いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

無垢と無知の荒野

2018-09-16 23:46:48 | 超・いぶたろう日記
昔、割と親しかった友人が、
近日中の関東地方での大地震発生を警告しているのを目にする。
日付まで特定して、火山噴火の可能性まで示唆している。
しかし、その科学的根拠は「あるけど諸事情があって言えない」という。
…あー、よくあるヤツだ…ハマっちゃったか……。

詳しく聞いても要領を得ないのでよくわからないが、
オカルトなんかではないという。
まあ、オカルトの人はみんなそう言うのだが。
でも科学ではなく、
「実証的根拠となる原因」はある(???)そうだ。
いままでにも何度も「当事者」から聞いて、
事実だと「体感」したことがある話から、
全力をあげて「推測」しているのだそうだ。
…地震がいつどこで起きるかという話に
「当事者」なんてものが存在するのだろうか。

そして先日千葉で発生した地震はその前触れとなるもので、
それも予想が的中したものなんだそうだ。

…………うーむ。

「深い事情」を知らない人にはオカルトにしか映らないだろうけれど、
なんとか少しでもタイミングを当てて
身の回りの人が被害に合わなければいい、
と思って発信しているんだそうだ。

…………うううーむ。。。

すっかり、あっち側の世界へ行ってしまったようで、
こういう話は科学的根拠を示さないとダメだよ、
という僕の話にもまったく耳を貸さない。

「頭がおかしくなったと思われてもいい」
「友達がいなくなるリスクも承知の上でやっているんだ」
「私は理性的だ!」
カルト系の定型句が返ってくる。
「友達辞めてもらっても結構なんで」
これにはズーンと傷つけられた。そんなもんか…と。

本人は至って冷静なつもりで、かつ善意からくるだけに、余計に罪深い。
というか、本人は普通にイイヤツなのだ。
あんなイイヤツを巻き込んだ似非科学・陰謀論の連中が腹立たしくてならない。

つくづく、純粋さとか、人の良さとか、真面目さとかって、
こういうところでは諸刃の剣だなあと思う。
反知性の荒野における盲目の善意ほど危ういものはない。

地震予知とか民間療法とか霊感とか
オーガニックとかスピリチュアルとか陰謀論とか、実に厄介だよね。
大事な古い友人だったんだが、こういう「信仰」だと思って、
そっとしておくしかないんだろうかなぁ。

しかし、僕にも譲れない一線というものはある。
以下、この友人に限らず、
地震陰謀論ほかオカルト全般への僕の反感を記す。
アレルギーと言ってもいい。

まず大前提。
短期的に日時と場所を特定する地震予知は現在の科学では不可能。
科学とは論理性・客観性・実証性・再現性をもち、
充分なデータと考察に基づき、
公開の場で多くの反論に曝され、普遍性を具えていくもの。
これにあてはまらない一切の「地震予知」はオカルト。

科学的・知性的であるということは、
客観性・再現性・公開性・論理性があるということ。
それを伴わない一切の言説を僕は絶対に信じないし、
断固として許容しない。

個人的な感覚、主観・思い込みを元に地震を予知するのは勝手だが、
それは科学の領域外であることは明言すべき。
占い・宗教の範疇、つまり「信仰」ならばそれは個人の自由。
憲法でも保障された「信教の自由」だから、
好きにやればいいし、僕も放っておく。

「理由は言えない」「深い事情がある」などして、肝心の根拠をぼやかし、
思わせぶりな書き方で注目を集めるのは別の目的があるとしか思えない。
すなわち自分の「特殊・特別」な感覚や
人脈などをちらつかせたいという自己承認欲求。
まあ、だいたいはこれ。こじらせた中2病。

「科学的な根拠もある」または
「科学では説明できないこともある」という言い分も多いが、
たいがい不勉強で中途半端な知識しかなく、
そもそも「科学的」とか「知性的」であるということがどういうことで、
それがどれほど大事かということさえ解っていない。

科学というのはいちジャンルではない。
個々人がそれぞれに得た知見を、普遍の叡智として昇華する過程で、
徹底的にバイアスを取り作業だ。

地震予知に共通する特徴として、
「ハズれても都合よく言い逃れる」
「言っていたこととズレていても結果と強引にこじつける」ことがある。
日時も場所も規模も違っているのに、
「やはり当たった」
「今回はこの程度で済んでよかった」
「でもまだ油断は出来ない…」と続く。
「口にすると外れるので言っておきますね」なんてのもある。
なんじゃそりゃ。

1年間に数千回の地震が起きる日本で、
日時や場所や規模がズレてもいい地震の予言なんて、誰でも出来る。
自分の思い込みを正当化するために、
事実を都合よくこじつけたりねじ曲げて解釈することを
「追認バイアス」という。
これを客観的な検証で消していく作業をしていないのだから、
それはタダの信仰。

「少しでも可能性があれば事前に伝えることで被害を最小限に…」
なんておためごかしも定型文。
反知性の荒野における盲目の善意ほど危ういものはない。
日付はコロコロ変わり、場所もいくつも挙げ、
一体いつまで何にどう気をつけろというのか。
真に受けてると神経が参ってしまう。

日本で大地震は必ず起こる。何度でも起こる。
だからどの地域の人も油断せずに防災の備えをしておくことは大切。

ただ、いつどこでを精確に言い当てることなど誰にもできない。
多くの研究者の苦労や
これまでの地震学の知見の積み重ねを侮辱するような
エセ科学の跋扈は許しがたい。
僕自身は科学者でも何でもないが、科学者の知人は多くいるし、
学問への姿勢を大事にしている人の
誠実さ、謙虚さ、慎重さはよく知っている。
根拠となるデータの観測・蓄積・考察・検証と、
途方もない労力をかけていることも。
単なる思い込みで科学を騙る、
あるいはタダの不勉強なくせに科学を軽視する態度は、
そんな彼らへの侮辱に他ならない。
だから、うさんくさい言説に安易に乗っかって、
無邪気にデタラメを振りまく無知が到底許せない。

よくある、アタマが痛いだとか悪寒がするとか
古傷が痛むとか鬱入るとか、
個人的な心身の不調と、自然災害の発生を結びつける、
その安易さが僕には到底信じられない。
毎日のようにシンドイとかイヤな予感がとか言ってて、
日本中のどこかの小さな地震とか
遠い外国の地震とかと強引に結びつけて騒ぐ。
中2ですかと。そりゃあいつかは当たるよ。
てんでハズれてもスルーだしね。
だいたい、地震が来る「かも」なんてハズレに保険を打ったような予知、
何の意味があるのか。

地震予知が出来るのは詐欺師か占い師だけ。
科学の検証に堪えないものはすべてただの信仰。
個人的な信仰だと認めるならば好きに言えばいいが、
中途半端に科学を騙るのは詐欺行為。
科学を否定するのは「特別な自分」を認めて欲しいだけ。
村井俊治とか松原照子とかイルミナティとかHAARPとか、
大卒程度の知性があれば充分それと見抜けるファンタジー、
てかマンガだ。
オウムもそうだったけど、肥大化したコンプレックスの反動で、
自分だけの特殊な感覚とか眼力とかを信じたいタイプの人には、
こういうのす〜っと染みてっちゃうからなあ…。

いわゆるギョーカイ人に多いんだ。
「テレビがらみの仕事してると…」とかさも思わせぶりにね。
有名人や有力者とのコネクションをちらつかせつつ、
さも自分は特殊な業界の一員で、
普通の人には触れられない情報にも触れられる、
そんな優越感を味わうかのように、荒唐無稽な話をする。
こちらが「すごいね!」なんて期待される反応を示さないと、
不機嫌になる。
どころか科学的におかしいと否定すると、
「これだから何も知らない一般人は…」みたいな顔をする。
選民意識に包まれて、つくづく幸せな人たちだなと思う。
無知無学なくせに、いっぱしのギョーカイ人面して、
何でもかんでも深読み・裏読み・事情通ぶる癖がついてるから、
子供騙しのトンデモ陰謀論なんかに引っかかるんだよね。

で、この友人の話に戻る。
地震が起きるかどうかの話をしていたはずなのに、
気がつけば政治や経済や国際的な陰謀論の話になる。
最初に言っていたことがどんどん変わっていく。
矛盾を突かれると、
「そんなこと言ってない」と都合よく発言や記憶が上書きされる。
本当に気の毒なくらい蒙昧だ。
論理的に考えておかしいと思うことにおかしいと答えていたら、
自分への中傷だと思い込んだらしく、人間性を否定されまして(笑)、
一方的に絶交されてしまいましたとさ。
まあ、おかしい人におかしいと言われるのは、
僕の正常性の証明だからいいけどね。

まあ、経験則として
人は「図星・核心を衝かれるとキレて逃げる」からな。
今回もまた正解のスイッチ、バンバン押しちゃったんだろな…。

明らかにおかしいからおかしいと、本当のこと言ったら、
勝手に逆ギレされて、遠ざけられて、人間性まで否定される。
損な性分だよねー。
適当にかわせればいいんだけども。
お追従して表面的な関係だけを維持していくことに
僕はあまり価値を見出せないんだよね。
友達は数ではなく質。
またこういうこと言うから嫌われるんだけども。

しかし世の中、本当に病んでる人多いよなあ。
40過ぎると本当に多い。
病み方は様々だけど、若い頃はこんなこと想像もしなかった。
昔のままでいることって難しいことなんだなあ。
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