因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

シェイクスピアReMix『銀河鉄道の十二夜』&『熱〇殺人事件、みたいなヴェニスの商人』

2018-03-25 | 舞台

 MSPインディーズ・シェイクスピアキャラバンと、絵画4人展「はるのすみっこ」コラボ企画。公式サイトはこちら 井上優作 道塚なな音楽 笹本志穂(劇団民藝)企画 西村俊彦、丸山港都、浦田大地、笹本志穂出演 根津/タナカホンヤ 32514時、16時の2回公演

 地下鉄根津駅から徒歩数分、賑やかな通りから少し静まった辺りの古本屋「タナカホンヤ」での朗読公演である。芝居好きなら、タイトルを見ただけでさまざまな想像や妄想が沸くであろう。異なるふたつの作品をどう絡ませ、新しい物語に構築するのか。

 原作の時代を現代に置き換える、舞台設定を日本にする等々、翻案された作品や演出は枚挙にいとまがない。うっかりすると安易な作りになり、あざとく感じられると見ていて楽しいものではないが、本作は翻案やパロディの域を超えた新しい劇世界であり、観客を遠いところへいざなう魅力を有する。そういう作品をどう名付ければよいか。本稿ではひとまず「出会い」と呼んでみることにしよう。

「銀河鉄道の十二夜」…宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」とシェイクスピアの「十二夜」を出会わせたもの。卒業式を明日に控えた男子高校生オーシーノーとセバスチャン(シザーリオと名のっていたかも)のふたりが下校途中、大きな揺れで乗っていた電車が止まった。動きそうにない電車のなかで、ふたりとオリヴィアという女生徒、マルヴォーリオという人望のないクラス委員をめぐるあれこれ、セバスチャンの双子の妹ヴァイオラが実はオーシーノーを…といった「恋バナ」が語られるのだ。他愛もないが、少年から青年に成長する時期の不器用で瑞々しいあれこれである。生き別れになった双子の兄妹が再会するまでの大騒動を描いた「十二夜」が、ここでは「銀河鉄道の夜」のふたりの少年カンパネルラとジョバンニに重ねられている。さらに冒頭起こった大きな揺れとは、おそらく311の震災と思われ、セバスチャンの「明日の卒業式には出ない」「おまえ(オーシーノー)は線路づたいに歩け」という台詞から、彼が死にゆく存在であることを控えめに伝えるのである。

「熱〇殺人事件、みたいなヴェニスの商人」…つかこうへいの名作「熱海殺人事件」と、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」まさかの出会いである。証文通りに肉1ポンドを切り取るかどうかという裁判が、いつのまにか、その行為に至らんとしたユダヤ人商人シャイロックの動機をいかに強烈で説得力のあるものにするかという話になっているところが本作の旨みである。極めつけはあの名台詞「海が見たい」。観客と俳優の膝が触れ合うほど小さな空間での熱量の高い芝居ゆえ、開演前は「どうかご了承を」のアナウンスがあったが、そこがむしろ効果を上げていたのは、俳優の演技が的確で巧みであったことと、話の仕掛けや展開がおもしろく、会場の狭さなどの観劇環境をしばし忘れさせてくれたこと、全体を通して好ましい舞台であったことが要因であろう。少しでもあざといと感じたら、1分で嫌気がさす。

 古典作品の場合、今日性、現代性、普遍性をどう見せるかが上演の大きなポイントであり、演出家はじめ作り手の多くが頭を悩ませ、試行錯誤する点であろう。今シェイクスピアのこの作品を上演する意義を明確にし、それを観客に示すのが使命であるという強い意識であり、その情熱あってこそ観客もまた夢と期待をもって劇場に行けるのである。しかしながら、あまりにこだわり過ぎると作り手も受けても作品に縛られ、自由を失う危険性もある。観客側からすれば、「あの作品をどう見せてくれるのか」と、ことさら「見せ方」を重視する見方に陥り、「現代性を見出さねば」と強張った使命感に陥りやすいのである。

 ふたつの物語を軽やかに出会わせた今回の2本は、作り手受け手双方の使命感からある意味で解放された好ましいものであった。先月の「唐十郎×シェイクスピア-シェイクスピア幻想-と同様、理解や考察を目的として肩に力の入りがちな観客の心を柔軟にし、さまざまな作品を自由に味わえる企画が今後も生まれることを祈っている。

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新宿梁山泊創立30周年記念第4弾 第62回公演『少女都市からの呼び声』

2018-03-24 | 舞台

唐十郎作 金守珍演出 公式サイトはこちら 芝居砦満天星 31日まで1,2,3,4
 本作は1985年、唐十郎が状況劇場若衆公演のために書き下ろしたもの。新宿梁山泊では1993年の初演を皮切りに、国内だけでなくフランス・アビニョン演劇祭はじめ、カナダ、オーストラリア、アメリカ、韓国でも上演を重ねている劇団の財産演目だ。自分は今回が初見である。

 天涯孤独の田口が手術を受けようとしている。その体内から取り出された長い黒髪の正体は?田口が迷い込んだ夢の世界には、生まれなかった妹の雪子がいる。兄は妹を連れて逃げたい。雪子をガラスの人間に作り替えようとするフランケ醜態博士との攻防がはじまる。

 物語の輪郭がはっきりしており、流れがよくわかる。上演時間が唐作品のなかでは短めの1時間40分であることも、見る側の心身にとって向き合いやすい。

 雪子は兄の意識の中に存在する妹である。見る人を惹きつける魅力を持ち、それは容姿容貌のみならず、あるときは劇世界を牽引し、かと思うと錯乱させ、翻弄する。コミカルな場面もあり、向き合うのは百戦錬磨のベテランたちとなると、若さゆえの拙さや脆さもあまり許されまいと想像する。若く瑞々しく、それだけに残酷であること。魑魅魍魎の異形のものたちと堂々を渡り合わねばならない。厚かましいほどの度胸と力強さが必要だ。そして雪子役は実年齢が若い女優であることが必須ではないか。

 今回抜擢された清水美帆子は、劇後半に台詞の語尾が聞き取れないところはあったものの、兄が追い求め、フランケ醜態博士が執着し、有沢が翻弄され、その婚約者に嫉妬されるにふさわしい雪子を大健闘していた。

 唐十郎作品がテントで上演される場合、終幕はテントの奥が開き、物語も人々も外界の日常に晒される。その瞬間の感覚はもう何ものにも代えがたい魅力があって、それを味わうためにテントへ通うといってもよいくらいである。しかしながら、芝居砦満天星はその逆だ。天井が低く、狭い劇場は外の世界の音や空気から遮断された穴倉のような空間である。それだけに駅からお寺や墓場を通って団地の地下2階まで降りること、2時間余を異空間に身を置いたあとで、地上に出たときの解放感と、それに矛盾するかのような不安定な心持も、訪れるものを病みつきにさせる。

 本公演の当日リーフレットには『少女都市からの呼び声』初演以来の上演歴が記されている。それを読むと、梁山泊が本拠地の満天星と、新宿・花園神社の特設紫テント、さらに通常の劇場でも公演を行っていることが歴然だ。あくまでテント上演にこだわる劇団唐組との大きな違いであり、唐十郎から生れ出た2つの劇団が、これからどのような歩みを続けるのだろうか。

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ミナモザ公演『Ten Commandments』

2018-03-23 | 舞台

*瀬戸山美咲作・演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場で31日まで 4月5,6日広島のJMSアステールプラザ多目的スタジオで上演 (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22 ,2324,25,26,27,28
 公演チラシには、
2011年の原発事故のあと、原子力の道に進んだ大学院生たちが学ぶ授業を題材に、「私たちと原子力の距離を考えます」とある。先日サブテレニアンでの一人芝居の『ホットパーティクル』を観劇して、2011年当時の初演の記憶が生々しく蘇ったばかりである。311以来、瀬戸山美咲の作品は社会に訴える、世界と戦うという方向性が強まった。その311のあとに、敢えて原子力を学ぼうとする若者たちが登場するとあってはさぞかし喧々諤々の議論劇が展開するのでは…と予想していたが、実際の舞台は様相の大きく異なるものであった。

 上演中の舞台ゆえ、あまり詳細には書けないが、まず今回の舞台は非常に静かで、ことば少なである。開演前のアナウンスを出演者のひとりである山森大輔(文学座)が行う際に読み上げるのはユダヤ系物理学者レオ・シラードの十戒、すなわち本作のタイトルの『Ten Commandments』。専門的な知識と技術を要する仕事に携わる人がみずからを戒める言葉でありながら、詩的でユーモラスな味わいもある不思議な文言だ。

 311以来、「しゃべりたくなくなった」女性劇作家とその夫、夫の友人たち。そして女性の心のなかの声、意識のようなもの(女優二人が演じる)が登場する70分の短い物語である。劇作家は瀬戸山自身を投影しているようにも見え、小さいころから劇作家になりたかったことや今日までの日々を手紙に記す場面や、決して妻を責めず、すべてを受けとめる優しい夫とのやりとりなど、モノローグと不十分な、それゆえにいっそう痛々しいダイアローグは、原子力そのものを劇のモチーフにするものではない。サブテレニアンの『ホットパーティクル』のアフタートークでは、前日のトークゲストだった瀬戸山のコメントが紹介され、「『ホットパーティクル』以後は自分のことは書かないつもりだったが、また戻った」(ことばは記憶によるものです)とのことで、そういうことかとようやく納得した次第である。

 サブタイトルの「私と原子力、その近さと遠さについて」ずばりの内容ではなく、制作途中で作品の方向性や色合いを変わったのだと想像する。予想とちがうものに出会えた喜びよりも残念ながら戸惑いが強く残る。瀬戸山のなかでも70分はかなり短い方であるが、それでも途中何度も集中が途切れた。もう一度見たら、おそらく劇作家の心にもう少し触れられるのではないか。あるいはこれから書かれる作品に何らかの形で反映される可能性もあり、今夜の戸惑いは戸惑いとして大事にしまっておきたい。

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OM-2『ハムレットマシーン』

2018-03-22 | 舞台

*ハイナー・ミュラー作 真壁茂夫構成・演出 公式サイトはこちら 日暮里サニーホール 24日まで 関連企画 現代劇作家シリーズ⑧ハムレットマシーン フェスティバルのサイトはこちら
 劇団サイトに掲載の過去公演の劇評を読むと、『ハムレットマシーン』のみならず、OM-2の舞台は見る人に鮮烈な印象を与え、考察の意欲を湧き起こさせるものであるらしい。90年代の終わりの錬肉工房公演による本作(岡本章演出)の観劇は大変な難行苦行であった。どこからどうやって舞台に触れてゆけばいいのか皆目見当がつかず、頑なまでの苦手意識が備わってしまったのである。基本的に観劇には期待を以て臨むのであるが、今回については不安と気構えが支配するものであった。しかし1977年に発表された本作は未来社刊行のハイナー・ミュラーテクスト集1のシェイクスピア・ファクトリー「ハムレットマシーン」にはページ数にしてわずか15ページなのである。意を決して読んでみると、これが意外とおもしろい。訳注が多いことにまたしても怖気づきそうになったが、一つひとつが解読のヒントや道筋であり、『ハムレットマシーン』への歩みを確実に支えるものであると実感してからは、ページの行き来も苦痛ではなくなった。

 日暮里サニーホールは普通のホテルの宴会場だ。整理券を持って開場を待つ観客の層は思ったより幅広い。ロビーの椅子にかけていると、対話による戯曲形式を解体し、再構築した「前衛劇」で、上演不可能とも言われた難解作であることや、2003年の初演から東京のみならずヨーロッパや韓国でも絶賛されたOM-2による「おそらく今回が最後」(公演チラシより)という『ハムレットマシーン』を待っているということが、不思議に思えてくるような雰囲気である。

 演技エリアを客室が円形に囲み、四隅には機材を組んだバルコニー風の席もある。高い天井から巨大な白い板が舞台を真ん中から分断するかたちに吊り下げられ、上演が告げられるも数分間何の動きもないまま、「これにて本日の上演を終了いたします」とアナウンス、数名の観客が拍手して退場するが、これは「仕込み」であろうと予想できた。あざとさがなく、自然であるのは不思議だ。

 それからのおよそ90分、目の前で起こったことを具体的に書き出すことはできるし、それに対する個々の感想もある。だがいつもの観劇とその後にブログにまとめる段取りとはちがう方向へ心が動いている。「ハムレットだった男2」役の佐々木敦が「私はもう死にたくない。私はもう殺したくない」と叫びつづける場面で、観劇前は想像もしなかった高揚感や解放感が心身に沸き起こってきたこと、最後の最後でのオフィーリアの場面については不快感を示す観客もあり、それに少しだけ安堵する気持ちにあって、すべて含めてまぎれもなくOM-2だけの『ハムレットマシーン』であることを体験した。

 冒頭の「これにて終了」の場面を思い出す。これは観客の挑発かもしれないが、従来の演劇、それを見る観客の認識に対して、「すべて終わりである」と宣告し、ここから違う場所へ突き進んでいきますよという合図だったのではないか。 

 今夜がようやく自分と『ハムレットマシーン』との旅の始まりになった。苦手意識が薄れたわけではないが、必要以上の気構えからは多少解放されたようである。しかし油断はならない。来月からはじまる「ハムレットマシーンフェスティバル」、心して向き合おう。

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『ホットパーティクル』

2018-03-18 | 舞台

*瀬戸山美咲作 佐藤音音演出 公式サイトはこちら サブテレニアン 18日で終了 
 本作はミナモザ主宰の瀬戸山美咲作・演出で20119月に初演された。東日本大震災と原発事故に衝撃を受けた瀬戸山自身が福島を訪れ、劇作に悩み、恋愛に悩み、上演にこぎつけるまでの右往左往を描いたドキュメンタリー演劇、私演劇として反響を呼んだ話題作である。自分もまた客席において大いに混乱し(当時の劇評)、紆余曲折があった。

 2014年、本作は佐藤音音(おとね)がドイツ語に翻訳し、2016年ミュンヘンの日独劇団EnGawa(えんがわ)がドイツ初演を行った。今回は「サブテレニアン・ダイアローグ」と銘打ったイベントプログラムの一環として上演の運びとなったのである。『ホットパーティクル』を一人芝居形式で、映像も使いながらの新演出ということがピンと来なかったのだが、舞台を見てすぐに納得した。

 俳優は小倉雅子一人。舞台奥にスクリーンがあり、彼女の部屋や居酒屋、カフェなどがイラスト風に描かれる。友人たちと福島へ旅する車中では、彼らの顔の部分がスクリーンに映し出され、主人公と何ら違和感なく会話をする。ドラマタークの顕史郎さんは、スクリーン上部の小窓から顔を出す。なるほどこういうことであったか!

 ドイツ初演ではドイツ語で主人公瀬戸山美咲を演じた小倉雅子が、今回は日本語で演じた。そのほかの人物は映像による出演で、ドイツ語を話す。ドイツ語の字幕付き。ドイツ語パートの演技は自然であり、日本版で感じた大仰でけたたましい印象は消えていた。主人公も怒ったり不貞腐れたりしているものの非常にクレバーな印象の女性であり、彼女の葛藤や混乱が今一つ強く伝わってこない印象でもある。

 大胆というより無防備に大ナタを振るって自分が傷つくような無茶ぶりが魅力であるが、その分隙や緩みも散見し、突っ込まれやすい作品である。それが日本語からドイツ語に翻訳され、外国人俳優も交えて演じられることで変容し、作品と演じ手に距離が生まれたのであろう。

 初演を観劇したときは、これは震災から半年後の今だからこそ有益な作品だと思ったが、7年の月日を経て日本語とドイツ語が飛び交う舞台に出会った今日、もっと深いところでの普遍性を得て、複雑な味わいを持つ作品に変容したことを実感した。あの日で終わったのではない、今も続く混乱であり、葛藤なのである。

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