因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

2018年5月観劇と俳句の予定

2018-04-28 | お知らせ

 観劇の日にちすら決めていないものがほとんどなのですが、ひとまず以下書き出しておきますね。
劇団文化座公演151 三好十郎作『夢たち』(1,2,3,4,5,6
 演出は文学座の松本祐子。ほとんどが昼公演ですな…。
*俳優座公演№336『首のないカマキリ』
 iakuの横山拓也の作品を、俳優座気鋭の演出家・眞鍋卓嗣がどう取り組むのか。上演期間がわりあい長めだが、ここも夜公演の少ないこと…。
*同時期に、こまばアゴラ劇場では「iaku演劇作品集」と銘打って、横山の4作品が連続上演される。
劇団フライングステージ 「関根信一短編戯曲リーディング『アナグラム-ユルスナールの恋-』」今年から新しい試みとして、本公演では上演しづらい作品をリーディング形式でお披露目するとのこと。四谷三丁目の素敵な喫茶&ギャラリーでの上演も楽しみ。1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19)
*文学座公演『怪談 牡丹燈篭』
 杉村春子の当たり役を新橋耐子が受け継いだ上演を見たのは、あれれ、もう20年も前なのか。劇団にとっても俳優にとっても財産演目だ。新しく富沢亜古が挑む。
劇団普通 第6回『害虫』
 作・演出の石黒麻衣が俳優として出演する舞台を何本か観劇していたが、本拠地の公演は見逃していた。今回ようやく。
唐組第61回公演【唐組30周年記念公演第1弾】は、1971年初演の『吸血姫』。銀粉蝶を客演に迎え、青春、愛、挫折、希望の物語が新しく生まれ変わる。1,2,3,4,5,6

 5月も立夏になれば、俳句の季節はもう夏です。
*かさゝぎ俳句勉強会 「雷」「万緑」「初鰹」
*十六夜句会「子どもの日」「余花」
 連休中は帰省のため、残念ながらお休みします。この句会は欠席投句ができないので、実家で一人句会いたします。
*演劇人句会「薄暑」「夏の蝶」詠み込みは「リキ」
*金星句会「芍薬」「三社祭」
 5句出しが7句出しになり、時折は全て兼題による作句、逆に兼題なしのすべて当季雑詠などなど、ハードルは上がるばかり。

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シアター風姿花伝「プロミシングカンパニー」パラドックス定数オーソドックス 第39項『731』

2018-04-24 | 舞台

*野木萌葱作・演出 公式サイトはこちら シアター風姿花伝 5月2日まで1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24
 「プロミシングカンパニー」とは、シアター風姿花伝が「これ!」と見込んだ若手劇団を選出し、1年間その活動を強力にバックアップする試みだ。パラドックス定数は今夜初日の『731』を皮切りに、来年3月(訂正しました)まで7本の舞台を上演する。パラ定ファンには嬉しくも心騒ぐ1年が始まった。
 ある演劇情報サイトにおいて作・演出の野木は、「最初の演目だからといって、助走などしておりません。いきなり最大火力で狙い撃ちいたします」と意気込みを述べている。パラ定公演観劇の秘かな楽しみのひとつは、おそらく公演の全日程、劇場にスタンバイして観客を迎える野木の立ち姿を見ること、開演前の諸注意、そして終幕の挨拶を聞くことなのだ。地味な紺のパンツスーツ、しっとりと美しい声、気の利いたユーモアを交えて観劇前の観客の心を和ませ、舞台に臨む姿勢を優しく整えてくれる。緊張感漲る舞台が終わったあとは、アンケート協力の呼びかけ、物販の案内など細々したことを、溢れるような感謝と共に見事に締めくくり、客席からは必ず拍手がわく。ここまで体験しなければ、パラ定を見たことにはならない。

 今回の『731』は2003年に同じシアター風姿花伝で上演されたもの(未見)を大幅改訂したものとのこと。旧満州において人体実験を伴う細菌兵器の開発と実戦使用に関わった731部隊に、医師、研究者、衛生兵として任務を遂行した男たちが登場する。題名を見た瞬間、少しでも「731」のことを知る人は背筋に冷たいものが走り、身構えることだろう。

 戦争中の行為そのものが再現されるのではない。1948年の東京のある場所に、何者かによって書かれた手紙によって7人の男たちが集まってくる。自分たちが帝銀事件との関わりを疑われていること、忌まわしい過去の記憶、悪魔的な行為を行った自分への嫌悪、消すことのできない過去、研究者としてのプライドや開き直り、エゴなどがぶつかりあい、やがて闇に消えてゆく2時間のドラマである。

 冒頭から、登場人物の台詞の一部に、非常に聞き取りにくい箇所があることが気になった。演出の意図あってのことだろうか。またこれは致し方ないことかもしれないが、出演俳優から「元軍人」の雰囲気を感じ取れなかった。しかし仮に新劇系の俳優を起用したり、大作映画並みに髪型や服装などをきっちりと作り込んだとしたら、作り手が示そうとしていることにずれが生じるように思えるのである。野木が他劇団に書き下ろした作品の上演を見たとき、ことばにし難い違和感があったことを思い起こす。やはりこの俳優陣で見たいのである。

 まことに大雑把な表現になるが、戦争を題材にした作品の特徴として、戦争というものがいかに人間の心を狂わせるか、傷つけられた者はもちろん傷つけた者もまた、苦悩に苛まれ、それでも生きていくしかないこと、そして戦争の愚かさとともに平和こそが尊いのであり、人の命の大切さを説く…といった流れが想像されるし、観客もまた知らず知らずこういったものを求めてしまうのである。

 『731』は安易な予想や単純な既成概念いずれをもきっぱりと拒否するものである。当日リーフレット掲載の野木の挨拶文に、2003年の初演を最前列で観劇していた大杉漣のエピソードが紹介されている。「本当に…ものすごく面白かったんです。不親切で突き放してて…ね?」と感想を伝えたという。この率直で生き生きとした言葉は、『731』のみならず、パラドックス定数の作品群の特徴と魅力をずばり言い当てていると思う。

 自分自身のことを言うと、観劇のあいだ、しばしば緩い眠気に襲われ、集中を持続することができなかった。寝不足や疲労はいつものことであるし、内容にも強く惹きつけられていたのだが、本作の会話の独特のリズムや、人物の心象、社会背景など相当に複雑な内容を孕むやりとりに、心身がついていかなかったためと思われる。もう一度観劇するゆとりはなく、上演台本を読み返しては、記憶に残っている舞台の印象について考えるしかなさそうだ。しっかりした手ごたえを得てこの文章を書けないのは残念であるが、自分の『731』はここから始まることを心に覚えておきたい。

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劇団印象第23回公演『ヴィテブスクの空飛ぶ恋人たち』

2018-04-20 | 舞台

ダニエル・ジェイミソン作 鈴木アツト翻訳・演出 公式サイトはこちら 下北沢・シアター711 22日まで1,2,3,45,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24
 画家マルク・シャガール(Wikipedia)の半生を舞台化した作品で、2016年ロンドンでの初演が絶賛を浴びた。鈴木がロンドン在外研修の際、劇作家にインタヴューしたことをきっかけに今回の公演が実現の運びとなったとのこと。さまざまな偶然が必然に結実しての公演だ。画家とその最愛の妻ベラとの半生を描いた作品にふさわしく、アフタートークのゲストも三菱一号館美術館長の高橋明也氏、東京ステーションギャラリー館長の冨田章氏、ポーラ美術館学芸員の東海林洋氏と、素敵な顔ぶれ。

 客席は対面式に設置され、中央が演技エリアとなる。俳優は左右の扉や客席後方からも出入りし、年老いたマルク(村島智之)がフランツ(小日向星一)の電話で、妻のベラ(山村茉梨乃)の出会った青春時代、戦争による迫害を生き抜くなかで、現実の生活と芸術に献身することの両立の困難や妻との衝突も赤裸々に描く。物語の舞台も生まれ故郷のヴィテブスクにはじまり、絵の修行をしたパリ、ロシア、ベルリンを経て、亡命先のアメリカまで目まぐるしく変わってゆく。田代晶子(パフォーマンスユニット・Crankybox)によるヴァイオリン演奏が出過ぎず引き過ぎず、よいバランスで舞台を支える。

 さまざまな衣裳や小道具が場所の動き、年月の経過を鮮やかに示す。とくにベラの衣裳!マルクと出会ったときの白衿のワンピースは、赤いタイツのコーディネイトが可愛らしい。案外地味なウェディングドレス、晩年にはカーディガンとロングスカートで、眼鏡も良く似合っている。俳優が椅子や大時計、銅像などを出し入れしたり、出入り口から時折差し込まれる手紙も効果的だ。シャガール夫妻には歌やダンスの場面もあり、村島、山本ともに生き生きとした演技を見せる。3人めの俳優である小日向星一は、複数の役を演じ継ぎながら、夫妻の半生の傍らに寄り添う重要な役割を果たす。

 シャガールについては、柔らかで幻想的な不思議な雰囲気をもつ絵画の数々と、その多くに妻ベラが描かれていることが夙に知られているが、彼がユダヤ人であること、それゆえの苦悩やロシア革命、続くナチスの迫害など、歴史に翻弄された人生であったことなどについてはまことに不勉強であった。前述のように歌やダンスを盛り込み、趣向に富んだ舞台であるにも関わらず、舞台の弾むような楽しさや、疾風のような人生の流転などを、客席が十分に受けとめかねていたのではないか。作品に向き合う姿勢として自分自身残念であり、反省しきりである。

 翻訳面から、台詞を削る、あるいはもう少し説明する必要はあるかもしれない。といって、すべてを日本人にわかりやすくかみ砕かずとも、硬いまま、長いままのところがあっても構わないのではないか。わからなくとも、まずはそのまま受け取る。それが時間を経て受け手の心の中で芽を出す可能性もあるからだ。本作はゆっくり時間をかけて歩んでほしいと思う。それが可能な強さと柔軟性、時間をかけることによって新しい発見を生む意外性を持っていると感じられるからである。

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現代劇作家シリーズ⑧「ハムレットマシーンフェスティバル」より風蝕異人街&劇団7度

2018-04-17 | 舞台

*公式サイトはこちら 4月4日(水)~22日(日)@日暮里/d-倉庫
 連携企画のOM-2、第1クールのサイマル演劇団&隣屋に続き、第3クールの2劇団による上演を観劇した。登場するのは、
劇団風蝕異人街(こしばきこう演出 1)と劇団7(伊藤全記演出 1,2,3,4,5)である。

 前者はハムレットとオフィーリアはもちろん、コロスに加え、埼玉大学ダンス部の有志も登場し、ステージをところ狭しと激しく踊る。台詞よりも舞踏、ダンスというにはアクロバット的なアクションが緩むところなく繰り広げられる。出演者が白足袋を履いていることもあり、能の所作風の動きも多い。力強く繰り返される足踏みの音は次第に呪文めき、鮮やかなグリーンのドレスを着た女優たちの胸元に汗の染みが広がって、演者の熱量が伝わる。途中からTバックだけのほぼ全裸を晒すハムレット役の男優は、贅肉など欠片もない見事なからだつきだ。同じくハムレットを演じ、本作の振付演出を担う三木美智代の動きも素晴らしい。ダンスパフォーマンス風の『ハムレットマシーン』(以下『HM』)と言えばよいだろうか。

 当日リーフレット掲載のこしばきこうの「演出ノート」によれば、本作が作者のハイナー・ミューラーが吐き出したことばの連なりであること、ミューラー自身の光と影としてコロスを、権力として亡霊を登場させたこと、言葉の力より身体の空間描写に力点を置いたとのこと。この「身体の空間描写」という捉え方。なるほどと合点がゆく舞台であった。

  風蝕異人街が「動」ならば、7度は「静」である。舞台中央にパラソルとデッキチェア。傍らの小さなテーブルにはフラワーロックと飲み物の入ったボトルなどが置かれ、リゾート地の風景と思わせる。まだ客電が落ちていないうちから、花嫁のごとく仰々しいまでに白いドレスを纏った女性(山口真由)が小さくつぶやきながら登場、やがてトレーニングウエア姿のもう一人の女性(中山茉莉)がやってくる。ふたりが会話することはない。山口の白いドレス姿からは、昨年冬のこの舞台が否応なく想起される。オフィーリアでもありハムレットでもある。

 対照的な『HM』を一度に鑑賞できたのだが、いずれも表現の強度や繰り返しの度合いがこちらの感覚に対して強すぎたり長すぎたり、リフレインから生まれる劇的感興を味わうというより、「この様相がいつまで続くのか」という不安や疲労を持たざるを得なかった。自分の体力・知力及ばず、残念である。

 これで3月末から5本の『HM』を観劇したことになり、このような体験は人生においてもう二度とないのではないかと思われる。それほど敷居が高く、縁遠いと思い込んでいた作品であった。今回もじゅうぶんに理解できたとは到底言えないのだが、不思議なことに『HM』のテクスト(という言い方は自分にとって馴染まないものであるが)に対して抵抗が薄れ、詳細な注釈とともに繰り返し読んでいるのである。理解が進むというより、自分なりの『HM』への距離の取り方を試行錯誤している段階であり、甚だ心許ない歩みではあるのだが、もしこれから先、『HM』に出会うことができるなら、もっと言葉を聴きたい。

 従来のドラマ形式を解体し、上演困難な作品の一つと言われているが、それは逆に「これが正しい『HM』の上演だ」というお手本も決まりもないということではないか。難解な作品であるという呪縛から解放されたのち、俳優からどんな声が聞こえてくるのか、自分はそれに耳を澄ませ、もっと『HM』に触れたいと思うのである。

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文学座4月アトリエの会『最後の炎』

2018-04-14 | 舞台

デーア・ローアー作 新野守広翻訳 生田みゆき1,2,3演出 公式サイトはこちら 信濃町/文学座アトリエ 28日まで 公演期間中、終演後のアトリエでのトークショーはじめ、5月20日には劇作家の来日を記念したシアターアーツ2018劇評口座第1回「劇作家デーア・ローアー氏を迎えて」も行われる。こちらは座・高円寺地下3階けいこ場2にて。
 
ある町の暑い夏の日のこと。紛争地からの帰還兵の目の前で、サッカーボールで遊んでいた少年が、ある自動車を追跡中のパトカーにはねられる。少年の両親、認知症を患う祖母、パトカーを運転していた女性警官、追跡を振り切ったあと部屋に引きこもる青年、その友人。少年の母は元教師で、同僚の女性教師は青年に車を貸していた。一人の少年の事故死をめぐって、周囲の人々が結びつき、あるいは離れていく。

 丸い円形の演技エリアを囲むように客席が設置されている。灰色の円形には朽ちそうな木が一本あるきりだ。劇場を訪れた初日夜、公演チラシや劇団サイトなどから得た本作についてのおよその情報や、目の前のこの情景から、さまざまなことが想像された。しかしはじまった2時間余の舞台は、その想像や予想をほとんどすべて覆すものであり、目の前で繰り広げられる様相は、こちらの感覚に容易に沿うものではなかった。

 最大の理由は戯曲の文体である。登場人物がモノローグであるのに、三人称で語る場面がしばしばあること、ト書き的な箇所も人物が語ること、戯曲の台詞というより詩のような文体が少なからずあることなどなどである。

 物語の流れと人物の心情を、日常生活、日常の感覚をベースしたリアリズムの台詞劇を構成することも、映像にすることも可能な内容であると思う。しかし劇作家にはこの文体によって劇世界を構築することが必然であったのだ。言い換えればこの文体でなければ、劇作家の訴えたいことはかたちにならなかったのだろう。

 たとえば少年の両親は、息子を失ってから(いや、それをきっかけにしてか?)夫婦の関係が軋みはじめ、同僚だった女性教師があいだに絡み、夫は失踪するのだが、この辺りをリアルに描いたなら、いかにもありがちな不倫ものに陥る可能性もある。

 演出も演技も、リアリズムの作品とは大いに勝手が違い、困惑や苦心があったと想像される。この戯曲は俳優にありきたりな演技、ありていな造形を許さないものだ。出演俳優諸氏は、自分の役だけでなく、相手役との距離、舞台と客席との温度差など、劇場ぜんたいを劇世界とする構成力を要求され、さらにそれはしばしば作り手自身の手によってさえ自在にならない可能性もあり得ることを知った上で、熱演力演ではない方向性を探っている・・・と思われた。

 さて問題は、それを客席がしっかりと受けとめたかどうかであるが、台詞を追うこと、人物の関係性の変化を把握することに注力せざるを得ず、終幕で人々が円形の周辺にしゃがんでにわかに親密な調子で話し始めた(そんな印象である)ときには、それを劇世界の展開や解放と認識するより戸惑いのほうが強く、結果的に疲労感の濃い観劇となった。何より本作の題名に通ずる帰還兵が最後のとった行動、彼の心情をもっと感じ取りたかった。俳優の演技が誠実であっただけに、残念だ。

「詩劇」の視点を持てば違う印象をもったかもしれない…と思い至ったところで、俳優・ナレーターの西村俊彦氏のブログをご紹介する。本作の印象があざやかに記されているだけでなく、問題点についての鋭い指摘があり、観客として得心が行った。ご参考

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