因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

鳥公園#3『カンロ』

2013-10-30 | 舞台

*西尾佳織作・演出 劇団サイトはこちら 三鷹市芸術劇場文化センター星のホール 11月2日まで Mitaka“ Next” Selection 14th参加作品
 公演タイトルは『カンロ』あるいは『甘露』となっており、「報われる気配がない」ということばが添えられている。
 9月に東京芸術劇場シアターイーストで行われた芸劇eyes番外編・第2弾『God save the Queen』をみたのが鳥公園との出会いである。このときは何しろはじめて知る女性劇作家ばかり5人の作品がつぎつぎ上演され、魅了されるというより茫然としたといったほうがよかった。それくらい彼女たちの感覚は自分が探しているもの、求めているものとは距離があり、どこがどうであったとか、何をどうすればといった前向きなことは考えつかなかった。しかし単なる好みの問題と片づけるのはくやしく、彼女たちの次の作品に出会うとき、今夜の印象をどう活かすか、逆にどう活かさないかが切り口となるだろう・・・とあっというまにそのなかのお一人の次回作がやってきたというわけなのだ。

 後づけのようになるが、芸劇でみた5つの舞台のなかで、西尾佳織作・演出の鳥公園『蒸発』を、わりあいおもしろくみたのである。広い舞台空間の左右、上下の使い方が一風変わっている。あれは二階の窓いうことなのか、物干し台のような高いところから女が双眼鏡で、どこかに住む若い男の自慰行為を観察しているのだ。階下らしきスペースにはもう一人女がおり、観察している女の実況を聞きながら鶏のもも肉を食べている。男の行為はにわとり相手になり・・・という話であったろうかと記憶する。
 ほかの作品が台詞を発することと同じくらい、あるいはそれ以上に身体を活発に使う作劇をしており、それを魅力や新鮮味よりも、対話の欠如、物語性の否定という印象で受けとったため、比較的「動きが少なく」、「人物の対話がある」鳥公演の舞台が心に残ったのだと思われる。

 さて今回の『甘露』であるが、まず星のホールの使い方としてはやはり独特というか、よくこのような舞台美術を考えたなとびっくりした。天井の高さ、舞台の奥行き、床下まで自由自在というか、もう好きなだけといった感じである。
 しかしながらそこで展開する65分の物語(といってよいのか)は、その空間をどう使おうとしたのか、いまひとつはっきりしないものであった。
 同窓会で久しぶりにクラスメイトに再会した。決して仲がよかったというわけではない相手との微妙な気まずさ、ずっと名前の読み方を間違っていたり、結婚式に呼ばれた呼ばれなかったなど、いわゆるガールズトークよりもう一歩意地悪いところがあったり、いじめというほどではないけれども限りなくいじめに近いふるまいなど、微苦笑をさそうやりとりが非常に巧く、この女子たちはこれからどう動くのかと興味を惹かれた。

 女子たちにはそれぞれ恋人や夫や父親がいて、彼らとのかかわりも同時進行的に描かれる。それは決してリアルなものではなく、人物1と人物2の会話に人物3が加わったのかと思えば、2と3の会話は別空間や別の時間であるらしかったり、夫が妻以外の女性と会っているときの会話を妄想したりなど、一筋縄ではいかない描写が示される。

 ひとつの場面のやりとりがそのままつぎのやりとりにつながらないなど、こちらの思惑とはどんどん異なる方向に進んでいくので、この様相に自分をどう乗せればよいのか迷いながらの観劇となり、そうこうするうちに終わってしまった。あれあれここでこう終わるのか。

 公演チラシや当日リーフレットに書かれた西尾佳織の文章はとても興味深い。ストーカー的に誰かを好きな女の人の話。その恋はまったく報われておらず、そもそも相手が実在するのかも怪しく、彼女のなかで独自の深化をとげて不思議な塩梅で彼女を支えている・・・という作品の構想は、もう読んだだけでぞくぞくする。
 また今年の初夏ヨーロッパに行き、チェコの共産主義博物館、ドイツの強制収容所、ユダヤ人博物館、セルビアの戦争博物館で、「私はこういったことに不慣れだ」と感じたこと、つまり人間が人間を嫌う、いじめる、殺すということに慣れていない。それはすなわち両親をはじめとする大人たちが自分をそこから遠ざけるようにしてくれたからだと思ったことなど。
 さらに不登校の高校生と接する仕事をするうち、彼らの弱々しさに驚きながらも「私とこの子たちはそう変わらない」と思うことなど。

 これらを読んで自分が想像したものと、実際の舞台はあまりに雰囲気が異なり、理解や把握の困難なものであった。人は心に受けたこと、残ったことを表現するとき、こちらが思いもよらない手法や趣向になることはあるから、そんなに驚いたり落胆することはなかろうかと思う。
 しかしながら何本も作品をみれば鳥公園に近づけるとも思われず、途方にくれる晩秋の日なのであった。

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劇団印象『値札のない戦争』

2013-10-28 | 舞台

*鈴木アツト作・演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 28日で終了 (1,2,3,4 5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17) 第20回BeSeTo演劇祭 BeSeTo+参加作品として、B・ブレヒト作 山縣美札振付・演出の『残跡/ユダヤ人種の妻』と交互上演された。
 鈴木アツトが作・演出をつとめる劇団印象の舞台をみるようになって、もう6年が過ぎた。SF風のファンタジックな設定が多く、明るくコミカルな表現で進行する物語は、客席を笑いで包みながら深く静かな結末へ導く。胸が痛むときもあれば、背筋が寒くなるときもある。『父産』(とうさん)、『枕闇』(まくらやみ)など、独特のタイトルに込められた劇作家の思いを受けとめられたときの喜びは大きい。劇作家の誠実で素直な作風もさることながら、それを見守る温かな客席の雰囲気はとても好ましいもので、自分も遅ればせながらそこに加われたことを幸せに思っている。

 鈴木は2010年より韓国の演劇人との国際共同制作を開始した。韓国人女優ベク・ソヌを客演に迎えた『匂衣』(におい)の舞台成果はすばらしいもので、まさに新境地を開いたといえよう。その後も劇団内の活動におさまらず、韓国の劇作家の戯曲の演出、リーディング公演の演出など、活動が多方面に広がっている。
 今回はBeSeTo+参加作品ということもあり、「韓国の俳優と共演する」ことに留まらない作品を目指したとのことだ。タイトルもこれまでとはまったく異なるものであり、呉致雲との共同演出など、並々ならぬ気合いが感じられる。

 これまではタイニイアリスでみることが多かったが、今回のこまばアゴラ劇場は天井も両そでもゆったりしている。
 客席ぎりぎり前まで出てきて壁に耳を押しつけている男女。隣室の痴話げんかに聞き入っているのだ。男性(泉正太郎)は月の国(たぶん日本を指す)の人、女性(ベク・ソヌ)は星の国(こちらは韓国を指す)の人で、隣室からの会話は女性の国のことばで行われており、すさまじい罵詈雑言を通訳しながら楽しんでいるのである。ふたりはほんとうに客席に入りそうなほどの位置におり、すがたがみえず実際の声も聞こえない隣室のカップルの様子も伝わってきて、この幕あけには大いに惹きつけられた。
 男性はヌード専門のカメラマン、女性もカメラマンだが戦場を仕事場としてきた。4年前に戦争がおわってからは目下失業中の身である。

 と、このように多くの試みに挑戦したと思われる『値札のない戦争』を身を乗り出してみはじめたのだが、途中から急に集中できなくなった。必死でふり払おうとしてもそのたびに眠気に襲われる。体調はいつもと変わりなく、ことさら睡眠不足で疲れていたわけではない。目の前の舞台を受けとることができなかったのだ。
 鈴木アツト作品においてこのようなことははじめてであり、正直なところ非常に困惑し、動揺した。劇作家のご厚意によって上演台本を読ませていただいて、まずはそれを一読した。

 おもしろい。会話のテンポもよく、どんどん読める。力作である。見落とした場面のやりとりの内容も理解し、その読後感をもって再度観劇する機会が与えられた。よし今度こそ。

 ところが、またしても眠気に襲われたのである。どうしてだろう?

 戯曲は非常にシンプルなものだ。ト書きは人物の動きなど最低限のもので、演技や造形の指示は記されていない。ここで「共同演出」というものが具体的にどのように行われたのかが気になるのである。
 自分が集中できなくなったのは、2度ともほぼ同じ箇所からであった。男女ふたりのカメラマンのやりとりに続いて、彼のマネージャーがやってくる。つづいて核シェルターの営業をしに星の国の女性がずかずかと登場して・・・このあたりからなのである。
 要因のひとつはシェルター売人を演じる韓国の女優の台詞が聴きとりにくいことや、人物の造形がややけたたましい点である。しかし彼女が要因のすべてではなく、ぜんたいとして舞台のスピードやテンポやリズム(どんどんあいまいになる・・・)がぎくしゃくしているのである。

 若いカップルは月の国と星の国の男女である。その痴話げんかを戦争責任をめぐる日韓の問題にもってくるところなど、この物語がただごとではないことをごく日常的な問題から提示しており、舞台には早い段階から緊張が走る
 続いて戦場の兵士が登場し、写真が嘘をつくこと、写真には被写体と撮ろうとする相手との関係性が写るという写真の原理についてのやりとりもあって、さらに竹島を想起させる「雨の島」についてのあれこれもあり、提示される問題の数、内容、深さや複雑さなど、客席に投げかけられるものが非常に多い。客席の理解を導くには俳優の演技がまだこなれておらず、彼らが激しい感情をあらわにしても、どうにもついてゆけない。

 戯曲を目で読んで、頭で理解するには何とかだいじょうぶだ。しかし目の前の舞台をずっと集中してみるのは非常にむずかしいものがあった、ということなのだ。
 戯曲の台詞が俳優の声とからだになじみ、自分の役のことばとして発するには、もう少し時間が必要だったのではないか。その過程において削ぎおとすところ、強調するところの緩急がつかめれば、もっと伝わってくるものが生まれる。

 おそらく本作にはこれまでになく厳しい意見や評価があったことだろう。自分もここまで困惑したのははじめてだ。いつもなら終演後の挨拶まで観客は非常に好意的なまなざしで温かく見守るが、千秋楽では終演したとたんに席をたち、制作者が挨拶をしているのも構わず退出する方もあった。単に小劇場の様子をご存じなかっただけではなく、厳しい言い方になるがやはり今回の舞台に対する意志表明のひとつと思われる。作り手にとっては辛いふるまいであろうが、ここは辛抱して受けとめるほかはない。
 鈴木アツトの最新作『値札のない戦争』が意欲作であり、力作であることはまちがいなく、ここからさらなる飛躍を強く期待するものである。

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shelf volume16『nora(s)』

2013-10-27 | 舞台

*ヘンリック・イプセン原作 矢野靖人構成・演出 公式サイトはこちら アトリエ春風舎
 31日まで (1,2,3,4,5,6,7,8) 第20回BeSeTo演劇祭 BeSeTo+参加作品
 イプセンには何度も挑んでいるshelfだが、今回は初の国際共同制作として、韓国の俳優Cho Yu Mi(以下ユマ)を客演に招いた。タイトルの(s)が気になる。

 アトリエ春風舎の劇場入り口は、いかにも思うそうな引き戸になっている。開場が告げられて引き戸が開くと、ほかの劇場とはちがった感覚で場内にいざなわれる。外界とはあきらかに違う空間へ足を踏み込んだという気持ちになるのである。
 出演俳優はみな板についている。横たわって動かないもの、こちらに背を向けているもの、膝を抱えて座り、何か小声でつぶやいているもの。奥には男性らしい顔がぼうっと浮かんでみえる。舞台装置や道具のたぐいはいっさいない。ステージの暗闇はどこまでも深くなりそうで不安と期待が高まる。

 イプセンの『人形の家』がひとつのモチーフになってはいるが、この物語がそのまま上演されるのではない。タイトルの(s)が示すとおり、4人の女優それぞれがノラにもなり、ほかの人物にもなる。しかも役を演じ、ほかの役との台詞のやりとりによって物語が進むという形式をとらないものだ。4人の女優一人ひとりがノラであり、べつの人物でもある。ひとりの女性のなかに潜む「ノラ的な要素」をみせながら、まさにshelf独自の劇世界を構築せんとする試みだ。
(11/9主宰者よりご指摘あり、ノラを演じる3人の女優を4人に訂正いたしました。大変失礼いたしました)

 韓国人女優ユマはたたずまいも台詞の発語もすばらしく、自分は韓国語がわからないのだが目も耳も奪われそうになったくらいだ。ユマは韓国語で(おそらく)ノラの台詞をいう。
 その台詞は終幕、ノラがはじめて夫に議論を挑み、立ち去るまでの終幕の場面である。
 
 物語の最後からはじまる舞台、ふたりの女優の台詞は掛け合いというほどきっちりしたリズムはないが、おそらく試行錯誤をくりかえしたのちに、タイミングや強度などさまざまな要素が最善のものとつくりてが判断したものと思われる。日本語の台詞は自分がもっている原千代海のものよりはるかに古めかしい。日本語を発する川渕優子、韓国語のユマ。ふたりの距離はひとつの視界にいれるには微妙に離れているため、ふたりの表情を同時にみて声を聴くことはできなかった。
 もどかしさはあったが大きな妨げにはならず、ふたりのリズムにだんだん引き込まれていく。

 ほかにも春日茉衣、日ケ久保香、唯一の男性としてミウラケンが舞台に存在する。女性ふたりはノラの台詞を語りながら、ほかの人物の台詞も語る。それは川渕も同様で、とくに後半はノラの夫の台詞も発する。

 台詞を語る、発するというまわりくどい表現になるのは、今回の舞台が「俳優が役を演じる」という言い方が非常にしにくい印象があるためである。
 当日リーフレット掲載の矢野靖人の挨拶文には、「所謂一般的な『ドラマ』としての起承転結や序破急のある(そしてそれが台詞や対話で紡がれる)タイプの構成方法ではなく、ユニークで新しい物語形式を模索しています」とあり、この理念に基づいて作られた舞台であることはとてもよくわかった。

 今回の舞台に限らず、戯曲をはじめとする複数のテキスト(実はテキストということばに自分はまだなじめていない)を切断し、それらの断片を俳優の声と肉体を通して全く別物の、新しいshelfによる「物語」を再構成しようとしているわけだ。
 その「物語」は、おそらくつくりてのなかには堅固なものとして存在しているのだと察する。しかし客席において、それをしっかりと受けとめることができたかというと正直なところ心許ない印象であった。前半でいえば川渕優子が「サン・トワ・マミー」を歌うことや、春日茉衣が「今日はクリスマスなんだから」と喜びをあふれさせる台詞を大声で繰り返すことなど、「どこがどうつながるのか」「あまり深く考えなくていいのか」などと、つい考えてしまうのである。

 戯曲を解説するために舞台があるのではないから、これまで自分がみた『人形の家』(1)とはまったくべつの視点や切り口に出会えるのは嬉しいことだ。どう受けとめたかを表現する方法もさまざまであり、どうか自由に大胆に作ってほしい。矢野靖人の「劇空間構成力」はすばらしいものがあり、ほかに同じようなことができる演出家を自分は知らない。また川渕優子を筆頭に、矢野の理念をよく理解し、それを身体で表現することのできる俳優の存在も忘れてはならないだろう。

 これから『人形の家』の舞台をみるとき、それがどのような演出によるいかなるノラであるかはわからないが、たぶん自分は白い衣裳を着たふたりのノラたちの声や表情を思い出すだろう。ノラは目の前のひとりだけではないのである。

 

 

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鵺的第7回公演『この世の楽園』

2013-10-24 | 舞台

*高木登作・演出 公式サイトはこちら スペース雑遊 11月3日まで (1,2,3,4,5,6,7
 本作は2005年、高木登が当時在籍していた劇団の公演において『グランデリニア』のタイトルで初演された。したがって今回の『この世の楽園』は改題改訂の再演ということになる。
 筆者がはじめて高木登の作品を観劇したのは2009年夏、鵺的第1回公演『暗黒地帯』で、ベースとなった『グランデリニア』の舞台は未見、DVDにて視聴した。

 どこかの海辺の町。リゾートホテルのテラスに3組の男女が登場する。
 浮気をして家出した妻とその夫(渡辺詩子、成川知也)、彼の学生時代か仕事の先輩と思しき年上の夫婦(中田顕史郎、佐々木なふみ)、常軌を逸したDV男と卑屈なまでに服従する女の若いカップル(井上幸太郎、とみやまあゆみ)。そして配役表にはただ「青年」と書かれただけの男(酒巻誉洋)。
 夫は妻と別れたくない。ふたりだけでは「言った言わないになるから」と先輩夫婦に仲裁を頼み、住まいを離れたこのホテルに話し合いの場を設けたのだ。頼りにされた夫婦はいっけん仲むつまじく落ち着いた風情で登場するがたちまち諍いはじめ、人の仲裁どころかすっかり壊れ切った夫婦関係を露呈させる。

 開幕したばかりの公演である。ぎりぎりのところまでの記述となるが、物語は幕開けから男女3組の最悪最低の様相を容赦なく提示し、その様子をホテルのベランダからみていたという青年(酒巻)が女たちに、「あなたがたのだんなさんには何の価値もない。だから無きものにしてあげます。そのことを理解してほしい」と持ちかけて第二の展開をみせる。
 登場している人々はもちろん、ステージを三方向から囲む観客も否応なくこの流れに巻き込まれ、逃げ出すことも目をそらすこともできない80分である。

 巨大地震も津波も竜巻も怖い。不安定な雇用やさきゆきの暗い経済状況も不安を募らせる。けれどもっとも怖いのは、というより嫌で嫌でたまらないのは目の前にいるあの男だ。ふたりの関係はとうのむかしに破綻している。それにもかかわらず、別れられない。逃げることもできない。まさに地獄、悪夢である。
 お互いに最初は好きでいっしょになったのに暴言を吐いて手をあげ、しまいには無関心になる。男女の様相は決して特殊なものではない。どこにでもいくらでもとは言わないが、現実にある。どうしてこうなってしまうのか。個々の事情はさまざまあるが、結局彼らが生きた人間どうしだからではないだろうか。
 数日前のある新聞に、90歳の女性が20年以上も前になくなった6つ年下の優しい夫を変わらず慕っているという投書が掲載されていて、その純愛に胸が震えた。これほどの幸せは稀有であろうが、しかし夢物語ではなく現実にあることなのだ。それと同時に蛇蝎のごとく相手を嫌い、価値を否定しあう夫婦のすがたもまた現実である。
 愛しあうのも憎しみあうのも人間。ほんとうにやりきれない。

 2005年に『グランデリニア』として初演され、8年後のいま、改訂されて観客に提示された『この世の楽園』は、単純な表現をお許しいただければ、自分にとって「鵺的のもっとも好きな最新作」となった。
 過去に発表した作品を再びみつめなおし、練り上げ、問いかける。劇作家にとっては並々ならぬ思いと強い必然性があったと察する。自分は客席でそれをみるものとして、自分なりに劇作家の思いと必然性を共有できたのではないか。
 その手ごたえが、救いのない本作がもたらす光である。

 気になることもある。酒巻演じる青年は敏捷な動きをみせるが、たった一人で大の男3人をどうやって拉致したのか。事件は唐突に終わり、そのプロセスはほとんど語られないままなのもものたりない。さらに何かと話題にのぼった凶悪殺人犯の落としどころは何だろう?
 また男性が怒ったときに概して大声を出してどなり、罵詈雑言を浴びせるなどの造形である点だ。確かにすぐに怒って大声を出す男性は少なくない。しかし怒りや苛立ち、被害妄想や歪んだ求愛などを、もっと微妙で複雑な表現をみせることもあるのではないか。
 それに対して、今回暴力暴言でしかコミュニケーションのとれない男を恋人にしてしまった若い女性を演じたとみやまあゆみの造形は目を引くものであった。恋人のふるまいに耐えかねて、「彼が殺されでもしなかったら、別れられない」と、泣きながら「お願いします」と頭を下げ続ける。初演では泣き叫ぶような「お願いします」であったのが、とみやまあゆみは聞きとれないほどの声で、振り絞るようにくりかえした。またすべてが終わったあと、「すいませんでしたー」と言ってその場を立ち去る。あのひとことの台詞にはどのような演出がつけられたのだろうか。軽薄といってもよいほどのぞんざいな言い方であり、あんがいけろりとしたたかな感じもあって、どう表現してよいかわからない。こういうとき、人はこんな言い方をするものだという固定概念や思いこみをやんわりと退けるのである。

 季節はずれの台風が接近しており、それもふたつである。交通機関の乱れや客足への影響など、作り手にとっては非常に悩ましいであろう。俳優が激しい動きをする舞台だ。テーブルが壊れたり衣装が破れたりなどのアクシデント、俳優が心身を整え、テンションやモチベーションを高いレベルで保ち、毎日の本番にのぞむこともむずかしいと想像する。しかしそれらすべての妨げを乗り越え、走り抜く力が『この世の楽園』にはある。

 この記事では書き切れないところが多くあり、もっと落ち着いて書き記したい。

 さて因幡屋はこの日昼の回終演後のポストパフォーマンストークにお呼びいただきました。今回の観劇記事はトークの席で主宰の高木氏、司会進行の加瀬修一氏とお話した内容と重複するところも多々ありますが、ご寛恕くださいますよう。
 関係者のみなさま、終演後も劇場に残ってくださったお客さまにに心より御礼申し上げます。

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ハーフムーン・シアター・カンパニー ハロルド・ピンター連続上演NO.12

2013-10-17 | 舞台

*ハロルド・ピンター作 喜志哲雄翻訳 吉岩正晴演出 公式サイトはこちら 下北沢 シアター711 20日で終了(1
 ちょうど一年前、『誰もいない国』をみて以来のハーフムーンである。客席の年齢層は下北沢にしてはそうとうに高めで、業界の知り合い客が多いようである。
 今年はピンターの「レヴューのためのスケッチ」を中心に、前半を「政治の風景」として『神の管轄区域』、『丁度それだけ』、『新世界秩序』、『記者会見』、『山の言葉』、後半を「日常の風景」として、『そこがいけない』、『それだけのこと』、『夜』、『それはそれとして』、『雨傘』、『家族の声』をつづけて上演する。15分の休憩をはさんでたっぷり2時間20分だ。
 友人どうしのゆるやかな朗読会で読んだ『新世界秩序』や、クリニック・シアターで上演された『それだけのこと』『そこがいけない』を除けば、初見の演目ばかりである。
 客席には二つ折の立派な当日リーフレットが置かれているが、願わくは配役表もほしい。

 結論から言うと、観劇の印象は昨年とほとんど同じであった。ピンター作品には難儀をしたが閉口はしておらず、これからも機会があればぜひみたい。開演前のアナウンスの趣向もあいかわらずで、それに対して筆者が感じたこともそっくり同じである。
 これはどういうことになるのだろうか。

 ピンター作品の魅力は何か、戯曲の読みとり方、演じ方、受けとり方、作り手受けて双方に学習が必要であり、かといってこれが絶対的に正しい方法というものもないのではなかろうか。
 昨年に引きつづき、ハーフムーン・シアター・カンパニーの方法が正しいのかどうかの判断はできず、それどころかどうしても集中できない、つまり振り払っても振り払っても眠気に襲われてどうにもならなかった。まことに身も蓋もないはなしであるが。

 楽しみに劇場へ行ったのに眠ってしまう。これはなぜか。まずは寝不足や体調不良などおもに身体の理由がある。つぎに芝居がむずかしくて理解できなかったり、自分の求めていたものとちがったり、頭や心が芝居を受けつけることを拒んでしまうこともある。しかしながら決して体調がよくなかったり、困惑のし通しなのにずっと見つづけられることもあり、あいだでちょこちょこ寝落ちしたものの、トータルとしてじゅうぶんに楽しめることもある。

 今回の公演で言えば、前半の『山の言葉』には場面転換が明確で、登場人物の動きもたくさんあるのでわりあい刺激の強い演目だと言える。後半の『家族の声』は、3人の登場人物がずっと客席を向いたまま、独白をつづける形である。事前に戯曲を読んだなかではもっとも興味をもった作品であるが、これもまたみるほうとしては辛いものであった。
 登場人物が横並びして一度も視線を交わさない芝居として、まっさきに頭に浮かんだのが鵺的第5回公演『荒野1/7』である。現実にはおそらくテーブルを囲んでいるであろう7人のきょうだいたちが、全員正面を向いたままで進行する。特殊というか異様といってもいいくらいの様相であり、しかしこの形式にこめた作者の意図は、自分なりに受けとめることができた。

『家族の声』は、離れたところにいる母親と息子が相手に向かって話しながら、その声は相手には届いておらず、互いの溝が深まってゆくという悲しくも痛ましい物語である。
 物語の内容からして、母と息子が正面を向いたまま、客席に向かってずっと語りかける形式うはむしろ自然である。しかしみるほうの集中はどうしてもとぎれがちになり、とくに後半において音響効果かと思ったら観客のいびきだったという、俳優、客席どちらにも同情を禁じ得ないことも起こった。

 うまく言えないのだが、俳優がピンター作品を演じる上での演技の芯、肝、めりはり、緩急といったものがもう少しあればと思うのである。

 帰宅してまたピンターの戯曲集を読み直す。心に思い描いた舞台に出会えるのはいつの日だろうか。その日が訪れることを願いながら、またくりかえし読み、考える日々がはじまった。

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