因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座有志による自主企画公演 第十三回「久保田万太郎の世界」

2016-08-29 | 舞台

*久保田万太郎作 黒木仁演出 こりっちのサイトはこちら 文学座モリヤビル 9月2日で終了
 当日リーフレット掲載の黒木仁の挨拶文によれば、このシリーズがはじまったのは、2003(平成15)年1月、文学座モリヤ稽古場での勉強会、演目は『十三夜』と『蛍』。や、因幡屋これは見ましたぞ。ということも以前に書きましたぞ。道路に雪の残る寒い夜であった。

『蛍』・・・幕が上がると、泣いている女と、それを左右から心配げに見つめる男女がいる。始まったとたんに泣いているというところがこの劇のひとつのポイントだ。泣くほどの話をすでにしている。どんな話だ、この三人はどういった間柄か。観客を疑問の渦のなかに敢えて投げ入れる序幕である。榮吉(吉野正弘)ととき(山本郁子)夫婦の家へ、よし子(鬼頭典子)が亭主の浮気に耐えかねて駆け込んできた。よし子の亭主重一と榮吉夫婦とは、今は亡き親方による深いかかわりがあるだけでなく、ときと重一は元は夫婦の間柄であった等などが、結構説明台詞的ではあるが、明かされていく。重一に意見してやろうと、榮吉は腰を上げ、泣き顔のよし子に身支度をさせていっしょに出て行く。留守居になったときのもとに、酒に酔った重一(中村彰男)がやってきて・・・。
 一筋縄ではいかない複雑な人物相関図である。むろん浮気をする亭主はよくないけれども、それにはわけがあった。男がひとりの女を好きになる。まちがいを冒してその女と別れた。ちがう女と一緒になったが、心が定まらない。元の女も別に所帯を持ったから、よりを戻すことはできない。男は元の女に似た、また女のところにひとときの慰めを求める。今の女房がいやなわけではない。どうしようもないのである。
 終盤で、榮吉が外出のために着物を着換えるところ。たしか13年前、この役を演じたのは、昨年秋亡くなった戸井田稔ではなかったか。鏡を見ながらではなく、慣れた自然な手つきですいすいと帯を腰に巻く。脱ぎ着を手伝う妻のとき(このときも山本郁子であった)の所作も丁寧で美しい。

『めの惣』・・・これは泉鏡花の名作『婦系図』全6幕13場のうち、第5幕を久保田万太郎が脚色・演出したもの。今回の黒木仁とともに、戌井市郎の名も演出として記されている。こうして過去記事を見てみると、いくらは観劇してはいるものの(1,2,3,4,5,6)、『婦系図』についてはまことに不勉強で、今回も人物相関図や物語の流れにとまどいながらの観劇となった。
 人物の関係や背景、過去の出来事などを台詞のやりとりから何とか掴みとろうとしたが、結局はよくわからなかったが、江戸言葉の響き、日本髪を結い、着物を着たしぐさを堪能した。と、そこへ可愛い女学生がお蔦の見舞いにやってくる。姐さん芸者の小芳(吉野由志子)を「おばさん、おばさん」と呼び、何かと言うとはにかんで「決まりが悪いわ」とうつむく。とても初々しいのだが、台詞のトーンというか、口跡というのか、ほかの大人の人物たちとあまりに響きがちがうことに困惑した。この役の台詞の言い方はこれでよいのだろうか。演出によるものなのか。

 女生徒の髪を丁寧に梳いてやる小芳の表情はまことに複雑だ。やがえ電話をしてくるといってうちから出て行くと、小芳は耐えかねたように泣きだす。「あの子はわたしが産んだんだよ」。や、おばさん、おばさん、待って下さい。話についていけない。事情を聞いたお蔦とともに、「わたしたちって、因果だねえ」とよよと泣き崩れる様相は、まさにザ・新派の趣。

 戸惑いもあったが、やはり久保田万太郎の作品をみるのは、大変な至福のとき。ぜひ次世代の俳優さんに継承し、これからもわたしたちにこの世界を味わわせてください。

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MSPインディーズ・シェイクスピアキャラバン 第1回公演 セミリーディング『クレオパトラ』

2016-08-27 | 舞台

*ウィリアム・シェイクスピア原作『アントニーとクレオパトラ』 島村抱月脚色『クレオパトラ』 公式ツイッターはこちら 早稲田どらま館 28日で終了
MSPとは、明治大学シェイクスピアプロジェクト1) のこと。今年で13回目を迎える大学を挙げてのシェイクスピア作品上演プロジェクトを指す。そしてMSPインディーズ・シェイクスピアキャラバンは、「明治大学シェイクスピアプロジェクト出身者によるシェイクスピアともっともっと遊びたいキャラバン隊」の略称である。
 明治大学のシェイクスピアプロジェクト出身者の卒業生も現役生も集まれ。もっともっとシェイクスピアでたくさん遊ぼう、少々羽目を外しても、責 任は潤色監修の井上優(明治大学)准教授が取ります!ということなのかな。
 作り手の顔ぶれには、大学卒業後も劇作家、演出家、俳優として活躍する方々が多 く、それがこの秋に予定されているMSP第13回公演『Midsummer Nightmare』(『夏の夜の夢』と『二人の貴公子』の連続上演とのこと)に参加する現役の大学生といっしょにひとつの舞台を作り上げるというのは、 大変な労苦と同時に喜びがあったことと思う。

 大正時代、島村抱月が松井須磨子のために上演した『クレオパトラ』を、抱月への敬意を込めた『大正浪漫編』と、抱月への挑戦状と銘打たれた『平成妄想編』が交互上演される。同じ戯曲が座組みによってどう変わるのかが大きな見どころだ。さらにもうひとつは、「セミリーディング」という形式である。俳優が台本を持って戯曲を読むことを通して、本格的な上演とは異なる戯曲そのもの魅力を伝えたり、逆にリーディング形式を逆手に取って、本格上演よりも濃厚に演出家の意図を反映させたりなどなど、功罪ある形式である。それに「セミ」が加わるとどうなるのか。

【大正浪漫編】新井ひかる(空かると)演出
 登場人物は羽織袴の書生や女学生、学ランの学生、着物にフリルのついた白エプロンの女中たちと、まさに大正ロマンの趣向で繰り広げられる。立派なソファと椅子がいくつか、奥にはガラス障子の舞台美術など、セミリーディングとは言え、まことに凝った作りである。そこまで作り込んだ舞台で、俳優たちはわりあい律儀に台本を読む。基本的な「リーディング」の形式を踏まえつつ、学生の格好をした3人の若い軍人たちが、「俺にもよこせよ」といった感じで1冊の台本を取りあいながら読んだり、複数の役を兼ねて演じる俳優が多いため、若干わかりにくくなるところはあるが、「抱月への敬意を込めて!」のサブタイトルには、並々ならぬ挑戦の心意気が込められている。

 占い師や奴隷などを兼ねる串尾一輝(青年団)が、終盤では黒いスーツでシーザーを演じる。アントニーの自死に、取り乱した心を懸命に抑えて誇り高く対応しようとするクレオパトラに、冷徹なビジネスマンのように接する。クレオパトラも後を追ったあと、客席中央通路にアントニーが登場してト書きを読みはじめる。愛し抜いたクレオパトラの亡きがらを抱きしめるように。しかしシーザーが何の感情もなくそれを遮ってト書きを奪う。幕を引くのは自分だ。勝ったのはシーザーだと宣言するように。

【平成妄想編】川名幸宏再脚色・演出
 俳優たちがラフなスタイルで三々五々稽古場を訪れ、ストレッチなどをはじめる。公演を控えた稽古場で、立ち稽古の様子を舞台にのせるという趣向である。はじまる前に川名幸宏が中央に立ち、今回の舞台作りや演出意図などの解説をして、開幕だ。
 はじめて観劇したMSPの舞台は、川名の演出による『冬物語』であった。また川名が作・演出をつとめた劇団→ヤコウバス(2015年12月をもって活動休止)の舞台(1)も、さまざまに思い出しながらの今回の観劇となった。とくに後者の舞台を観劇した際と同じことを、今回も感じた。開幕前に観客へ解説することである。結論から言うと、なくてもよい。リーディングについてどう思ったか、何を考えて「3日目の立ち稽古の様子」という舞台を作ろうとしたかなどは、舞台そのものから感じとりたい。『平成妄想編』はそれが可能な舞台である。

川名のブログには、稽古中の模索の様子や、本番中に起こったアクシデント(こんなことが起こるのですね!)を乗り切ったことなどが率直に綴られ、川名の戯曲の読み込み方や 演出プランの構築が緻密で丁寧であること、俳優を尊重し、何が起ころうと乗り切る強さを持っていることが伝わってくる。だからこそ「本編」から思い切り走りだす舞台を、ぜひ見たいのである。

 これは2本どちらにも感じたことだが、登場人物が激して叫ぶように台詞を言いあう場面、とくにクレオパトラ役の女優さんの元気が良すぎ、聞きつづけることが辛かった。現代の俳優が現代劇として演じているにしても、エジプト王国の女王なのであるから、たとえアントニーへの愛のあまり取り乱した場面であっても、もう少し抑制した口調で聴きたいのである。たとえジャージの稽古着すがたでも、いやそうだからこそ、衣裳やかつらなど「モノ」に頼らずに女王の風格を見せることは可能ではないだろうか。

 お小言のようになってしまったので、嬉しかったことを記す。『平成妄想編』では、使者の最後の台詞が終わって、演出家が「はい」と合図をする。その直後、使者役の丸山港都が「ふう」とひと息ついて素にもどったとき の空気の変容にぐっと心を掴まれた。舞台と客席がともに過ごした時間が終わったという安堵と淋しさが一気に押し寄せる切ない瞬間である。

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ハイリンドvol.17 『窓』

2016-08-26 | 舞台

*早船聡作・演出 公式サイトはこちら SPACE梟門 31日まで(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16
 本公演の当日リーフレットに今回の作・演出の早船聡が、「ハイリンドの特徴は何と言っても役者集団で作家演出家がいないということです」とあるのを読むと、なるほどその通りだと改めて納得するのである。その一方で、いわゆる座付き劇作家を擁する劇団、とくに小劇場の場合は演出を兼ねる場合が多いこともあり、「こいつと運命を共にする」といった強烈なカラーと結束力がある。ハイリンドの場合、なおさら「これがうちの劇団のウリだ」と打ち出すことがむずかしく、俳優だけでコミュニティを継続していくのはさまざまな困難があると思われる。しかし逆に考えれば、自分たちで好きなホンを選び、気持ちの通じあう演出家に依頼すればよいのだから、自由度が高いというメリットもあるだろう。実際はこのような単純なものではないだろうが、劇作家と演出家への信頼と尊敬を持ち、公演ごとに新しい挑戦をするハイリンドは、意外なようだが「今回が初の書き下ろし」とのこと。

 つまり別の劇団、座組みですでに上演されている作品は何らかの評価を得ており、それも参考にしながら自分たちのオリジナリティを反映することができる。しかし自分たちがその戯曲をはじめてこの世にお披露目するとなったら、その責任たるや、大変なものではなかろうか。むろん信頼する劇作家が、自分たちだけのために新しい戯曲を書いてくれるのは大変な名誉であり、なかなか実現するものではないだろう。早船聡はハイリンドの面々とは同世代、劇団の旗揚げも同じ2005年である。自分の劇団であるサスペンデッズとの合同公演『グロリア』はじめ、『ロゼット~春を待つ草~』など、気心の知れた間柄と言えよう。早船が公演チラシに「これまでの10年とこれからの10年のために芝居をやろうじゃないか」と記したことばは、客席の自分にとっても感慨深い。

 都内のスポーツ用品店。以前は1階が店舗で、2階が事務所だったが、少子化のあおりを受けて事業を縮小したらしく、店舗は閉鎖し、倉庫状態のようだ。社長の高原裕則(工藤潤矢)と、副社長である妻の美千代(勝平ともこ)は仲むつまじいが子どもはいない。社員はあと経理担当の史子(枝元萌)のみ。事情があって広告代理店を辞めた美千代の弟・久坂剛士が臨時で働いている。スペース梟門のステージにはごくシンプルに2階事務所が作られている。デスクと椅子、パソコンなどがあるが、実際の職場がこれだけのものであるはずはないから、リアルな現代を設定しつつも、思い切って無駄なものは削ぎ落し、人間と人間が生むドラマを全面に押し出す物語と予想した。

 登場人物は、前述の4人に加えて史子の妹の佳恵(高安智実)の合わせて5人である。たった5人なのに次から次にこれでもかと問題や事件が起こり、それが同じ場だけで展開するために(一場だけ病院の場があったか)余計にぎゅうぎゅうの印象を受けた。人の生きる世はそれだけ濃厚であり、不幸せのように見えて、すぐとなりには幸せが隠れていたり、複雑で微妙である。また親子、きょうだいのあいだの深刻な傷つけあいは現実にいくらもあり、劇の題材としてことさら珍しいものではないが、ずっとハイテンションでコメディタッチの本作が不意に暗い影を落とす場に、胸が迫った。

  劇団への書き下ろし、つまり出演俳優への当て書きの旨みを堪能した舞台だったが、ハイリンドの面々が、戯曲の役柄に自分の身の丈を持っていく様相を見たいと欲が出る。たとえば久保田万太郎の『暮れがた』である。数年前文学座有志による自主公演で、たしか赤司まり子さんが演じた店の女将が、酒を遠慮するわけありの若い者を少し強い口調で「苦労は苦労、お酒はお酒ですよ」とたしなめ、ゆったりとしたしぐさで酒を進める。枝元萌さん、やってみてくださらぬか。

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studio salt 「『7』-2016ver.-僕らの7日目は、毎日やってくる-」

2016-08-22 | 日記

*椎名泉水作・演出 公式サイトはこちら 神奈川県青少年センター多目的プラザ 21日で終了

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 2007年初夏に初演された『7』(6,6`)は、捕獲した野良犬や、飼えなくなったと持ち込まれた犬を、新しい飼い主に巡り会えるまで保護し、自治体の規定である7日目が来たら殺処分を行う施設で働く男たちの日常を描いた作品である。同劇団の代表作であり、自分にとっても特別な思い入れがある。その作品がマグカル劇場「青少年のための芝居塾公演」(公式サイト「マグカル」)として上演されることになった。これは「青少年のための芝居塾公演」(神奈川演劇連盟・神奈川県立青少年センター)が主催するもので、今年の「担当劇団」として神奈川県演劇連盟のスタジオソルトが選ばれた。プロの劇団、演出家や俳優とともに、演劇経験の浅い、あるいはまったく演劇経験のない若い受講生が4カ月に渡って稽古を行い、衣裳や大道具作りはじめ、演劇公演に至るプロセスをともに味わうというもの。出演者は総勢26名+生きた亀1匹である。

 受け手にとっても、単に『7』が再演されるのではなく、大勢の若い人たちが加わった舞台を想像するのはむずかしいことであった。『7』は上記施設の休憩室が舞台になっており、そこでの日常がきっちりと描かれたリアリズムの芝居である。犬は出てこない。もしかして人間が犬になるのかな・・・と想像したとき、楽しみというよりも、何か情緒過多にベタついたものになるのではと懸念した。

 結果的に懸念はすべて杞憂であり、9年前の初演された舞台の核を失うことなく、懐かしさとともに、新鮮な発見や驚きのある舞台に出会うことができた。芝居塾の塾生たちが犬役を演じるのは予想通りであったが、それだけではなく、若手の職員や飼い犬を持ち込んだり、見学に訪れる側にも配役されており、新しく加わった役柄も実に自然で、劇世界に膨らみを生んでいる。

 痛感したのは、本作はまだまだ大いに変容する可能性を秘めているということである。たとえば今回は主に収容された犬に芝居塾の俳優が配された。ここに40代、50代あるいはもっと高齢の方々に加わっていただくこともできるのではないか。冒頭では新参で泣いてばかりいたモモが、日毎に強くなり、ボスになっていく過程をもっと描くこともできる。ただし、それもたった7日間だけなのだから、モモの悲哀はいっそう際立つわけで、むずかしい点ではある。見学者は犬を「可愛い」と言い、7日目が来た犬に対しても「がんばれ!」と明るく励ます。しかし殺されることがわかっている7日目の犬は「いやだ、助けて!」と泣き叫ぶ。絶望的なコミュニケーションの不成立があるわけで、このあたりもまだ書きこむ余地があると思われる。

 餌を入れる容器や椅子、モップなどでリズムを刻みながら『7』の劇世界を構築した点がおもしろい。音楽・演奏指導は栗木健。

 今回の公演には「ペットのいのちも輝く神奈川県」のミニパンフが折り込まれている。平成27年度、神奈川県動物保護センターに収容された犬と猫の殺処分は、昨年度に続いてゼロになったとのこと(神奈川県HP)。つまり舞台で描かれる状況はもう現実には行われていないということなのだ。動物たちの殺処分ゼロを達成した神奈川県は、人間と動物が良きパートナーとして生涯を幸せに暮らすことを目指して新しい動物保護センターの設立を呼びかけている。

 物語後半、職員のひとりが可愛がっている亀がいなくなる。それがみつかったらしいところで幕を閉じ、初演では柔らかな音楽でカーテンコールになったと記憶する。それが今回は大勢に出演者がステージ前面に降り、音を鳴らす俳優、それに合わせて大きく手を振り、足踏みをする俳優が無言で客席を見据えるものであった。「僕らの7日目は、毎日やってくる」この劇のサブタイトルに込められた意味が、にわかに重々しく迫ってくる。飼い主に巡り合えず、殺処分される犬は毎日いる。その作業を行う職員にとっても逃げようのない現実だ。「僕ら」は人間でもあり、犬でもあるのだ。その事実を冷厳に突きつけるかのように。

 今回はひとつの作品、ひとつの劇団に対する観客としてのあり方を振りかえる機会となった。『7』を愛する気持ち、スタジオソルトを応援する気持ちは変わらない。しかしそれは頑ななものではなく、変化を楽しみ、ともに喜ぶものでありたい。劇団のブログには、本公演を終えた安堵と準備期間を振りかえり、「打ち上げではじめて泣いた」との記述あり、ほんとうに言葉にし尽くせない苦労があったこと、しかしそれを上回る手ごたえと喜びがあったことがわかる。批評だの論考だのといったアタマの部分を振りはらって、客席からもおめでとう、ありがとうと心から伝えたい。

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CROQUIS(クロッキー) vol.0『余炎』

2016-08-21 | 舞台

柳井祥緒十七戦地 1作、後藤彩乃演劇集団円演出 公式サイトはこちら 20日、21日 台東区根岸・子規庵
 「クロッキー」とは、短時間で描く写生のこと。では「デッサン」や「スケッチ」とはどうちがうのか?ネットでこのような解説を見つけた。「クロッキー」は、人物や動物など動きのあるものを素早く簡潔に線のみで描写することを指すとのこと。演劇ユニットCROQUIS(クロッキー)は、「その名の通り、短時間で、人間のすがたを描写することをめざす、演劇ユニットです。息づかいが伝わる小さな空間で、会話劇を中心とした短編戯曲を上演していきます」(公式サイトより)とのこと。演劇集団円研究所出身の俳優・牧野希世を中心に、演出家、共演者とも円研究所出身者による座組みである。

 終戦直後の福岡県横泉水町の小さな庵で、俳句とそれに関わった人々の愛憎を巡る40分の会話劇である。牧野のブログ「まきのきよのひびつれづれ」に「杉田久女(Wikipedia)がモデルになっている」と記されており、ゆかりの人々の名からも「あの人のことだ」と即座に想像できる俳人もあり、物語と知っていても生々しくスリリング。

 俳句の女王と讃えられながら、師匠である高野蒼穹(高浜虚子のことか)に疎まれ、句集の出版を阻まれて結社からも追放された伊坂なみ女(千葉沙織)は、蒼穹に手紙を出し、結社復帰を願い出ていた。返信がないことで俳句の道を諦め、句稿を寺に奉納する準備をしている。そこへ句妹(くまい、と読む。俳句における後輩、妹弟子のこと)の橋本凪子(平田舞)が訪れる。終戦直後の郵便事情のためだろう、師は返信を出したのだが、なみ女のもとには届いていなかった。凪子は復帰を許す師のことばを直接伝えに来たのである。動揺するなみ女を同居人の四方津ヨネ(牧野希世)は叱咤し、凪子に強い警戒と嫉妬を露わにする。俳句とそれに関わる人びとの濃厚な情念の物語である。

 はじめて足を運んだ根岸の子規庵は、JR鴬谷駅から徒歩7分程度、古い家々のなかにラブホテルの混じる不思議な町並みのなかにある。狭い玄関を入り、二間の座敷の左側が客席、右側が演技スペースだ。キャンセル待ちのお客さんの座席を演技スペースぎりぎりまでこしらえ、ぎっしり満員だ。
 俳句の聖地とも言える場所で、俳句にまつわる演劇を上演する。題材にぴったりの場所であると同時に、場所の持つ力があまりに強烈な場合、フィクションである芝居、演じる俳優がうまく溶け込めないこともあるわけで、観劇前に若干の懸念があったが、座敷に身を置くうち、自然に『余炎』の世界を見つめることができた。
 子規の命日9月19日の糸瓜忌を翌月に控えた子規庵での上演が叶ったことはもちろん大変な幸運だ。子規庵で俳句にまつわる演劇を見るという、めったにない体験ができたこともありがたい。しかしたとえば上野のギャラリーしあん、目白の古民家ゆうどなどもよいだろう。その一方で、このきっちりと構築された会話劇を音だけで聴いてみたくなった。つまりラジオドラマや朗読劇の可能性もあると思われるのである。

 なみ女を「お姉さま」と慕う凪子だが、師匠の温情を頑なに拒むなみ女に対し、なみ女の句に大変な酷評をはじめるあたりから劇の空気が変容する。ヨネは俳句を嗜まない立場からなみ女に同情し、凪子や蒼穹をはじめとする俳人たちへ、激しい嫌悪と怒りを示す。3人の女性たちの論争は、「俳句」を媒介とした愛憎劇であり、単なる尊敬や友情を越えた、いささか危ない同性愛的な感情のねじれまでも見せはじめる。

 それにしても、なみ女と凪子が互いの句を批評、批判することばの激しいこと、鋭いこと。句会でこんな言い方をされたら大半の人は恐れをなし、二度とやってこないだろう。だがここに俳句に人生を捧げた人ならではの強い精神、腹の据わり方が伝わる。言う方はただ罵倒するのではなく、もっといい言葉の選択、措辞にたどりつけるよう責任を持って導き、言われた方も納得できれば素直に受け入れる。俳句はひとりで作るのではない。多くの句友に出会い、句会に出席して成長していく様相をまざまざと見せつけられた。なみ女が句の情景、そのときの感情について凪子を導く場面は、単に句作の指導を越えた温かで優しい人間どうしの交わりが感じられる。
 だがその一方で師匠の蒼穹の痛いところを突く句を出したりなど、俳句は、いや女は怖い怖い。

 1日3回上演を2日間、いずれも満席で、キャンセル待ちの盛況だったとのこと。子規庵は演劇上演の場としては作り手、受け手にとって勝手の良くない面はたしかにあるだろうが、町並みを楽しみ、場の雰囲気を味わいながら、濃厚な会話劇を体験できる貴重な公演であった。今回が演劇ユニットCROQUISのvol.0公演だ。戯曲や上演会場の選択、芝居作りの過程を想像するに、柔軟な感覚で直感的に選ぶことと(ここがまさにクロッキーの手法)、それをじっくりと考察し、根気よく作りあげる両面を併せ持ったユニットではないだろうか。早くも次回が楽しみだ。

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