因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

日本のラジオ 『ゼロゼロゼロ』

2016-04-30 | 舞台

*屋代秀樹作・演出 公式サイトはこちら スタジオ空洞 5月1日で終了 (1,2,3,4
 昨年の夏あたりから屋代秀樹の作品を続けて見る機会が与えられ、三澤の企画『マリーベル』と同じ池袋のスタジオ空洞ということもあり、屋代の劇世界に心身が馴染んでいる感覚がある。

「からだも/こころも/おもいでも/ぜんぶないということが/あるのだ」
公演チラシのコピーである。ひらがなの淡々とした表記だが、詩的で謎めいたものが感じられる。ここに続くコピーは
「アラサー女子の土居モトエは/元納棺師の闇稼業/お得意さまはだいたいヤクザ/主な業務は/死体をこの世界から/キレイサッパリ消し去ること」で、なるほどそういうことか。はじまった物語はこのコピーの通りであり、観客はあまり驚かずに舞台を見守ることができる。タイトルの「ゼロゼロゼロ」とは、からだもゼロ、こころもゼロ、おもいでもゼロということを指すと思われた。

 ふつう公演パンフレットには、出演俳優のプロフィールが掲載されているものだが、本公演のオリジナルパンフレット(郡司龍彦デザイン)には、登場人物としての写真とプロフィールが記されている。ここに屋代秀樹の作劇の姿勢、もっと言えば演劇観が示されているのではないだろうか。たとえば窪寺菜々瀬が扮する「土居トモエ」のページには、「千葉県出身。化学系の大学院に通っていたが、所属していた研究室が事故で爆発したため中退」にはじまり、薬品の知識を活かして納棺師の仕事をしていたが、「遺体を綺麗にすることが突然バカバカしくなり」退職して、父の旧知であったヤクザの伝手により、死体を消す仕事、つまり見つかっては困るわけありの死体処理をはじめた・・・とある。劇中これらのことが示される台詞はほんのわずかであるが、訪れたやくざが「禁煙」と張り紙のある休憩室で一服しようとすると、「ここで煙草吸ったら殺す」と詰め寄るあたり、大学院時代の爆発事故が背景にあることが想像される。かと思うと、トモエの妹のヒロコ(松本みゆき)のページには、父親からの虐待が激しくなり、「父親の死亡後は姉を手伝いつつ活発に活動できるようになった」とあるが、劇中「娘にぶっ殺されるくらいのクソ親父」という台詞があり、この姉妹の凄まじい過去が知らされるのである。

 観客に登場人物の過去や背景、物語のサブストーリー部分などをどのように示すかは、劇作家としてむずかしいところであり、腕の見せどころでもあろう。説明台詞にならずさりげなく、しかし観客の心に、「そういうことだったのか」という驚きを与え、よりいっそう舞台に惹きつけたい。見る側としてもスリリングなところである。
 屋代秀樹は実にあっさりと明かしてしまったり、逆に最後まで謎であったり、そもそもオリジナルパンフレットを読まなければ知らないままの情報もあるが、そのあたり「こちらの意図を是が非でも観客に届けなければ」という気負いがないところが好ましく思われるのである。作り手側として描ききれないこと、伝えきれないことがあるのをむしろ肯定的にとらえ、そこを含めて劇作を楽しんでいるかのように軽やかであり、柔軟である。

 これから屋代秀樹は、劇団きのこ牛乳オムニバス公演きのこ+「きしめじ科」、ホームグラウンドの日本のラジオで10月『ムーア』、翌11月に『レプリカ(仮)』と、旺盛な活動が続く。
 また今回の舞台に、劇団肋骨蜜柑同好会主宰のフジタタイセイ(1,2)が客演した。いささか情緒不安定なミュージシャン役で、およそこれまでどこでも見たことのない演技なのだが、あざとさが感じられないのが不思議である。フジタは6月に若手団体創作支援企画The choice ofしむじゃっくにおいて岸田國士の『村で一番の栗の木』の演出、10月はシアター風姿花伝において、主宰する劇団肋骨蜜柑同好会の第8回公演を控える。

 土居トモエ、ヒロコ姉妹はじめ、昔は堅気のサラリーマンだった吉岡そんれい、持ち込まれた死体役(実は生きていた)の永田佑衣が、過不足ない演技で屋代秀樹の劇世界に存在する生身の人間の息づかいが感じさせる。一方でやや類型的なやくざ的ポジションの俳優には、もう少しちがう切り口の演技がみたいとも思った。

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文学座4月アトリエの会 『野鴨』

2016-04-29 | 舞台

*ヘンリック・イプセン作 原千代海翻訳 稲葉賀恵演出 公式サイトはこちら 信濃町/文学座アトリエ 30日で終了
 来年創立80周年を迎える文学座において、1940年、試演期間を経て"公演"と称す る1本目の演目が近代演劇の確立者と言われるイプセンの『野鴨』だったというから、原点回帰とも言える演目であり、古いものを古いままではなく、新鮮な舞台として現在の観客に届ける企画であると考える。『野鴨』といえば、2007年晩秋のタニノクロウの舞台の印象が強いことや、「3時間越えの長尺」との情報にいささか怖気づいたが、舞台の緊張を客席が受けとめ、弛緩するところは遠慮せずのびのびと味わうことができた。もっとも小さく弱いものが大人たちが作ってしまった重荷を背負い、みずから未来を断つ悲惨な物語であるのにもかかわらず、終演後のアトリエ周辺には明るく高揚感に満ちた観客の笑顔が多く見られた。
 
 客席が演技エリアを「く」の字のかたちに挟み込むような作り。床のまんなかが四角く切り取られ、水が湛えられている。あるときは天井から水が滴り、あるときは水が溢れて床に流れ出す。ずっと室内で進行する物語だが、撃たれた野鴨が水底に沈む逸話を象徴するものであろう。

 かんたんに言えば、ある夫婦にまつわる過去の秘密が暴かれ、家庭が崩壊する話なのだが、登場人物の多くが一筋縄ではいかない性質の持ち主で、演じる方としても大変であろうし、見る方も骨が折れる。自分にはその筆頭がグレーゲルス(中村彰男)だ。ヤルマール(清水明彦)の学生時代からの親友だというが、彼がヤルマールの家庭に手出し口出しをしたばかりに夫婦にも親子にも亀裂が生じる。彼はなぜここまで執拗に過去の事実を白日のもとに晒そうとするのか。ヤルマールのために「真の結婚生活の基礎を築いてやりたい」などと言っているが、不実な夫に悩まされて不幸な死を遂げた自分の母への愛と憐憫、愛する母をそのような目にあわせた父への復讐でもある。いわばヤルマール一家はグレーゲルスの父への代理戦争の犠牲にされたのではないか。
 ヤルマールの妻ギーナ(名越志保)は、グレーゲルスを「頭がおかしい」と言い、レリング医師(大原康裕)も彼を「正義病」だと言い放つ。

 グレーゲルスの造形は非常にむずかしい。父親である豪商ヴェルレ(坂口芳貞)に比べれば、社会的野心や征服欲もなく、堅実で良識ある男性である。真実を自分だけの心にしまっておくというのならまだわかるが、彼はそれを当事者であるヤルマールに知らせようとする。今回のグレーゲルス役・中村彰男はそうとうに考え、試行錯誤ののちの演技であると想像する。物語が進むにつれて彼は猫背になり、声が上ずり、奇天烈な笑い声をあげる。これをどう受けとめるか、賛否は分かれるであろう。

 ヤルマールの妻ギーナもむずかしい役どころだ。圧巻は、ひとり娘のヘドヴィクがほんとうは誰の子かと夫から問い詰められる場面。床穴の水に当たる光が顔に反射してゆらめくなかで、ギーナは「知りませんよ」と言う。YesでもNoでもない。むろんこの台詞を、「そんな昔のこと、今さら知ったことじゃありませんよ」風のニュアンスで発することもできる。しかしギーナを演じた名越志保は、この台詞に関してどのような演出がつけられたのか、自分がどう言いたいと思ったのか、まったく想像できない言い方をした。ほかの俳優が同じように発することはできないであろう。名越は和物のイメージが強い。昨年劇団文化座+劇団東演の共同企画の『廃墟』のせい子役は俳優として堅実な歩みを示すものだ。たしかに夫を「あんた」と呼ぶときなど、世話物のように聞こえなくもないが、逆に翻訳劇が持つぎくしゃく感を自然に消す効果も上げている。

 さて今回注目すべきは、ヤルマールとギーナのひとり娘ヘドヴィク役に抜擢された内堀律子である。もとサッカー選手としてなでしこリーグで活躍していたという珍しい経歴の持ち主だ。ヘドヴィクは14歳という設定である。たとえば子役を配することもできるが、文学座は内堀に白羽の矢を立てた。実年齢よりも若い役、それも明らかに子どもを演じる場合、華奢で小柄な、声の高い俳優を配したり、いかにも子ども子どもした造形にする方法がある。
 内堀はがっしりとは言わないまでも、じゅうぶんに大人のからだつきであるし、女性にしては低く、太い声である。その声のまま、14歳のヘドヴィクを素直に演じているところが非常に好ましかった。もじゃもじゃのショートヘアに縁の太い眼鏡がよく似合っており、若づくりならぬ「子どもづくり」的な造形から解放された、のびのびとした演技であった。タニノクロウ演出の舞台でこの役を演じた鎌田沙由美は、当時10代なかばくらいであったのではなかろうか。少女が少女のまま、自然に舞台に存在していた印象がとても儚げだっただけに、今回この役にどのような方向性を持たせるのか、大いに興味があったのだが、内堀律子の起用はこの役に対して、さらに子どもの演技に対する自分の既成概念を気持ちよく払しょくしてくれたと言えよう。ふと内堀がジュール・ルナールの『にんじん』の主人公にんじんを演じるところを想像し、とても楽しい気持ちになった。

 演劇はひとりでは作れない。多くの人々が、それぞれの持ち場で力と愛情を注ぎ、さrさに本番において観客が存在することで完成する。手間がかかり、非経済、非効率的である。しかしそこに演劇の魅力があり、希望がある。文学座の『野鴨』は、大いなる希望を与えてくれた。強い風の吹き荒れる春の夕暮れ、幸せな心持ちであった。

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Ring-Bong 第6回公演『名も知らぬ遠き島より』

2016-04-23 | 舞台

*山谷典子作 藤井ごう演出 公式サイトはこちら 座・高円寺1 24日で終了 
 Ring-Bong(リンボン)は、文学座の俳優・劇作家の山谷典子の戯曲を上演するユニットで、2011年3月の旗揚げ以来、「日本が持つ忘れてはならない歴史、また、今も抱え続ける問題に焦点を当てた作品を上演」している(公式サイトより)。今回は第2回公演で初演された作品が、配役、演出を一新して再演の運びとなった。自分はこれが初見である。

 舞台は中央にベッド、ほかにサイドテーブルや椅子などが置かれている。周囲に白い棒が天井高く伸び、時代や場所の設定を固定化しない、やや抽象的な雰囲気を作り出している。舞台は昭和21年、中国牡丹江にある元日本軍病院で、ソ連軍の蛮行に怯え、食糧や医薬品の不足に悩みながら帰国できる日を待ちわびている兵隊や医師、看護婦たちの日々と、帰国を果たした兵隊のひとり・近藤義春(中村亮太)が年老いた70年後、息子の妻(大崎由利子)や孫(小野文子)などが登場する現代が行き来しながら、国家と人間の関係を描く2時間あまりの物語である。

 物語の進行や台詞、人物の造形など、さまざまな点で小さな疑問やつまづきがあった。ソ連軍に女性がいることが知られないようにしているのに、看護婦たちは長い黒髪のままであることや、ついさっきソ連兵や乱入してきたというのに、「外の空気を吸ってきます」と部屋を出る女性がいたり、戦後の場面で、病室を訪ねてきた老人が手渡した現役時代の商社の名刺をみて、「(葬儀の場所などは)ここにFAXします」という台詞(手紙の裏書に自宅のFAX番号が書かれているのかと思ったが)などである。その一方で、現代の病室で、孫は「飲み物を買ってくる」と言って、当然のように母親にお金をもらおうと手を差し出す。30歳で喫茶店のバイトという半ニートぶりを示すところであり、小さな表現ではあるが、終始重苦しい物語のなかで、客席の気持ちをなごませてくれる。また満州の場面では、戦地での略奪や強姦などを手柄話のように語る兵隊を否定するでもなく、認めるでもなく、自然に流す佐久間(本城憲)という兵隊の造形が、地味ながら目を引いた。

 小さなつまづきと納得が繰り返されるのはあまりよい観劇態勢ではないのだが、終幕のある場面で一気に氷解した。気弱でうぶだった近藤は、家族に対して非常に口やかましい父や夫であり、戦争中の自慢話をしていたという。しかしその裏にどんな体験があったかということが、示される場面である。山崎という老人(遠藤剛)が病室を訪ねてきて、終戦後の引き上げの混乱のなかで、近藤に命を救われたという。山崎が近藤にしたためた手紙を孫が読むとき、昭和21年の姿の近藤が現代の病室に現れる。孫に若い祖父のすがたはみえない。ここから手紙の内容と、若い近藤の苦い告白と魂の叫びが続く場面は、この舞台の白眉である。

 考えてみると、彼の告白は、孫にも山崎老人にも聞こえていない。聞いているのは、観客だけなのだ。演劇ならではの趣向であり、彼がもっとも聞かせたい、聞いてほしいと願った相手ではなく、その日その場だけの存在である観客だけが真実を、彼の願いを聞いているという、「演劇的残酷」とでも言うべきか、その悲しみがどっと押し寄せ、自分でもうろたえるほど心が揺れ動いた。

 あなたの告白はわたしたちが聞いている。確かに聞き届けた。それを近藤に伝えたい。といってそんなことはできないのだが、自分にはその思いがどっと湧き出てきた。舞台の世界に感情移入し、登場人物といっしょに笑ったり泣いたりという経験は珍しくない。しかし、今回のような心持ちになったのは、おそらくこの舞台がはじめてではないだろうか。すばらしい、と同時に大変な贈り物を受け取ったことになる。

 この世には多くのことを話せず、心に抱えたまま旅立った人が大勢いる。生き延びて子や孫を持つことができた近藤だけではなく、故郷の土を踏むことなく異国で息絶えた人々。何らかの形で残された手記などの記録や、体験者の肉声を聞き取り、映像にすることなど、戦争の事実をいまに伝える方法はいろいろある。しかし演劇には、現実、史実を超えて人間の心の奥底からの声を台詞にし、俳優のからだと声をもって、今の観客に届けることができるのだ。話せなかったこと、聞けなかったことをかたちにし、届ける。そして観客は受け止める役割がある。

 演劇にできること、観客の役割。そんなことを考えながら帰路に就いた。

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シス・カンパニー公演 『アルカディア』

2016-04-15 | 舞台

*トム・ストッパード作 小田島恒志翻訳 栗山民也演出 公式サイトはこちら 4月30日までシアターコクーン 5月は大阪・森ノ宮ピロティホール
 『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』、『リアルシング』、『ロックンロール』など、イギリス演劇界を代表する劇作家トム・ストッパードの最高傑作との呼び声が高いという本作は、1993年のイギリス初演以来、日本でも長らく上演が待ち望まれてきたとのこと。堤真一、寺島しのぶ、井上芳雄、浦井健治、神野三鈴など、舞台はもちろんのことテレビや映画でも活躍する俳優が顔をそろえる豪華版である。チケットはS席11,000円という高額ではあるが、「あの俳優さんを舞台で見たい」と思えば、一般的な金銭感覚というのはどこかへ行ってしまうのである。

 第一の舞台は19世紀、イギリスの豪奢な屋敷シドリー・パークである。かの著名な詩人バイロンも逗留しているという。この屋敷の13歳の令嬢が、家庭教師のホッジに勉強を教わっている。早熟で天才肌の令嬢は、「肉の欲による抱擁とは何か?」(台詞は記憶によるもの)などとホッジに質問する。ホッジは令嬢だけでなく、浮気相手の夫・詩人のチェイターの決闘の申し込みも舌先三寸で丸め込みながら、ひそかにこの屋敷の女あるじ(令嬢の母)を愛している。
 第二の舞台はそこから200年後の現代、場所は同じくカヴァリー家の居間である。バイロン研究で脚光を浴びた女性作家、同じくバイロンを研究している学者、この屋敷に住むきょうだいたちが、19世紀の貴族たちを巡って論争を繰り広げる。
 同じ場所を媒介として、200年の時間が別々に描かれつつ、次第にまじわり、絡み合いながら進行する非常に演劇的な作品である。また「カオス理論」に着想を得て書かれたというだけに、劇中にはさまざまな学術用語が飛びかう。演劇的刺激と機智に富んだ3時間の舞台である。

 結論から言うと、苦行の3時間であった。もっとも大きな理由は、俳優の台詞が客席まできちんと届いていない点である。座席の位置によるのか、あるいや自分の加齢のためかと思ったが、同道の知人はじめ、周辺の観客からも同様の感想が聞かれたのは驚きである。俳優の台詞がへんに反響し、ちょっとどうかと思うほど聞き取りにくい。ことばひとつひとつが粒だってきちんと聞き取れたのは、屋敷の女あるじを演じた神野三鈴だけであった。台詞が聞き取れないから、人物の性格も気持ちも、物語の流れも理解しづらい。この人はなぜこんなに衝撃を受けているのか、こんなに喜ぶのか、どうしてつぎがこうなるのか。舞台経験の厚い出演陣で、このようなことになるのはどうしてであろうか。

 いくつかの演劇雑誌や公演パンフレット掲載の座談会などを読むと、出演俳優は戯曲に対してほとんど異口同音に「わかりづらかったが、台詞を口にしてだんだんつかめてきた」という手ごたえを語っている。栗山民也の的確な演出にも大いに助けられたらしい。しかしながら、それが客席にまで伝わっていたかどうか、自分の印象からすれば、実にあぶなげである。戯曲に描かれた世界を把握し、ひとつひとつの台詞を頭にもからだにもなじませて、自分のことばとしてしっかりと発し、確実に客席に届けるためには、必要な(必然の、でもある)声の高さ、速さ、テンポ、リズムが決まってくるはず。そのあたりが整っていない印象を受けた。

 堤真一が「演じる側としてはまずテンポを大切に。お客さんを置いていく勇気も必要だと思う」と発言する一方で、寺島しのぶが「とにかく役者が台詞をしっかり噛み砕いて、お客様に『細かいことをすっ飛ばしても面白い!』って作品にしないといけない」と発言していることは非常に興味深い。自分はみごとに置いていかれたことになる。

  さて題名の「アルカディア」とは、古代ギリシャの肥沃な土地のこと。ローマの詩人ウェルギリウスが理想郷として描き、文学や絵画の題材とされてきた。19世紀の貴族や詩人たち、21世紀の学者たち。いずれも追い求めながら、得られないことの象徴か。しかし愛ある信頼、穏やかな幸福はあんがい身近にあるものかもしれない。終幕、過去と現代の二組の男女がワルツを踊る場面には、切なさと同時に希望が感じられた。

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劇団民藝公演 『二人だけの芝居-クレアとフェリース-』 

2016-04-12 | 日記

*テネシー・ウィリアムズ作 丹野郁弓翻訳・演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場 シアターウェスト 21日まで その後茨城県水戸市、千葉県市川市を巡演。1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21
  『叫び』のタイトルで推敲が重ねられたテネシー・ウィリアムズの作品が本邦初演の運びとなった。女優クレアに奈良岡朋子、彼女の弟で座付き作家兼俳優のフェリース役に岡本健一が客演する。奈良岡と岡本の交流については、ふたりが出演した『徹子の部屋』(3月7日放送)や、今回の公演パンフレットの対談にも詳しい。森光子の『放浪記』に出演していた奈良岡朋子に感銘を受けた岡本が楽屋を訪ねて以来交流がはじまった。19歳のときに蜷川幸雄演出の『唐版 滝の白糸』で初舞台を踏んだ岡本は、「舞台に立ち続けたい」と願うようになり、舞台中心の活動を展開している。所属しているジャニーズ事務所のなかでは特異な存在であろう。
 憧れの奈良岡朋子との初共演は2011年の『ラヴ・レターズ』であったが、読み合わせの際、奈良岡は岡本に実に辛辣なダメ出しを行った。「ひどい役者ねと言われて」と岡本は苦笑していたが、それまで自分なりにしてきたつもりが、演技の基本的なことを言われて、相当な衝撃を受けたという。2011年と言えばほんの5年前である。この時点で岡本はみずから演出も手がけるほどであったから、とても新人俳優とは言えないキャリアの持ち主だ。その彼が滑舌や息つぎなどすらできていないというこの国の演劇状況についての考察はさておき、厳しいダメ出しに凹むことなく、奈良岡の懐に飛び込んで研鑽を重ね、今回の舞台に出演する岡本の意気込みはいかばかりかと想像する。

 クレアとフェリースの姉弟は、地方公演のさなかに劇団員たちから狂人扱いされて古びた劇場に置き去りにされる。やがて来る観客を満足させようと、彼らはフェリースが書いた二人芝居の稽古をはじめる・・・というのがあらすじである。見る者を戸惑わせるのは、ふたりがその現実をどう受けとめているのかがよくわからない点である。狂人扱いの末に置き去り。さぞかし劇団員たちへの怒りや恨みがと想像したが、自主的にこの場にいるとさえ思われるほどである。姉のクレアはたしかに情緒不安定なところはあるが、それは女優という職業を考えれば許容範囲であり、その姉をなだめながら稽古を進める弟のフェリースもまともに見える。

 となると、この物語の設定にすでに何らかの「虚」があるとも考えられる。ふたりが稽古する芝居も、芝居のせりふがいつのまにか彼らの地の言葉になったり、両親が悲惨な亡くなり方をしたということが物語のことなのか、姉弟の両親のほんとうの過去なのかも判然としない。この不安定や不透明、方向性のはっきりしない点に身を委ねることができれば楽しめる作品であり、乗り切れないと集中できないであろう。

 奈良岡朋子は86歳という年齢が信じられないほど台詞は明晰で緩急自在の安定感があり、からだの動きも敏捷である。40歳年下の岡本健一は素直な演じぶりで大変好ましい。「ベテランの胸を借りる」、「体当たりの熱演」というより、知的でしなやか、硬質と見せて柔軟性もあり、それらが技巧や計算ではなく、「この戯曲のこの台詞をどう発することが的確か」を試行錯誤したのではないか。カーテンコールの岡本の立ち姿に、「献身」という言葉が思い浮かんだ。

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