ったとのこと。どの役が来るか、どんな台詞を言うのか日々異なるという稽古。自分の役、自分の台詞だけでなく、どこの場面のどの人物の台詞でもわかった上で、最終的な配役を演じるわけである。時間のかかる手法であり、演出、俳優双方に辛抱が必要であろう。しかし前述のように、熱いだけではない、若手の的確な演技を見ていると、このようなプロセスを経て本番を迎えたことが納得できるのである。

 演劇において、継承とはどういうことであろうか。伝統芸能であれば、師匠の技、先祖代々が受け継いできた芸、作品を現在と未来に渡って伝えていく責任と義務があるであろう。数百年前の上演と同じ形式(と思われる)を忠実に示すことは重要だ。しかし俳優、演出家はじめ作り手と観客は今生きている存在であり、基本はきちんと押さえた上で、伝統の忠実な(ある意味では単純な)再現ではない、今の呼吸と体温を伝える舞台を見たいのだ。それは舞台設定を現代に変えたり、ことば遣いを今風にするということではない。

 現代演劇においても重鎮、師匠的存在があり、鬼籍に入ってなお後輩に影響を及ぼすことも少なくない。先達への尊敬は大切だが、それが束縛になっては残念ではないか。また血のつながり、DNAということを、ことさら意識することなく、舞台そのものを味わいたいのである。

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文学座公演『怪談 牡丹燈篭』

2018-05-26 | 舞台

*三遊亭円朝原作 大西信行脚本 鵜山仁演出 公式サイトはこちら 3月に千葉市民会館大ホールで開幕し、多摩地区や埼玉県、新潟県へ。紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA公演は6月3日まで、その後神奈川県、関西方面を7月初旬までの大ツアー。

 杉村春子の当たり役を新橋耐子が受け継いだ上演を見たのは、もう20年も前であることに軽い衝撃を覚える。杉村の相手役伴蔵を続投した北村和夫が鬼籍に入ってからも、早や10年が過ぎた。公演パンフレットには、74年の初演から数回に渡る再演について、脚本の大西信行、演出の戌井市郎の寄稿が掲載され、歌舞伎、新劇それぞれの「見せ方」「切り口」の違いがよくわかる。

 98年観劇時はまだブログを開設しておらず、以後2006年ハイリンド公演(1)、2009年シス・カンパニー公演(1)のブログ記事をリンクしておきます。

 さて配役を一新した今回の上演は、杉村&北村のような「当たり役」を得た俳優の至芸を見せることよりも、作品自体の内面をより多角的に表現することに注力している。たしかに富沢亜古はお米、お峰、夫人の三役を演じ、中盤では歌舞伎ほどではないにしても、ちょっとした早替わりの場面もある。しかし改めて考えたのは、実に身も蓋もない言い方になるが、一人の俳優がお米とお峰を二役で演じることは、本作にとって必然なのかしら…と思うほど、演じ分けや演じ継ぎについては、むしろ控えめな印象を持った。

 物語の発端は、飯島平左衛門の娘お露が浪人の萩原新三郎に焦がれ死にし、乳母のお米も後を追うように亡くなったことである。「こんな境遇ならおそらくこんな人」という類型にわかりやすく収まっている登場人物一人ひとりが精彩を放ち始めるのは後半からだ。伴蔵お峰夫婦は思いもよらない大金を得て始めた商売が軌道に乗り、暮らし向きが良くなった。源次郎と情婦のお国は謀に失敗してすべてが狂い、乞食同然。さらに伴蔵らと同じ店子のお六は亭主が不慮の事故で身まかり寄る辺の無い身、源次郎とお國が口封じに殺した中働きのお竹の妹が…といった具合に、人々の相関関係、因果が絡み合って、金さえあれば、あるじさえ死んでくれたらといった短慮で行った仕業は、やがて因果応報の憂き目に逢う。

 お峰は前半こそ爪に火を点すような貧乏所帯の女房だが、後半は荒物屋の女将として商売を切り盛りし、奉公人への振る舞いも実に堂々たるものだ。ところが伴蔵のほうは、悋気に手を焼き、江戸での所業が知られそうだからといって、糟糠の妻を殺める。いかにもやりきれず、救いのない話である。一方でたちの悪い毒婦と見えたお國は足が不自由になった源次郎に尽くし続け、ぶれることがない。

 2月の『近松心中物語』で甲斐性なしの婿を思いやる優しい舅役が味わい深かった大原康裕が、この舞台では医師、馬子、さらに作者の三遊亭円朝の三役を達者に、しかし決して嫌味にならず演じ継いでゆく様子は気持ちがよく、安定感がある。

 伴蔵とお峰は幽霊への恐れと金の欲によって人生の舵を切り、破滅に至る。生きている人間の変容や裏切りのほうが幽霊よりもよほど恐ろしく、エゴ剥き出しで醜悪だ。円朝と出会った立派な紳士とその夫人が物語をきれいにまとめて幕となる。脚本も演出も手堅く、美術(乗峯雅寛)はいわゆる「和物」とは異なる風合いのものを置き、視覚的にも楽しめる舞台であった。俳優は若手、中堅、ベテランがバランスよく、文学座の財産演目がきっちりと守られていることがわかる。

 ただ、この作品にはまだまだ伸びしろというのか、別の顔があるのではないか。どのあたりがどう…と言えないのだが、冒険の余地があると思われるのである。

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劇団普通第6回『害虫』

2018-05-22 | 舞台

*石黒麻衣作演出 公式サイトはこちら 渋谷ルデコ5F  27日まで
 ちょうど2年前、劇団普通企画公演の『クノセカイ』(屋代秀樹作 石黒演出)を観劇したが、石黒が作演出をつとめる本公演に足を運ぶのは、今回の『害虫』が初めてである。当日リーフレット掲載の石黒による挨拶文を読むと、本作の内容や作者の思いなど、多くのことが読み取れる。

 
2回『悪霊』、第5回『帰郷』に続いて「いつの間にか私の中でシリーズものになっている作品」であり、「社会の片隅の埋もれそうな一軒家で暮らす、誰からも顧みられることのない、名前も無く、あるのに見えない、『家族のような、友だちのような、ひとびと』」の話であるという。登場するのは母親(石黒)と5人の子どもたちだが、彼らは皆父親が異なる。もしかすると劇中にそれとわかる台詞があったかもしれないが、母と夫たちとは、死別か離婚かは明かされない。奔放な母のようである。是枝裕和監督、柳楽優弥主演の映画『誰も知らない』を想起させ、また塩田朋彦監督、宮﨑あおい主演で、同じ「害虫」というタイトルの映画もあり、観劇前さまざまな想像が頭をよぎったが、むろん劇団普通の『害虫』は、まったく別の世界である。

 改装されたルデコは見違えるほどきれいで洒落た建物になった。5Fは室内の柱が取り除かれ、壁や床も白っぽい色調である。久しぶりに訪れたこともあって、これまでの記憶も消え去りそうなほどだ。黒い壁の圧迫感は、そこで繰り広げられる物語に知らず知らず奥行きと謎や闇をもたらしていたが、無機的な白い室内での家庭劇は、前述のような家族構成も相まって、いっそう静かに淡々と進行する。子どもたちは主に、今日何を食べるかという話をする。母親はほとんど留守にしており、買い物から料理、家事すべてを子どもたちでこなさなければならない。年齢の幅はそれなりにあるようだが、皆成人に達した子どもたちであるから、生活能力、家事経験などが直接問題になるわけではない。しかし、常に家族のことを考える人が不在であるのは、どういう状況を生むかということが、静かな会話のなかから次第に湧き出てくる。
 たとえば冷蔵庫にはバナナとパンと納豆しかない。それで何を作るかといったことで、かなり長いやりとりが交わされたりなど。

 時おり激する場面もあるが、彼らはほとんど感情を排したかのように話す。90分の上演時間がやや長く感じられることもあり、この会話をどこへ持っていこうとしているのかが全く読めないことに、少なからず困惑した。子どもたちのなかで、長男だけが母親の2番目の夫の連れ子である。つまり母によってかろうじて血がつながっている子供たちのなかで、たった一人、まったく血のつながりがないことになる。単純に捉えれば、彼がこの物語を展開させる(あるいは壊す)キーパーソンであると思われた。姉たちから無条件に可愛がられる末の弟に比べると、何かと外に置かれているようでもあり、タイトルの「害虫」とは彼のことかと思われる。しかしまるでその場にいないかのように押し黙ったままの末弟(もしかすると彼はこの世の人ではない設定かとさえ)も、見方を変えれば害虫的な要素を持っているし、姉たちもそれぞれ癖があって、心の奥底に害虫が巣食っていそうであるし、何よりこのあまりに変則的な家族構成の大元である母親が害虫ではないか…と思いつつ、安易な解釈は観劇の妨げになると思い直したり。

 後半、長姉(菊地奈緒)が、自分は疲れているので、三女に食事作りを手伝ってほしいと言う。しかし三女は弟とのおしゃべりが楽しいのか、一向に腰を上げない。長姉がキレるかと思ったが、ついに彼女は、疲れたので水を飲んで寝るといって去る。揺れ動く感情を露にできない性格設定がされており、俳優にとっては非常に辛抱の必要な、消耗する役柄かと想像する。現実にもこういった場面はあるかもしれず、いささか極端な家族設定のなかで、リアルな日常への肉薄があり、同時に俳優の力量が控えめに発揮されている。

 窓際のスペースも演技エリアとして使っており、明治通りを見下ろす夜の渋谷を見事に借景としたところにも、作り手の才気が感じられた。しかし俳優の台詞が聞き取れず、劇場の特質を活かしきれていないことが残念であった。

 石黒は「私にしか理解できない、私にしかわからないことをどう伝えていくか、ということが大きなテーマになっていましたが、一歩踏み出す『演出の言葉』を得た手ごたえがそこにありました」と記している。心の内にあるものを他者に理解してもらうこと。これは演劇のみならず、何かをゼロから作り上げ、相手に手渡すときに必須の事柄であろう。残念ながら、石黒が得た手ごたえを、客席の自分は確と受けとめることができなかった。『害虫』はシリーズものの第3作であるというから、前2作、あるいは1作でも観劇していればと悔やまれるが、今夜をスタートとして、作者の思いに近づいてゆきたい。

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