因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

模様替え

2005-10-27 | お知らせ
秋も深まってきました。テンプレートを「紅葉」に模様替えしてみました。季節を問わず劇場通いが続く日々ですが、しばらくのあいだ因幡屋ぶろぐの紅葉をお楽しみください。

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にしすがも創造舎上演プロジェクトvol.1『サーカス物語』

2005-10-25 | 舞台

*アートネットワークジャパン+Ort-d.dプロデュース ミヒャエル・エンデ原作 倉迫康史演出
 立ち退きを迫られたサーカス一座が束の間みた夢の世界?
もとは中学の体育館だった場所が、賑やかで幻想的な空間に作り上げられている。

パンフレットには、夏のオーディションに始まり、西巣鴨のお祭りに参加したことや、稽古が進む様子が初日直前のゲネプロまで写真入りで掲載されている。

まさにここは演劇の工房であり、地域に根ざした演劇創造を実現した公演であることがわかる。
芝居に加えて楽器の生演奏、歌、ダンス、ジャグリングなど、大変に盛りだくさんな内容である。

ところがみるほどに「頑張って練習したんだろうなぁ」と、芝居そのものから離れて感心してしまうことに気づいた。
創造の過程は興味深く、それを知るのは、時に芝居をみるより楽しいこともある。

だがやはり芝居そのものを味わいたいと思う。

たとえば先日みた近大バージョン『唐版 風の又三郎』には、演出の松本修が役者ひとりひとりについて短いコメントを書いているのみである。学生たちが難しい作品に挑み、壁にぶつかりながら成長していく様子はまことにスリリングであろうと想像するが、敢えてそれを詳しく知りたいとは思わない。
目の前で彼らが頑張っている姿だけでじゅうぶんだからだ。
 

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『ふたりの5つの分かれ路』

2005-10-24 | 映画

*フランソワ・オゾン監督・脚本 
 「分かれ路」は「わかれみち」と読む。
 ある夫婦が離婚調停の事務手続きをする場面に始まり、ふたりの出会いまでが時間を遡る形で描かれる。
 離婚成立後の悲惨なセックス、夫の兄とその恋人(男性)を招いたホームパーティの夜、孤独に耐えた出産、結婚初夜のアバンチュール、そしてふたりの恋がはじまったイタリアの海。
 十年以上も前に見たハロルド・ピンター作の舞台『背信』(デヴィッド・ルヴォー演出)を思い出した。
 これも一組の夫婦の数年間が時間を遡って描かれる。「この台詞がさっきの場面の伏線になるのか」と随分緊張しながらみた記憶がある。



 映画の5つのスケッチの中には相当なエピソードもあるが、「これこそが別れを決定的にした原因だ」と観客に認識させるような描写はされていない。何が起こったのかはわかるが、それが彼らの心にどんな影を落としたのか、なぜ互いの心が離れていったのかはわからない。
 いや、もしかすると本人たちすらわからないのかもしれない。



 時間を遡るにつれて妻の表情が明るく美しくなる。特に出会いの場の生き生きした笑顔が素晴らしい。単純に若くて屈託がないというわけではなく、直前に恋人と別れたこともさらりと話すし、リゾート地で一人旅を自然に楽しめる大人の女性なのだ。それが数年後には暗い表情でからだつきも緩み、やりなおしたいと懇願する男を無表情に一瞥して立ち去ってしまうのである。



「2人の関係は終わりを迎えるわけですが、それを悲劇だとは思いません。重要なことはそれを経験したということです。」
 パンフレットに掲載されたオゾン監督の言葉である。
 人は時間を遡ることはできない。
 映画や演劇だからこそ、可能な表現である。人はそこに自分がたどったあのときの時間を思い起こす。
 本作を見終わって、人生の虚しさや無惨であることを考えて悲しくなったが、時間がたつとしみじみと優しい気持ちも沸いてくる。
 



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近大バージョン 『唐版 風の又三郎』

2005-10-22 | 舞台

*唐十郎作 松本修演出 シアター・ブラッツ
 昨年近畿大学演劇・芸能専攻の学生が卒業公演として本作を上演し好評を得、勢いにのって東京公演を実現させた。こういうことはめったにないのではないか。学生諸氏はじめ、公演に関わる多くの方々の努力と熱意に敬意を表したい。



今年上演が相次ぐ唐作品であるが苦手意識が強く、たぶん自分は1本もみないだろうと思っていたところ、MODEからのダイレクトメールに同封された演出の松本修の熱意溢れる案内文を読んで、「よし!見に行こう」と決意した。

休憩をはさんで3時間近い長丁場である。小さな劇場の背もたれのないベンチ席で体力がもつか心配だったが、不思議と疲れを感じず。学生たちは(既に卒業している人もいるので、厳密にはすべて学生ではないが)唐の戯曲から逃げず、からだも頭も心もぜんたいでぶつかっている。その姿に思わず「頑張れ、唐に負けるな」と心のなかで励ましている自分に気づく。演劇とは戯曲との闘いであることを実感できたのが、本日の収穫であった。



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シベリア少女鉄道『スラムダンク』

2005-10-20 | 舞台

*土屋亮一作・演出 シアターサンモール
 シベ少初体験。友人の話を聞いたり、ネットの書き込みや雑誌の記事を読んで、この劇団の芝居の様子を想像してみるがどうしてもイメージが浮かばず、やはり百聞は一見にしかずなのであった。
客席が舞台を両サイドから挟む形が作られており、複数のストーリーがどんどん進行する。
俳優も一人が何役も演じる。 矛盾が生じないよううまく運んでいるが、大詰めには無理が出てきて、それを見せ場にして強引に筋を運んでいく。が、終盤は舞台がバスケットコートになり、俳優はゲームを進めながら、それぞれの役の台詞を話し、ボールが(無対象だが)あたかも台詞、話の筋のように俳優たちの手から手へ渡っていく。
 こういう話の運び方、見せ方もあるのだなと思ったが、バスケのシーンが予想よりも長く、申し訳ないが(と恐縮してしまう。この場面を稽古する俳優は大変な労苦だったろうと察するためだが)飽きてしまった。拡散しつつ収束するとみせかけてまた拡散する、という手法なのだろうか?
 台詞の言い方の、ほんとうに微妙な言い回しにおもしろいところがあったり、俳優の複数役も相当に巧みだったが、見応えは実感できず、物足りなさが残った。

 訴えたい、伝えたいという重いものがなくてもいいが、やはり何かを確かに受け取りたいと願うのが時間とお金を投じて劇場に足を運ぶ観客の気持ちだと思う。
 その何かを自分はシベ少のどこに求めるか?
 今後の課題である(10月18日観劇)。



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