いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

いつかも見た行き止まり

2011-07-14 03:42:28 | 似非哲学の部屋
倦んでいる。
たぶん僕は倦んでいる。
このままでも生きてはいける。
小さな幸せに囲まれ、時にちょっとした歓びに触れ、
仕事もそこそこ自由にやらせてもらい、
それでいておそらく、周囲の人よりちょっと幸せに生きていける。

だけど僕は倦んでいる。
同じような日々のくり返しに、
同じような言葉のくり返しに、
倦んでいる。

同じような迷いを抱え、同じような不満を抱き、
それでいつも同じような理屈に丸め込まれて生きていくことに。
もっともらしい後付けの、
人生とか大人とか社会とか常識とか。

同じようなくすぶりを抱え、同じような渇きを覚え、
そしてまた同じような感情にほだされて生きていくことに。
いかにもそれらしい、
義理とか理想とか仲間とか組織とか。

「どうせ」という言葉はキライだったのに、
いつのまにか僕の行く手は「どうせ」で埋まっている。
何歳までに何をしておかなければならないなんて、
そんなの狭いこの国だけの思い込みじゃないのか。
生きている限りは、変革を求めていいんじゃないのか。

同じ所をぐるぐると回り続けるのはキライだ。
変わり映えのしない風景を見ながら、
次の周回はもっといいタイムを、だなんて、ぞっとする。
死ぬまでそれをやるってのか。
まるでハムスターじゃないか。
僕がバカにしていた、それじゃないか。

僕は同じ所を、如何に早く廻るかというだけに、持てる能力を費やしてきたのだろうか。
告白してしまえば、その方がラクだった。
ライバルと思しき連中が、みんな常識と保身で思考停止している環境なんて楽勝だ。
ちょっと頭を使えばできることなんてたくさんある。
仕事は苦しい局面も含めて、楽しんでやるものだ。
それが感じられなくなったら、もう潮時じゃないのか。

僕はトップに立つためにここにいるワケじゃない。
僕は人件費の枠内に収まるためにここにいるわけでもない。
自分の納得できる仕事をして、周囲の人を感動させて、
他の誰にも代え難い評価を得るために、道を選び続けていたはずだ。
それが感じられなくなったら。

壁が見える。
ずっとずっと先まで見通せる一本道という壁。
足元だけを見て歩けばいい日々。
結局、僕は誰かの都合で生かされている。
抜け出したい、けど。

手放せない物ばかり。
いつかも見た行き止まり。
浮かび上がるタイトロープ。
ロープとは呼べない、細い細い1本の蜘蛛の糸。

渡るべきは、今か。
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