因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

川和孝企画公演+シアターχ提携公演 第45回名作劇場 

2017-11-30 | 舞台

*日本近・現代秀作短編劇一〇〇本シリーズ 公式サイトはこちら1,2,3)川和孝演出。オフィス樹主催 両国シアターχ 12月2日で終了
 優れた戯曲、上演の機会が少ない戯曲を取り上げ、100本の上演を目指して1994年秋からはじまったこのシリーズも、今回で92本まで到達した。チラシ裏にびっしりと記載されたこれまでの上演記録に圧倒される。

秋元松代『ことづけ』
 
1949年「現代戯曲」に掲載され、翌1950年に劇団文化座が初演した。敗戦から数年のころ、ある地方の農家・南俊平のうちに素人の集団強盗が押し入り、犯人のうち津田という若者だけが逮捕された。ある晩、その津田の母親ふさが農家を訪れ、息子のしたことをひたすらに詫び、罪滅ぼしにこの家で只働きしたいと言い出す。俊平は怒り狂い、南家の息子と娘は驚きながらも父をなだめ、ふさの話を聞こうとする。
 
本作の肝は、ただ怒る一方だった俊平が、ふさの戦中戦後の転落のありさまを聞くうちに、呆れ返ったり叱咤したり、わが身を振り返ってしんみりしたり、やがて同情と共感にいたり、題名である「ことづけ」に結びつくまでの台詞の応酬である。
 
戦争による国策に翻弄され、さんざんな目に逢ったふさを、「そのときどうして〇〇しなかったんだ?!」と叱りつける俊平はまことに筋道が通っており、戦時中の特殊状況による不運はあったにせよ、ふさのあまりのお人好しぶりはほとんど笑うしかない。

 敗戦の傷がまだ癒えないなか、加害者(の母)と被害者という敵対関係にあるものが、次第に近づき、手を取り合い、お互いへの思いやりを示す様相は気持ちのよいものであり、戦争で失ったものはたくさんあるが、それでも無くならないのは人の心であり、そこからこそ立ち上がり、歩き出す力、希望であることを、説教調にならず見せてくれる。
 
復員兵である息子は、母の面会を拒絶しているという。敗戦が彼の心に残したであろう傷や、母親の苦悩など、戦争の影を示しつつも、やがて息子の心が解けて母と和解する日がどうか訪れてほしいと願わずにはいられなくなる。60分の小品がたちまちのうちに見る者の心を捉え、劇世界に強く引き寄せるのである。

*山本雪夫『喜寿万歳』
 
この世には、いわゆる女好き、助平と呼ばれる男がいる。それとは別に「もてる」男もおり、この両者は必ずしも一致しない。女と見ればなりふりかまわず追いかけてくどくのが前者、後者は文字通り女に好かれ、女から追いかけられる男である。本作に登場する平太郎は、どうしようもない女好きだが、同時に女から「もてる」という稀有な特質を持つ男であるらしい。
 
どこかの地方の町の芝居小屋の裏側を舞台に、平太郎と、憎まれ口を叩きながら彼にぞっこん惚れている賄いのおせきを中心に繰り広げられる一種のバックステージものである。
 
平太郎は女にたいそうもてるのだが、同じくらい女に騙され翻弄され、しかし一向に懲りない。戦争中に懇ろにしていた三味線の師匠と再会し、平太郎の子を産んだと聞かされる後半から、金目当てで平太郎に近づいた若い歌手の情人のバンドマンがもしや…と期待させるが、そこまであざとい展開にはならず。喜寿を迎えてますます懲りない平太郎と、「この助平爺、さっさと死ね」と泣き叫びながら彼から離れようとしないおせきはまさに腐れ縁。しんみりさせると思わせて、最後までドタバタで賑やかに幕を閉じる。

 2本とも喜劇調であるためか、客席や終演後のロビーの空気はなごやかで柔らかであった。どちらも戦争というものが色濃く反映された作品であるがゆえに、演劇が人を励まし、慰めるものであることを実感できた一夜であった。

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シアタートラム『管理人』

2017-11-29 | 舞台

*ハロルド・ピンター作 徐賀世子翻訳 森新太郎演出 公式サイトはこちら シアタートラム 12月17日まで 12月26,27日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール
 2017年最後の月にピンターの『管理人』である。劇場に入るや、舞台のあまりの汚さに圧倒される。ベッドが2台、暖炉、椅子、トランク、そして崩れ落ちんばかりに積み上げられた古紙(新聞紙か)の山、あとは何が何か判別できないほどのがらくたの山なのである。天井も破れかけて、雨漏り用のバケツが吊り下げられている。床は八百屋になっているのだろう、舞台手前から次第に狭く見える作りになっており、ますます閉塞感が募る(香坂奈奈・舞台美術)。森新太郎のピンターは、開幕前から大変な気合いで観客へ戦いを挑むかのよう。

 出演者の意気込みも並々ならぬものがあるのだろう。劇場サイトのインタヴュー動画や、情報サイト、せたがやアーツプレス掲載のインタヴューにおいても熱く語っている。そして自分はまたぞろ喜志哲雄著『劇作家ハロルド・ピンター』を開くのであった。

 気になったのは、若い出演者が本作を「不条理劇」だと言っている点である。さまざまな演劇に接し、人間の現実との虚実、舞台において、何がリアルであるのかなどを考えたうえで、「やはりピンターは不条理劇だ」と着地したのならよいのだが、自分がかつてそうであったように、「ピンターは不条理劇」というあまりに大雑把なくくり、難解であること、これまで見てきた既成の演劇と同じような受け止め方がしにくいことをひとまず「不条理」とまとめてあることを、「そういうものなのだ」と思っているのであれば、とても残念なことではないか。

 自分が喜志哲雄本に頼りすぎていると思ったこともある。一読してすっきり頭に入る論ばかりではない。何度読み返しても、自分が観劇したとき、あるいは戯曲を読んだときの感覚と考え合わせるのに非常に苦心するときもある。これはこれでひとつの考え方であり、「ピンターは不条理劇」であることを、きちんと読み解く思想があれば、それを知ったうえで自分の捉え方を考えるべきであろう。

 なのでピンター劇に出演する幸運を得た俳優さんには、ノーベル賞受賞作家であるとか、不条理劇という既成概念にとらわれず、「不条理とされている劇世界の条理」に向かって正面からぶつかり、とにかく誠実に挑戦してほしいと思う。出演者の1人は、「(不条理劇は)理解しにくく、回収されないまま進んでいく。そういうものだからこそリアリティがある。世の中には不条理なことはいっぱいある。だからこそ舞台でも回収されずに考えさせるものがあってもいいというのが不条理劇だと思う」とも語っており、観劇前の期待がいよいよ高まったのである。

 休憩なしおよそ2時間10分の『管理人』は、前述の舞台美術はじめ繊細で緻密な音響や照明、出演者の健闘もあり、手ごたえのある舞台であった。ただ人物の造形として、別の方法もあったのではないかと思われるところもある。兄のアストンは歩幅の狭い小走りの奇妙な歩き方をする。なので登場してすぐの段階で、彼がいささか心を病んでいるらしきことが示される。一方で弟のミックは自信満々に振る舞い、言葉も行動も暴力的である。この人物の声の大きさ、台詞の勢い、速さはこれが適切なのだろうか。

 兄は偶然入った食堂で、馘になったデーヴィスをうちに招き、この家の管理人にならないかという。優しい兄に対して、弟は前述のようにデーヴィスを激しく攻め立てる。しかし彼もまたデーヴィスに管理人の仕事を持ちかける。兄弟が舞台に揃う場面は非常に少なく、彼らの言動はちぐはぐである。デーヴィスは兄弟に翻弄されつつ、次第に図太くなっていく。この3人の力関係の変容を見せるには、今回とは違う演技も「あり」ではないだろうか。兄は弟をどう思っているのか、彼らはほんとうのところはどうしたいのか。デーヴィスは「シッドカップへ行けば」と言いながらアクションを起こさない。彼はどこへ着地しようとしているのか。
 これらの答がほしいのではなく、彼らの心象、背景などを想像すること、ひとつの台詞の裏側の意味や、(間)が及ぼすものをもっと考え、迷いたいのである。

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ビニヰルテアタア第10回公『楽屋 流れ去るものはやがてなつかしき』

2017-11-25 | 舞台

*清水邦夫作 鳥山昌克演出 公式サイトはこちら 自由学園明日館大教室としま、雑司ヶ谷・みみずく会館、愛知県・田原市権現の森 明治の商家、新潟県・新潟古町えんとつシアターを巡演 12月3日まで
 前座朗読劇として、演出の鳥山が「女優 松井須磨子のこと」を読む。

『楽屋』本作は日本での上演が非常に多い戯曲とのこと。自分自身もこの3月に花村雅子主宰の第三回えうれか公演を観劇し、その印象を基に「えびす組劇場見聞録」55号に「観客A~女優たちの「楽屋につながるもの~」を記した。演出家、座組によって戯曲は違う顔を見せる。と同時に、矛盾しているようだが、どのように料理しても根底に潜むものは変わらず、だからこそ作り手は倦むことなく『楽屋』に挑み、観客もまた故きを温ねて新しきを知るごとく、さまざまな『楽屋』への出会いを求めて劇場へ足を運ぶのである。

 ビニヰルテアタアが気になっていたのは、このユニットの主宰の千絵ノムラが元唐組の俳優であったこと、昨年の初演、今年の再演ともに『楽屋』の演出を担ったのが、同じく元・唐組の中心的俳優であった鳥山昌克であることであった。さらに言えば、同ユニットの副主宰の目黒杏理は、かつて新宿梁山泊の俳優であり、奇しくもかつて唐十郎の下で修業を積んだ俳優たちが、それぞれの道を進み、また集まって新しい舞台を創造していることに心惹かれたのである。

 初演は予約に出遅れて残念ながら観劇がかなわなかった。今年の再演は見逃すまいと、駅からの道を迷い迷いして、雑司ヶ谷・みみずく会館にたどり着いたのだった。今回の配役は、戦前生きていた女優Aを沖中咲子、戦後の女優Bを主宰の千絵ノムラ、『かもめ』のニーナを演じる女優Cを近藤結宥花、病気の若手女優Dを大鶴美仁音と、奇しくも唐十郎ゆかりの女優そろい踏みの趣となった。

  ここは法明寺の集会室なのだろうか。決して広くはないが、ゆったりした玄関や大きな下駄箱など、訪れる者をふんわり包み込むような雰囲気がある。劇場とされている部屋は天井が低く、あまり広くはないが、最前列は背もたれの無い階段状の席に座布団が置かれ、椅子も大きめで楽に掛けられる。舞台には劇場の楽屋らしく衣裳や化粧道具などが置かれ、正面の大きな窓はカーテンもせず、表の風景が見え、日差しがそのまま入ってくる。考えてみると、こういう状況での観劇は非常に珍しいのではないか。それも本作は「なにか腐ったようなよどんだ空気が溜まっている」楽屋が舞台である。

  ビニヰルテアタアの『楽屋』の印象は、みみずく会館の雰囲気そのままに、温かで明るいものであった。これが夜の公演であればおそらくがらりと変わったものになるであろうし、昨年見逃した初演の『楽屋』は、浅草橋のルーサイトギャラリーで上演され、隅田川の夜景を借りつつも、電車の走行音が容赦ないなか、どのような舞台だったのか想像ができない。自分は初冬の昼下がり、静かな境内のなかで出会えたことを嬉しく思っている。

  当日リーフレットには、本作の上演を四十年前からたびたび見てきたという作家の天童荒太の「そのテーマが『時間』かもしれないと実感したのは、昨年の鳥山昌克演出の同作にふれたときだ」とのコメントが寄せられている。それは登場する4人の女優を演じる女優たちがこれまでに生きてきた時間、観客の目の前に存在する、まさに今このときを見せていることを指すのだろう。

 開幕すると、女優のひとりが懐中時計を手に持って登場し、最後に別の女優がそれを手にしたところで終わる。彼女たちと客席の自分とは、20171125日の2時間足らずを共有したに過ぎない。しかし彼女たちの夜は終わることなく、またいつかどこかで再会することを繰り返すのだ。

 このつぎ出会う『楽屋』は、たとえ座組が違っていても、これまで見てきたいくつかの『楽屋』の続きでもあり、その前の物語でもある・・・そんな説明しがたい妄想にかられながら、雑司ヶ谷の町をあとにした。馥郁たる幸福な時間であった。

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劇団フライングステージ ドラマリーディング『二人でお茶を TEA FOR TWO』&『陽気な幽霊 GAY SPIRIT』

2017-11-11 | 舞台

*関根信一作・演出 公式サイトはこちら 下北沢/OFFOFFシアター 12日で終了
 第43回公演『LIFE,LIVE ライフ、ライブ』上演中、過去の代表作ふたつのリーディング公演が行われた。過去、現在そして未来のフライングステージを考える上で、非常に嬉しい観劇となった。

『二人でお茶を TEA FOR TWO』
 当日リーフレットによれば、1998年に関根信一がA.G.S(現・札幌座)に客演し、稽古のため1カ月札幌に逗留したホテルがこの作品のモデルとのこと。

 酔った勢いで一夜をともにしてしまったふたりのゲイが、1年に一度ずつの逢瀬を重ねることになり、その四半世紀の歩みを数年ごとに描いていく。バーナード・スレイドの戯曲で、加藤健一と高畑淳子共演の名舞台『セイムタイムネクストイヤー』の設定を借り、人物をゲイに、時代を日本のゲイシーンにとって大きな変化のあった1980年から2005年に置き換えた「リスペクト&オマージュ作品」である。

 2005年に初演、翌年札幌公演を行い、2008年1月再演された。この再演の舞台を見ることができ、そのときの劇評がこちらである。若書き(若くないか)と申しますか、ぎこちなく肩に力の入った文章で大変お恥ずかしいのですが、これも観客の歩みとしてご笑覧くだされば幸甚です。

 予備校の数学教師である亮平を阪上善樹(最初の年齢は25歳)、大学生の健人を関根信一(同20歳)にはじまり、最後は亮平は50歳、健人は45歳になる。本式の上演の場合、登場人物はもうひとり、場面ごとにホテルのおばちゃんが部屋を片付け、客席に「〇〇年」のカードを見せ、これからはじまる場面を示す役割を果たす。2008年台詞のないこの役を演じた石関準がト書きを語り、3人が椅子に掛けたまま台本を読むという、非常にシンプルなリーディングとなった。

 ほぼ10年ぶりの『二人でお茶を』は、懐かしくも新鮮であり、より味わい深いものであった。実を言うと、自分は「リスペクト」と「オマージュ」ということばが大変苦手である。感情を抑制し、整ったことばでその感覚を記す自信がないので、これ以上は述べないが、本作からそういった印象はまったく湧かなかった。『セイムタイムネクストイヤー』の素晴らしさが改めて感じられるとともに、本作には関根信一の確固たる信念と独自性があり、本歌に凭れぬ堂々たる「本歌取り」と言えよう。

 『陽気な幽霊 GAY SPIRIT』
 ノエル・カワードの同名の作品からタイトルを取ったもの。1996年の初演は、今回と同じ下北沢/OFFOFFシアターで、その後大塚のジェルスホールでの再演で池袋演劇祭に参加、大賞を受賞した。ゲイコミュニティのなかの劇団が、「ふつうの」劇団として世の中に出て行くきっかけになった作品とのこと。自分は今回が初見となった。

 自分がゲイであることに気づいた19歳の柾(石関準)が、はじめてゲイパレードを見に行った日、母親に自分のセクシュアリティを告白しようとためらう彼の耳に、突然聞こえてきた声が。これがゲイの幽霊「れいちゃん」(関根)で、彼はことあるごとに柾の前に現れ、あれこれと世話を焼いては疎まれたり、頼られたりする。基本的に柾にだけすがたが見える設定だが、多少の例外もあり、それが物語を混乱させたり、まとめたりもする。終盤の映画『ゴースト~ニューヨークの幻』を彷彿させる場面には、思わず胸が詰まった。

 ト書きは前半を中嶌聡が担当し、柾が心を寄せる優しいゲイ・田代役の出番がはじまる後半から、高木充子に交替する。高木も「おこげ」の女子大生役があって、なかなか忙しい。俳優は台本を手に持っているが、椅子には掛けず、本式の上演と同じように、出番に応じて出捌けする。後半では本格的女装のゲイバーのママ(岸本啓孝)や、ドラアグクィーン(モイラ)も登場する豪華リーディングで、これまで見てきた同劇団の舞台よりも長めの1時間55分を飽きさせない。

 劇団のメールマガジン「FS通信」において関根信一は、「(本作は)セリフが長くて説明が多い。当時はていねいに書かなくてはいけない、間違って受け取られたくないという心配だった」と記している。演劇が観客に見せるものである以上、正しく受け取られねばならないという懸念は作り手を悩ますものであろう。しかしぎりぎりまで言葉を選び、表現を吟味した結果、観客がどう受け取るかは神のみぞ知る領域になり、仮に大きく誤解されたとしても、それをも受容のひとつのかたちであると思えれば、作り手と受け手がより柔軟に舞台を通して交わることができると思う。
 関根は「間違って伝わるなら、それはそれでおもしろいと思えるようになった」とのこと。旗揚げから四半世紀、作品は間口が広がり、しかしそこに入ると思いのほか深いところまで見るものを連れて行く。

『陽気な幽霊』初演から20年あまり、『二人でお茶を』からも12年が経ち、さまざまな媒体においてLGBTということばをよく見聞きするようになった。渋谷区と世田谷区に次いで、三重県伊賀市、兵庫県宝塚市、沖縄県那覇市、今年6月には北海道札幌市でも同性パートナーシップ申請がはじまった。学校や企業、自治体においても、多様なセクシュアリティに対応すべく、試行錯誤が始まっている。世の中は確実に変化しているのだ。

 ではこのリーディング2作がもはや古い作品かというと、そのような印象はまったく感じられず、また「昔はこんなことがあった」という懐古でもなく、極めて普遍的な内容を持つことが改めてわかる。それはセクシュアリティは人間1人ひとりの問題であり、気づいたときの衝撃や困惑、家族や友だちへのカミングアウトのむずかしさ、周囲の無理解や不寛容は依然として存在することの証左でもある。

「まさか自分の身に(あるいは親しい人)そのようなことがあるとは!」という気持ちが正直なところで、いくらテレビなどでよく聞いていても、自分自身の問題として「降ってくる」ことを想像するのはむずかしい。

 劇団が産声をあげた1992年、自分にとってセクシャルマイノリティというのは、あるところにはあるのだろうが、どこか遠くに存在する、完全な「よそ事」であった。しかし2005年夏、はじめてフライングステージの舞台に出会って以来、この認識は次第に変容していき、もっと広く人間や社会、生きるということを考えるきっかけとなった。予想もしなかったことであり、このような幸運が「降ってくる」ことこそ、演劇を見る楽しみであり、生きる志につながっていくのである。

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第14回MSP(明治大学シェイクスピアプロジェクト)『トロイア戦争-トロイラスとクレシダ-』

2017-11-11 | 舞台

*公式サイトはこちら 原作・ウィリアム・シェイクスピア 翻訳・コラプターズ(学生翻訳チーム) プロデューサー・川島梨奈(文学部2年) 演出 新井遥奈(情報コミュニケーション学部3年)監修・青木豪 コーディネーター・井上優 サブコーディネーター・大林のり子(1,2)明治大学駿河台キャンパス/アカデミーホール 12日で終了

 本公演に対する自分の思い入れは昨年と変わらずどころか、いっそう強まってしまい、したがって本稿は舞台そのものについてはほとんど言及しておりません。どうかご容赦ください。

 昨年同様、演出もプロデューサーいずれも女子学生であることに、昔の卒業生はいまだに驚きを隠せない。もっとも本プロジェクトは、キャスト、楽器隊、スタッフ合わせて126名で、その男女比は男子29名、女子97名と女子の割合が圧倒的に高い。となると男女に関わらずやれるものがリーダーを務めねば先へ進めない。彼女たちはなるべくしてリーダーになったと考えてよいだろう。裏方においても各部署のチーフが必ずしも最高学年ではないのも特徴だ。学生同士、わずか数年のちがいと言うなかれ。たった1年でも先輩は先輩、後輩は後輩だ…というのももはや古い感覚かと思われるほど、本プロジェクトは各部門いずれも男女や学年にこだわらない自由な印象がある。

 キャストに関しては、男性の人物の幾人かを女子学生が演じている。みな非常に力強く、かといって作りすぎや類型にも陥らず、楽しんでいる様子がうかがえるが、やはり願わくば男子学生に演じてほしいとの思いもあり、これは失敗すれば噴飯ものだが、男子が女性の役を演じるところもあってよいのかとも思う。いやあくまで自分の妄想だが。

 あるコミュニティの研修会において、今の中高校生や大学生について、「外国人と思って接すること。海外に行く際、その国のことばや習慣を学習するように、彼らが日常で使う言葉をまず知るべし」と言われ、現代若者用語をいくつも教えられたことがある。

 スマホをからだの一部のように自在に用い、SNSを使いこなす一方で、彼らには実際に顔を突き合わせてのやりとりは苦手、というより生身のコミュニケーションを取ろうという感覚がないという。自分の興味があるものには熱中するが、そのほかのものには関心を示さない。そういうものが「存在する」ことすら意識にないから、彼らが社会の中心になるころに老年となるわれわれ中高年は、「DELETされるでしょうね」というのが、学内外でよく聞く声である。これが当世若者気質というものだとすると、まことに寒々しい。

 しかしながら受付にはじまり、客席への誘導、トイレの案内は礼儀正しく行き届いており、カーテンコールが終わるや、1階ロビーに集まり、エスカレータで降りる観客に向かって来場のお礼を口々に言うキャストの様子を見ていると、今の学生たちも捨てたものではない。それどころか自分たちよりもずっと熱いものを持ち、一生懸命なすがたが眩しいほどだ。わたしはこちらも確かに彼らの顔であり、そこに希望を見出したいのである。

  本作はハッピーエンドの大団円ではない。やりきれず、後味がよいとは言えない作品である。しかしそういう作品に正面からぶつかった経験は、きっと彼らの人生の糧になるのではないか。劇中の人々ほどではないにしても、矛盾や理不尽、避けようのない不運や不幸は絶えず人を襲い、打ちのめす。そんなときに、400年前に書かれた物語がなぜ人口に膾炙し、世界で上演され続けているのか、そして若い日にその物語を自分たちで作り上げたときに感じたことを思い出してほしい。

  MSP公演は客席の雰囲気がとても優しく温かい。学生のご父兄が多く来場され、回数を重ねているだけに、卒業生や関係者のリピーターも訪れ、安定感がある。5回の公演がほぼ満席で、4000名の来客があるのだから、学内のイベントとしては相当規模であり、十分な結果を毎年出し続けていると言ってよいだろう。

 折しも昨年の第13回公演を中心としたドキュメント本、『明治大学シェイクスピアプロジェクト!熱闘!Midsummer Nightmare』が刊行された。公演に先立って本屋B&Bで行われた出版記念イベントでは、第12回から監修を務める劇作家・演出家の青木豪、第8回から11回まで監修を務めた劇作家・演出家の横内謙介が語り合った。聞き手は本プロジェクト・コーディネーターの井上優明治大学准教授。MSPの今後について、青木豪が「世間的にもっと知られて、演劇界全体にまでMSPを観に行こうというムーブメントを起こせるといいのでは?」と語ったとのこと(公演パンフレットより)。「現役の大学生がこんなにがんばっています」以上のクオリティがあるのは確かだ。そこをどうすれば演劇界全体に向かって発信できるものになるか。

 アマチュアであって、あまたのプロが活躍する演劇界に打って出ること。それがどういうことか。これまでのMSPの蓄積をどうしたら活かせるか、何が強味で、足らないものは何か。打って出ることがすべてにおいて必ずしもメリットばかりではなく、そうするがために失うもの、捨てざるを得ないものもあるだろう。

 いまのままで十分素晴らしい。けれどもっと!という欲もある。複雑な思いを抱きつつ、舞台そのものに対してきちんと考え、書くことがわたくし自身の第一の課題であることを心に覚えるのであった。

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