因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

日本のラジオ『ラクエンノミチ/ボディ』 

2017-03-19 | 舞台

*屋代秀樹作・演出 阿佐ヶ谷/シアターシャイン 公式サイトはこちら 20日で終了 (1,2,3,4,5,6,7

 今回の2本ともに再演である。『ボディ』は2012年7月、『ラクエンノミチ』が翌2013年6月に初演された。屋代にとっては、「2本とも自分の創作活動の転機になった作品」とのこと(当日リーフレット掲載)。自分はいずれも今回が初見である。物語の流れや人物の構成に関連性があり、この2本がさらに昨年春の『ゼロゼロゼロ』にも繋がっていくとあって、記憶を呼び起こしつつ、2本の舞台を楽しむことができた。

 日本のラジオ公演の楽しみは非常に丁寧に作られた素敵なパンフレットだ。出演俳優の、というより登場人物が撮影されたモノクロ写真は謎めいて美しく(郡司龍彦宣伝美術)、それをさらに際立たせるのが、屋代秀樹による登場人物の詳細なプロフィールである。出身地や家族構成、芝居がはじまる時点までにその人が体験したあれこれが淡々とした筆致で記されている。家族離散や失職、生活の困窮、反社会的組織との関わりなど、「苦界に身を沈める」と言ってもよいほど、相当にブラックな内容が多い。

 それらが劇本編にじゅうぶん反映されているかというと、そうでもないのである。もったいないというか、劇作家はどうすれば自分の訴えたいこと、伝えたいことを舞台に示せるかを台詞やト書きに記し、演出も照明や音響などさまざまな手法を駆使するものだと思うのだが、屋代さんの場合はそういった欲が感じられない。何度か書いたことであるが、そこが非常に好ましいのである。

 『ラクエンノミチ』では登場人物のうちの幾人かに独白の場面がある。人と接するときには見せない顔、聞かせない話、心の奥底の秘密や傷を語る。それは何のために?結果的に観客が舞台を鑑賞する一助、情報提供にはなるけれども、それは単なる結果に過ぎず、まして劇作家の手法でもない。こういった手法は特に珍しくはなく、有効なやり方のひとつでもあろう。しかしこれがパターンに見えてしまった瞬間、「登場人物はあと○人いるから、上演時間はあとどれくらいか」と先を読んでしまうので、むずかしいところである。

 屋代は準備する手つきを見せない。どの人物も不意に一人語りになり、照明も音響も変わらず、効果を狙っているようなところがまったくといってよいほど見えない。そして観客は、目の前の舞台に至るまでのその人物の時間をさまざまに想像するも、結局のところ、その人のすべてを知ることはできないと思い知らされる。それは淋しい。しかし「軽やかな絶望」とでも言おうか、わからないこと、知らないことがもたらす一種の救済が感じられるのだ。

  今回の人物のプロフィールには、好きな食べものや、料理をするかどうか、その腕前についても書かれている。食がモチーフの話かと予想したがそのようなことはまったくなく、しかし煮込みハンバーグが好きというチンピラや、料理教師の母との確執を想像させる、料理は「絶対にしない」という風俗嬢のことは、心のどこかで覚えていたいと思うのである。必要な情報ではないけれども、一夜の舞台が跳ねたあと、パンフレットの写真さながら夜のパール商店街を彷徨いながら、彼ら彼女たちが、舞台という虚構の世界と現実の世界のあわいにいる存在として自分の記憶に確かに足跡を残したことが実感できる。一種の余韻以上の何かを与えてくれる日本のラジオの舞台へののめり込みは、とうぶん続きそうである。

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えうれか第三回公演『楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~』

2017-03-18 | 舞台

*清水邦夫作 花村雅子演出 シブサワホタル(CASSETTE)演出アドバイザー 公式サイトはこちら 渋谷/space EDGE 20日で終了 (1,2

 当日リーフレット掲載のえうれか主宰花村雅子の挨拶文に、本作は「日本で最多上演数を誇る戯曲」と記されている。データの出典は明らかにされていないが、ここ数年を振り返ってみても、さまざまな座組みによる公演の情報を見聞きする。昨年は楽園王の長堀博士の演出による力強い『楽屋』を見たばかりだ。

 客席が演技スペースを三方に囲む作りで、正面奥に化粧前と衣装ラック、その手前左右に鏡のないテーブルが二つ。あとは飲み物やお菓子などが置かれたテーブルがひとつ。上演前から山田直敬によるヴィオラの生演奏が聞ける。照明の具合もあろうが、家具調度類が長年使い込まれた良質のものに見え、ヨーロッパのどこかの都市の、相当に古びてはいるが由緒ある劇場の楽屋の趣すら漂わせている。

 上演数が多いということは、観客側から言うと、「観劇回数が多い」ということだ。自分もおそらく45回は見ているだろう。既に見たことのある作品、知っている話を見る楽しみは、座組みによって違う顔を見せる戯曲の味わいを探るところにある。といって、決して「斬新な演出」を追い求めるわけではなく、むしろどれだけ戯曲に寄り添い、あるときは正面から戦いを挑み、あるときは懐に飛び込み、いかに取り組んだかという姿勢、作り手の息づかいを求めて『楽屋』の客席に身を置くのである。今回のえうれかの『楽屋』は、その思いに応えてくれるものであった。

 小さなスペースで、客席最前列は女優の息がかかりそうに近く、女優の顔を見つめるのが気恥ずかしくなるときもあった。演じる側もさぞやりにくいのではないかと想像したが、女優方は実に堂々としている。芝居なのだから、プロなのだからあたりまえではあろうが、これほど近いところに、おもての現実世界を背負った、いわば闖入者のごとき観客がいて、それらが居ないかのように、しかし居ることをぜったいに忘れず振る舞うこと。しかも女優の役を演じるのである。演技とは何かということを考えはじめると、これはもう切りがなくなるのだが、観客もこの「演じること」に憑りつかれた女たちの物語を受け止めようと前のめりになるのである。

 以前、ある劇団の制作者がふと漏らした「どうして自分は芝居に関わってるんだろうかって、考えません?」という問いかけを思い出す。作り手と受け手のちがいは大きいが、ほかに数多の楽しみがあるのに、どうにも演劇が好きで、それなしの日々が考えられない人生を考えるとき、『楽屋』の女優を見て、「女優とは何と業の深い生きものよ」と簡単に客観視できない自分に気づくのである。

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シス・カンパニー公演『死の舞踏』

2017-03-14 | 舞台

 *アウグスト・ストリンドベリ作 コナー・マクファーソン翻案 小川絵棃子翻訳・演出 公式サイトはこちら『令嬢ジュリー』と交互上演 シアターコクーン 41日まで

 ノルウェーのイプセンと並び、近代演劇の先駆者と称されるストリンドベリが1901年に発表した戯曲である。戯曲のみならず、小説や詩、評論、エッセイなど多方面で健筆をふるう一方、彼の私生活は、結婚と離婚を繰り返す難儀なものであったそう。本作は二度めの結婚が破たんした後に書かれているが、題材としたのは彼の妹夫婦らしいとのこと(公演パンフレット記載)。結婚のためにヴァイオリニストになることを諦めた妹と、その毒舌家の夫という点も戯曲の設定によく似ている。

 あくまで本人談ではあるが、新進女優としてまさにこれからというところで、十以上も年上の大尉エドガーに見初められて結婚したアリス(神野三鈴)と、嫌味で陰険な性格が災いして出世できなかったエドガー(池田成志)夫婦の銀婚式を数か月後に控えた火宅が舞台である。エドガーは軍人としての人生の不満をアリスにぶつけ、アリスは仕事を辞めさせられた恨みを執拗に言い募る。夫妻の罵り合いはすさまじく、よくこれで何人かは子どもが生まれ、どちらも生きてこられたものだと感嘆するほどである。

 そこへアリスの従弟クルト(音尾琢真)が訪れる。彼もまた離婚によって親権を失い、ずっと憧れていたアリスとの15年ぶりの再会にも複雑な思いを抱いている。夫婦が外面を取り繕っていたのはほんの数分のこと。蛇蝎のごとき憎悪の嵐に、クルトはあっという間に巻き込まれてしまう。

 先ごろ亡くなった作家の三浦朱門の『四世堂々』(朝日文庫)に、次のような一節がある。「一度でいいから、本当に仲のよい夫婦というもを見てみたいものだ。私の知る限りでは、どの夫婦でも、老若を問わず、かなり陰惨な生活に耐えているのである」。我慢はお互いさまなどというレベルではなく、「陰惨な生活に耐える」という問答無用の表現にはしばしたじろぐ。たくさんの夫婦、家族に出会ってきたであろう三浦をして、「本当に仲のよい夫婦というものはめったにいない」ということである。ならば「本当に仲の悪い夫婦」とは、どのようなものなのだろうか。

 思い出すのは、映画『ハッシュ!』(Wikipedia)(橋口亮輔監督 2001年)だ。行きずりの相手と愛のない交わりを繰り返す女性(片岡礼子)が、ゲイのカップル(高橋和也、田辺誠一)と出会い、精子の提供を持ちかけたことに物語が始まる。そこに登場する田辺の兄夫婦の様相である。夫(光石研)は見合い結婚した年上の妻(秋野暢子)のすることなすこと全てが気に入らず、妻が義弟(田辺)に「漬物食べる?」と声をかけたことにすら、「出したらええやないか」とイラついた声を出す。義弟に聞いているのだから夫がケチをつける必要は全くないのに、いちいち聞くのが気に食わない、さっさと漬物を出せと言いたいのだろう。妻は反論せず傷ついた様子もなく、いっさいを受け流す。無視である。だからこの夫婦は喧嘩はしない。する気力もなく、喧嘩の意味も見出せないからだ。仲が悪い夫婦というのはむしろ静かであり、会話が成立しない。論理も理屈もなく、夫はただただ妻が嫌いで、妻は夫に心を向けないことで、どうにか心身の平安を保つ。こちらの心が寒々とするような夫婦であり、現実に見たことはないが、「こういう夫婦はきっといる」と確信させる描写であった。

 だからといってエドガーとアリス夫婦を指して、「喧嘩するほど仲がいい」などとは決して言わない。相当に不仲であることは確かだが、ここまで丁々発止の罵り合いをし、相手を破滅させようと目論んだり、ほかに助けを求めたりしているところをみると、まだ諦めきっていないのではないかとすら思われるのである。円満かそうでないか、お互いに対する心のありかは簡単に言えるものではないだろう。すべてが愛ではないように、すべてが憎しみであることもないのではないか。
 
 
シアターコクーンの客席を対面式にし、中央に舞台をしつらえた。コクーンの観劇には1階席であっても後方ならオペラグラスが必要であるが、今回はよく見える作り(本音を言えば、もう少し後列がよかったが)であった。
 
本来の『死の舞踏』には第二部まであるが、第一部だけを取り上げたマクファーソンの翻案台本が「非常によく出来ています」(小川)とのこと。2008年の演劇集団円の公演がどのようなものであったか知りたいが、それにしてもあそこまでやりあって一応収まりを見せた夫婦の物語に、さらに「吸血鬼」と題されたつぎの幕があるとは、どれほど陰惨なものであるのか、怖いもの見たさでホンだけでも読みたいものである。

 観劇した夜、自分はFBに次のような感想を記した。「本作は観劇の必然性が(こなれていない表現だけど)非常に高い。これから結婚するかもしれない人は将来の予習として、継続するしないにかかわらず、すでに結婚を通過した人は過去の復習として。自分がいかに幸せかを確認し、感謝するために、あるいは自分よりもっと不幸な人がいることに慰めを見出すために、もしくは自分のほうがもっと悲惨だと覚悟するために。さまざまな状況にある観客の存在に耐えうる作品だ」

 日にちが経って、どうもそうではないような気に。実際に『死の舞踏』のような夫婦があるかどうかは別として、作者はこの作品によって、何を伝えようとしたのだろうかという根本的なことがわからなくなった。夫婦関係に限らず、幸福や不幸は他人との比較ではないと思う。終始いがみ合い、罵り合うエドガーとアリスと、『ハッシュ!』の兄夫婦のどちらが幸福か不幸かなどの比較は無意味であるし、「ウチのほうがまだましだわ」とふと安堵したとしても、しょせん作り物の芝居の世界に比べれば、終演後にあの連れ合いが待つ火宅に帰らねばならない現実のほうがよほど悲惨であろう。なので自分にとっての『死の舞踏』は、着地点のない、浮遊状態の物語なのである。

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日本演出家協会主催若手演出家コンクール2016より『みそ味の夜空と』

2017-03-04 | 舞台

*南出謙吾作 森田あや演出 公式サイトはこちら。87名の応募者のなかから、第一次、第二次審査を経て最終審査に残った4名の演出家の舞台が一気に上演されるこのコンクール、これまで2度観劇したことがあるが(1回め:1,2,3,4 2回め:1,2)今年は本作1本を観劇した。
 らまのだ1,2,3)の南出は昨年12月、『触れただけ』で第22回劇作家協会新人戯曲賞を受賞したばかりで、演出家、劇作家ともに上り調子のユニットらしく、生き生きと楽しい舞台であった。客席は最前列の桟敷が2列になるほどの大盛況だ。

 別れることを決めたカップル。しかし男性のほうがぐずぐずしている。女性はしっかり者。対してその兄は夢想家というのか、地に足のつかない性格で、ラーメン屋になると宣言してうちを出る。その兄に恋人がおり、兄の残していったプロレスラーのマスク?を取りに来る。1時間弱の物語の中で兄妹の住むうち(両親も同居らしいが登場しない)とバス停の場面があるのだが、暗転と明転のタイミングに合わせて、大道具小道具の入れ替えなども実に手際よく行われる。リハーサルの時間も十分に取れなかったのではないかと案じたが、俳優陣いずれも安定した演技で、客席の反応も温かい。「私には英語しか取り柄がないのに、英検1級試験に落ちた」と悲嘆にくれる女の子のくだりが非常におもしろく、方向性のずれたやりとりをテンポよく、演じる俳優の個性を活かした台詞を書ける劇作家として、南出謙吾はますます腕を上げた。

 このコンクールは、4人の演出家がそれぞれの作品を1時間で仕込んで1時間で上演し、すぐにバラシて次の演出家の舞台に明け渡すことを繰り返すというハードなもの。それでも平日は1本ずつの上演だが、土日は2本から3本の上演が続くので、観客の入れ替えも合わせると、まことに慌ただしく、スタッフワークの手腕も問われることになる。「演出家コンクール」というからには、演出家の、というか演出について競い合うコンクールなのだが、そこには戯曲(つまり劇作家)の存在も当然あるわけである。今回最終候補に選ばれた大河原凖介(演劇企画集団LondonPANDA)、中村暢明(JACROW)の2名が作・演出を兼ねており、永野拓也(hicopro)は柴幸男(ままごと)の『つくりばなし』を原作に、ミュージカル構成した作品を演出する。

 まことに極端な例になるが、シェイクスピアでも別役実でも、ひとつの作品を決めて、4人の演出家それぞれの舞台を競い合うという形式ではどうなるのだろうか。同じ作品が演出家によってどんな変容を見せるのか。さらに演出の違いに関わらず、ぶれない作品の核は何かを味わい、改めて演劇における演出家の役割とは何かを観客とともに考える試みもあってよいのでは?

 最終日上演後の公開審査において、最優秀賞、観客賞ともに永野拓也が受賞した由。自分は永野の舞台をまだ見たことがなく、次なる楽しみと目標として、主宰するhicoproの公演の情報にアンテナを張っておきたい。

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オフィスコットーネプロデュース『ザ・ダーク』

2017-03-03 | 舞台

*シャーロット・ジョーンズ作 小田島恒志・則子翻訳 高橋正徳(文学座)演出 公式サイトはこちら 吉祥寺シアター 12日まで
 舞台上手1階にキッチンとダイニング、
2階に寝室とベビーベッド、中央部にはパソコンのある部屋と玄関ドア。下手はテレビとソファのあるリビング、その中二階に寝室がある。こういう作りの家を「テラスハウス」というらしい。ある町の一角、同じ間取りの3軒の家に、3つの家族が暮らす。ビデオショップを経営しているジョン(中山裕一朗)は、幼児性愛者と誤解され、近所の悪ガキから暴力をふるわれており、神経を病んでいるらしい母のエルジー(山本道子)との暮らしに辟易している。バーナビー(小林タカ鹿)とルイーザ(ハマカワフミエ)夫婦には、女の子が生まれたばかり。泣き止まない赤ん坊に妻はいらだち、産後の肥立ちも良くない。夫の気遣いもことごとく裏目に出る。元トラックの運転手だったブライアン(福士恵二)とジャネット(松本紀保)夫婦の間は冷え切っており、ジャネットは自分が癌だと思い込んでいる。15歳の一人息子ジョシュ(碓井将大)は引きこもりで、パソコンのチャットをして過ごす。

 彼らはご近所同士で、顔くらいは知っているが行き来はない。赤ん坊の泣き声や夫婦喧嘩の物音などを聞きながらさまざまな憶測をし、表でばか騒ぎをする若者たちに怯えるうち、突然、通り一帯が停電した。様子を見に通りへ出たり、蝋燭やガスのヒーターなどを借りに訪れたり、人々は暗闇の中で右往左往する。観客は安全な地域にいるご近所のように、その様相を覗き見る感覚である。

 どの家庭も一筋縄ではいかない問題を抱えている。たとえば赤ちゃんの夜泣きが収まり、母親の体調が回復すればこの夫婦のぎくしゃくした関係は改善に向かうのか?息子の幼児性愛者の誤解が解けて恋人でもできれば、母親はここまで息子を攻撃しないのか、癌の疑いがきっぱりと否定されれば、妻は朗らかになるのかと想像するが、若夫婦はともかく、あとのふた家族の確執は数年にわたって形成されたのであろう、心がねじくれ、凝り固まっている。

 べつべつの建物にいながら、一つ屋根の下で展開する3つの家族の時間は、いかにも演劇らしい作りであり、人々の台詞の発語や動きなども綿密に構成され、飽きさせない。2004年にロンドンで初演され、ウェストエンドの話題をさらったとの評判もうなづける。作者のシャーロット・ジョーンズは俳優でもある由、自分でも台詞を発し、動きながら劇作したのでは?初演されたのはロンドンのコヴェントガーデンにある倉庫を改築したDonmar Warehouseという劇場であったそうで、「ベニサン・ピットのようなところかな」などと、あれこれ想像が膨らむ。

  興味深く刺激的なのは、3つの家族の帰着点がほとんど読めない点である。物語終盤近くになって、彼らはようやく他の家へ助けを求めるアクションを起こす。「蝋燭を貸してほしい」とやってきたバーナビーに対し、ジャネットはまことに親切に優しく振る舞う。しかしその後彼女がとった行動は、それこそお互いの連れ合いには死ぬまで秘密にしておかなくてはならないほどのもので、だがほんの些細な、どうでもいいことと言ってしまうこともできる。引きこもりのジョシュはジョンとエルジーの家に押し入り、ガスバーナーを向ける。だが母親に押されっぱなしだったジョンが意外な落ち着きと貫禄を見せ、この騒ぎを何となく納めてしまう。これもお互いの親には言わぬほうがよいだろう。

 彼らの心の扉を開け、心情を溢れさせたのは、停電の暗闇のせいだけではないだろうが、目が見えず、思うように動けないことで神経が研ぎ澄まされ、日ごろとはちがう行動をさせたのかもしれない。孤立していた人々が停電によって心を通わせ、なごやかな夜になった。これからはこの界隈も少しは明るくなるのでは…ということならごく安手のテレビドラマである。終幕、思いもよらなかった妻への強い愛情(恋慕といってもよい)をあらわにしたブライアンの最期は、観客の安易な想像を無情にはねのける。

 客席最前列での観劇は、俳優の表情の変化をつぶさに見ることができた半面、どうしても見上げる形になるために、舞台ぜんたいを掴むことがむずかしかったのが残念だ。しかしながら翻訳、演出、演技ともに容易ではなかったであろう作品を、日本に居ながらにして味わう幸福を与えられたことが嬉しい一夜であった。

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