因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋5月のなにか

2011-04-29 | お知らせ

 あっというまに桜が散って青葉の季節になり、あっというまに観劇予定が10本を越えてしまった。因幡屋通信、えびす組劇場見聞録ともに最新号の追い込みに入っている。最後まで投げださずにきちんと仕上げられますように。

オペラシアターこんにゃく座 40周年記念公演第二弾 山元清多追悼公演 『変身』
(1,2,3)
声を出すと気持ちいいの会 第6回公演『被告人ハムレット』(1)
 明治大学内での公演は今回が最後になる由。
*井上ひさし追悼ファイナル Bunkamuraシリーズ 『たいこどんどん』
*演劇ユニット 発汗トリコロール 『エデンの河童』 
 昨年来気になっている横手慎太郎の本拠地での公演。(1,2,3,4 但し4には出演俳優についての記述なし)
*新国立劇場 『鳥瞰図』  
 サスペンデッズの早船聡(1,2,3,4,5)が2008年「シリーズ・同時代」に書き下ろした作品の再演。
*帝国劇場 『レ・ミゼラブル』 
 ロンドン・オリジナル版の最終公演。大学時代の同級生4人で観劇を予定しており、ちょっとした同窓会です。
明治座 五月花形歌舞伎
趣向 『解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話』
 時間堂の黒澤世莉が演出する。
イキウメ 『散歩する侵略者』 (1)
風琴工房code.29 『紅き深爪』 (1,2,3,4,5,6,7,89,10)
演劇集団未踏 創立45周年記念 『うそつきテコちゃん』
studio salt 第15回公演 『ビタースイート』 Space早稲田 演劇フェスティバルに参加。
1,2,3,4,5,6,6`,7,8,9,10,11,12,13,14

 レンブラント展に行く。版画が多いせいか予想より地味な印象の展示会である。
 そのなかで『アトリエの画家』に添えられた解説文を何度も読み返した。手帳のメモは完全なものではないが、およその以下の内容である。

 「(本作は)絵画制作そのものに関わるもの(絵筆、パレット等々)しか描かれていない。そのことにより、単なる風俗描写ではなく、絵画の理念そのものを描いた構想画であることが言外に主張されている。いわば『絵画』を主題とした絵画である」

 自分はまったくと言ってよいほど絵心がなく、知識も理念もない。絵は絵にしかみえず、色づかいや筆致などに目が向く程度である。絵画から画家の意図や精神など想像もつかない。
 「絵画の理念そのものを描いた構想画」「『絵画』を主題とした絵画」という批評に驚くばかりであった。絵画とはこのようににみるものでもあるのですね。

 いっぽうで、昨年秋に行ったゴッホ展の『灰色のフェルト帽を被った自画像』がいまでも鮮やかに思い出される。ぜんたいの展示物の中間あたり、少し奥まったところに置かれたそれは、他のものとは違う生気を発していた。近づいて見ると点描よりも長く太いタッチが重ねづけられ、遠く離れてみるとゴッホのふたつの目がこちらを強く見ているかのようであった。絵画を見たというより、ゴッホその人に出会ったのだと思え、絵の前から立ち去れず、出口に行きかけてはまた戻ってを繰り返し、何度も振り返って絵にさよならを言って(心のなかでです)ようやく退出したのだった。胸が痛くなるような、忘れられない体験であった。

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パルコ『欲望という名の電車』

2011-04-28 | 舞台

*テネシー・ウィリアムズ作 小田島恒志翻訳 松尾スズキ演出 公式サイトはこちら パルコ劇場 5月1日まで
 先に観劇した知人は「杉村センセイがご覧になったら、なんとおっしゃるやら」と言い、いくつかのネット劇評を読んでも、『欲望という名の電車』は「杉村春子のブランチ」に強く支配されているらしい。自分は幸か不幸か、杉村春子版をみたことがない。自分の『欲望~』体験は、1983年夏、青年座の東恵美子版、2002年春、蜷川幸雄演出、大竹しのぶ版、2007年秋、鈴木勝秀演出、篠井英介版の舞台であった。それぞれに特色、主張があり、演出家や俳優として一度はやってみたい魅力的な作品であるらしいことはわかったが、「この人のブランチこそが決定版だ」という印象はなく、演じられる人はまだまだいるのではないかというのが実感であった。

 

 予想していたより地味で、堅実な作りの舞台である。これまで数回みた『欲望~』のなかで、最も好もしい印象であった。演出家の「こう見せたい」、俳優の「わたしはこう演じたい」という主張よりも、戯曲に対して謙虚で慎重な姿勢が感じられたためである。ところどころ松尾スズキ的、大人計画的な箇所はある。たとえば後半、スタンリーからブランチの行状を知って打ちひしがれたミッチがブランチの顔を明るいところでみようとする場面が、まさかの演出になっている。自分は基本的に戯曲に手を加えずないほうが好みであるのにも関わらず、「はい?」とびっくりし、なおかつおもしろいと思った。それがなぜかをこの記事において明確にすることはできないが、「これが自分の新解釈だ」という演出家の強烈であからさまな自己主張にはみえなかったためではないかと思う。

 俳優本人が演じたいと願い、あなたのあの役をもっとみたいという観客が熱烈なエールをおくることを決して否定はしないが、ひとりの俳優が「当たり役」として長年にわたって演じ続けることには功罪がある。いろいろな演出家、俳優が作品に向き合い、競い合う。観客はさまざまな『欲望~』をみながら、自分の感覚を探ってゆく。そのほうが作り手も観客も豊かになれるのではないか。
 前述のように自分は杉村春子版をみておらず、名舞台を見逃して残念な反面、杉村ブランチの影響をまったく受けていないという点において非常に自由であるともいえる。
 知人の「杉村センセイが・・・」のひとことはいい意味であったこと、知人が今回の松尾スズキ演出の舞台、秋山菜津子のブランチを楽しんだことがわかった。自分も楽しみ、改めて本作に対する興味がわいてくる。これからも新しい演出家、俳優がどんどん挑戦してほしいと思う。

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売込隊ビーム 充電前最終公演『俺のカー・オブ・ザ・イヤー』

2011-04-27 | 舞台

*横山拓也 作・演出 公式サイトはこちら 下北沢「劇」小劇場 24日で終了 5月13日~15日まで大阪公演あり (1)
 今回の公演をもって劇団15年の歩みをしばし止め、充電期間にはいるとのこと。2010年優秀新人戯曲賞受賞の『エダニク』を読んで掻き立てられるような関心を抱いただけに、会ったばかりで一時的とはいえお別れとは残念な気持ち。

 舞台中央に軽トラックが置かれている。冗談のようだがほんとうである。トラックを中心に、10人の登場人物のつながりが徐々にあぶり出される物語だ。

 人物はふたりずつ登場して、それぞれが噛み合わないまま続いていく会話を軽妙にみせる。劇作家の台詞術が高度で巧みであることがわかり、俳優も達者である。それぞれが久しぶりに再会した若いころの知り合い、職場の先輩と後輩の3組の6人が主に物語を運んでいく。やがて裏社会の構図や黒幕のためにもみ消された犯罪、それによって暗転してしまった人生などがだんだんみえてきて、次第にサスペンスの様相を呈してゆくのだが、上記いがいの4人の人物の絡みかたにもの足りなさを感じ、話ぜんたいとして釈然としない印象が残った。

  自分が本作に足を運んだ理由のひとつは、一昨年来気になっている津留崎夏子(1,2)が客演することであった。ある会社の新人社員役で、ふた昔まえなら「新人類」と揶揄されたのだろうか、先輩に営業車を運転させるそばで悪びれもせずにビールを飲むわ、相手の話は聞いてないわのずれっぷりが笑わせる。物語の深いところで不気味に絡んでくることを期待したのだが、そのあたりはあっさりしていて少しもったいない気が。

 野田秀樹は柴幸男の『わが星』について、「私たちが見たいのは、答え(=オチ)ではなくて、解き方(=芝居)である」と評し、「答えに驚きはないが、解き方が美しい」として岸田戯曲賞に強く推している。どの作品にもこの読み方があてはまるわけではなく、答えも解き方もおもしろかったり、解き方に不満はあるが、答えが素晴らしいために納得するという作品もあるだろう。
 「野田方式」で言えば、『エダニク』は解き方が抜群におもしろく、それをがっちり受けとめるだけのオチと言うにはやや足りないが、それでも納得できた。この戯曲を舞台でみたい!と心底思えるものであった。それに比べると、やはり今回の舞台は解き方もオチもしっくりしない。みおわって「早くブログを書こう」と家路を急ぐ気持ちにはならなかった。記事のアップに日数がかかったのはそのためである。

 折り込みのなかに「速報!!」の文字が躍るチラシがあった。8月に「真夏の極東フェスティバル」と銘打って、その『エダニク』が王子小劇場で上演されるとのこと。行かないわけには。

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因幡屋4月の覚え書き

2011-04-26 | お知らせ

 『たけし アート☆ビート』(NHK BS)第2回をみた。
 今回たけしが訪ねたアーティストはタップダンサーのセビアン・グローバー。高速カメラを使って天才ダンサーの奏でる靴音の秘密を探る様子も興味深かったが、番組のあいだにはさまれるトークが本編をしのぐおもしろさ。たけしと語らうのは、金工作家で東京藝術大学学長の宮田亮平氏と絵描きのジミー大西氏である。世界にはちょっとやそっとでは思いつかないことを考えたり作ったりする人がいて、この日紹介された海外の2人のアーティストの作品(というか…)も素晴らしいと驚嘆するより困惑するのだが、3人のトークはみずからがアーティストだという気負いや奢りがなく、実に率直でスカッとする。
 未知のアートを知ると同時に、それに対する自分の感覚を味わい、楽しむことができそう。
 番組のテーマ音楽、ブルーハーツ「裸の王様」に開き直るわけではないのですが、アートは何でもアリで、その受けとめ方も「何でもアリ」と腹を決めてもよいのではないだろうか。
 以下4月の本や映画などの覚え書きです。

 

【本】
*坪内逍遥『役の行者』(岩波文庫) さっそく困っている。どうなんでしょうか、これは。
*和田秀樹『あなたはもっと怒ってよい』(新講社)
 大震災の被災者が冷静で忍耐強いことが海外で称賛されているが、本作は嫌なこと、困ったこと、理不尽なことに対して正しく怒ることはコミュニケーションの一つであり、そこからはじめて問題解決への筋道が始まると説く。処世術や指南書のたぐいはほとんど読まないのに、書店で本書を手に取ってページをめくるうちふらふらと買ってしまった。震災の直前である。ちゃんと読まないまま、怒りや何やらどこへどうぶつけてよいかわからない混乱の日々がはじまった。ひと月たってようやく一気に読み終えた。自分の心のありかをきちんと見極めよう。
*高野秀行『放っておいても明日は来る 就職しないで生きる9つの方法』(本の雑誌社)
 図書館に予約を入れてから届くまでに数カ月かかり、どこで本書を知ったのかきっかけを忘れてしまったが、おもしろく読む。宮仕え(この表現、古すぎるかしら)せずに独自の道を歩んできた高野秀行が、高野自身も仰天するような経歴の9人から話を聞く。上智大学で行われた「東南アジア文化論」の講義として行われた。究極の就活本か単なる笑える奇談かは読む人の意識によるだろう。
*柴幸男『わが星』(白水社)
 観劇のあと読んだ。舞台をみながら、この場面が台本にはどう書かれているのかという興味はわいたが、これは台詞をずらす手法やめまぐるしい俳優の動きが、「どんな字面になっているのか」という関心に過ぎず、作品の世界観や、劇中ある種のうねりや高揚感も自分なりに感じたから、それを今度は戯曲から感じ取りたいという積極的な意志ではない。舞台の印象を思い出しながら何とか読んだ。舞台をみずに戯曲だけで何かを感じ取れたかは想像ができない。あとがきに「読むだけで果たしてこの戯曲は面白いのでしょうか?」と記されていて、「いや申しわけない」と苦笑した。単純な好き好き、相性のあるなしで片づけず、舞台、戯曲ともに本作のどこが自分にとってしっくりしないのか、どういうところが支持され、評価されているのかを今後も考え続けていきたい。
*永井愛『中年まっさかり』(光文社)
 舞台『シングルマザーズ』について少し長めの劇評を書いていることもあって、改めて読み直した。そして自分は舞台以上に永井愛の「文章」が好きなことを自覚した。1998年ごろであったか、日経新聞夕刊に一時期連載されていたエッセイを毎週楽しみにしていたことも思い出す。
 ある出来ごと、それに対して自身がどう感じたか。明確で率直、生き生きした描写に引き込まれるうち、ごく身近で個人的な体験から、大きく広く深い社会問題に迫っていく確かな足取りに、「そうか、そういうことだったんだ」と気づかされ、自分のなかにあったもやもやした気分が明文化されたように爽快になる。
 ところが、このエピソードはあの舞台のあの人物のあの台詞に活かされているのだなと思い始めると、台詞がとたんに説明的で、劇作家の、あるいは誰かの気持ちを代わりに話しているように聞こえるのも確かなのだった。永井愛の舞台をこれからもずっとみていきたい。しかしおもしろいと感じる気持ちの一方にある違和感や疑問も忘れずにいたいと思う。
【映画】
*『SP革命編』
 監督、出演俳優諸氏完結編だと言っておられるが、完結していないじゃないかというのが自分や本作をみた知人友人ほぼ共通の感想である。尾形(堤真一)に「もうすぐだからな」という看守の意味深な台詞を敢えてまったく芝居気なしに言わせたのはなぜか。続きがあると示しているようなものではないか。完結だと言いながらこの終わり方。『新・SP』なんて作ったら許さんぞ、しかしみてみたいぞ。ああ自分の怒り方はこの程度か・・・。

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中津留章仁LOVERS VOL.3『黄色い叫び』

2011-04-22 | 舞台

*中津留章仁 作・演出 公式サイトはこちら ワーサルシアター 24日まで
 今年はじめのこと、知人から「中津留章仁の舞台をみたことがあるか。『テアトロ』の演劇評論家の座談会で絶賛されている」というメールがあった。それまで公演折り込みのチラシで名前をみた記憶はあるものの、公演に足を運んだことはなかった。本公演はすでに13日に開幕しているにも関わらず、チェックしていなかった。情報収集の意識はもっと鋭く持っていなければだめですね。改めて寡聞と不勉強を自覚する。

 今回の震災は、被害があまりに甚大であること、地震や津波に原発事故が追い打ちをかけ、その影響がどこまでどのようにいつまで続くのか想像の及ばない事態に陥っている。現状が生々しくて重すぎ、震災を題材にした舞台を作るには危険が伴うのでないか。
 しかしその震災に正面からぶつかる力作が現れた。この混乱のなかで戯曲を書き、稽古をし公演を実現したことに驚嘆する。作・演出の中津留はもちろん、出演俳優、公演スタッフが文字通り総力を結集したのであろう。

 

 時は東日本大震災から数カ月後と思われる。登場人物の話す言葉から特定はできないが、震災による直接の被害はない場所で、過疎地といってもいいくらいの地方の小さな町の公民館にやってくる青年団のメンバーたち。台風の通り道でそのたびに土砂災害が起こり、この夜も台風が接近して、下の階には避難している人がいるものの、「いつものことだ」「どうせ何も起こらないけど、まあ一応」とのんびりしている。青年団の会議の議題は今年の祭りについてである。昨年の土砂災害で亡くなった人があり、例年通り行うか自粛するかが問題になっている。

 地元の青年のなかにひとり、「東京から出戻り」(当日リーフレットのキャスト表より)の万里がいる。彼は昨年の土砂災害によって両親と家を失った。彼自身は東京で働いていたのだが、震災が起こってのち帰郷した。これまで青年団の会議でもほとんど発言せず、ずっと地元にいた青年たちともなかなか溶け込めない万里が意を決したように立ちあがる。メンバーたちはそれぞれ台風とは無関係に気になることがあって早く会議を切り上げたいのだが、万里の発言によって会議は紛糾し、問題が思わぬところへ発展してしまう。
 『十二人の怒れる男たち』を想起させる作りであるが、人物ひとりひとりのキャラクターの描き分けや設定がありきたりなパターンになっていない。万里は「災害対策をもっと真剣に行おう」と訴えるのだが、そのなかに今回の震災をめぐるさまざまな問題があぶり出されてくる。特に万里がなぜ東京を離れたかを話す場面では、「よくぞ言ってくれた」という思いと同時に、直接被災していない場所に暮らす居心地の悪さ、うしろめたさを突かれて、ざらついた思いがした。
 中津留は震災について本気で考え悩み抜き、この作品を書き上げたのだろう。どうしても書きたい、書かずにはいられなかった。その強い思いが情緒におぼれず、ドキュメンタリー的な作品の場合、往々にして情報が盛り込まれ過ぎて、人物の台詞が情報、劇作家の(あるいは取材した人の)意見のように聞こえてしまう傾向があるが、血肉をもつ者として俳優ひとりひとりがしっかり存在しており、その人が発する言葉として客席に伝わってきた。

 それでも作りの粗いところもあって、登場人物のひとりが「看護婦」と書かれているが、これは「看護師」ではないのかとか、その看護婦が怪我人に対して落ち着いた気丈な態度で接しているものの脈をとる様子もなく、怪我人の状況について専門職らしい台詞があまりないことが気になった。また怪我人は重篤にみえたが、救急ヘリに乗ってきたドクター(登場しない)によれば「命に別条はない」ということで、何よりなのだがこの台詞はあっさりしすぎではないか。停電のさなか、メンバーのひとりが「お茶入れてくるね」と奥の部屋に姿を消す場面にも違和感があった。お湯はどうしたのか、暗い中ではお茶を入れるにも不自由だろうに等々、話の本筋に影響はないとはいえ、力強い作品に小さなほころびがあることは惜しい。また後半から物語の流れがいささか冗長になったことも残念だ。

 とはいったものの、かりにもっと時間があって練り上げたとしたら、本作がいま放っているエネルギーが損なわれるのではないかと思う。これからのち、震災をめぐる舞台が作られていくだろう。取り上げ方も直接間接さまざまで、現実に起こった大災害に対して演劇が何をなし得るかが問われる。多くの演劇人が問いを与えられ、その答を模索しているだろう。『黄色い叫び』はこれから生まれる多くの舞台の先陣を切った。心に強く覚えておきたい。

 

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