いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

出てこない

2010-09-25 20:24:55 | 新・いぶたろう日記
最近、出てこない。
カタカナ語が、出てこない。
ヤバイのである。
いわゆる、トシなのかもしれないのである。
それが本気で、出てこないのである。

モチベーション。
プライオリティ。
カタルシス。
ノスタルジー。

この辺が、最近すっと出てこなかった言葉たちだ。

「モチベーション」とか「プライオリティ」ってのは、
「やる気」とか「優先順位」とかに置き換えられるから、まだ、いい。
しかし「カタルシス」となると、直訳すると「浄化作用」なんてことになってしまい、
会話の途中で使うと何のことやらわからない。

「この映画はラストシーンで『浄化作用』があるよね」
「数学の面白さは難問が解けたときの『浄化作用』にある」

言いたいことは伝わらないでもないが、なんていうか、トイレの洗浄剤のようでもある。

あるいは「スっとした」と置き換えられなくもないが、
そうすると伝えたいニュアンスがちょっと異なる。
(この「ニュアンス」もつっかえたことがある)
やや、拙い感じがしてしまうのである。

「ノスタルジー」もそうだ。
「郷愁」となるとややカタイ感じがするし、
「懐かしいなーってカンジ」だと砕けすぎたカンジだ。

言葉のチョイスというのはホントにセンスが表れる。
同じ意味の言葉でも、どれを使うかというところで、
伝わり方に微妙な差異が生まれる。
それにどれほど気を配るかで、その人の人となりが表れるような気がするのである。

何も難しい言葉を並べて悦に入るのがイイというのではない。
そこら辺は受け取られ方が分かれるところだが、
言葉を知らないでいるよりは、たくさん知っていた方がいい。
難しい言葉をひけらかすかどうかではなく、表現の抽出の多さなのだ。
(たとえばこの「ひきだし」も抽出・引出・抽斗と表記が色々あるが、
僕にとっては「引く」と「抽く」とでは違う動詞、同音異義語なのだ。)

たくさん知っているけれど、相手によって伝わりやすい適切な表現を選ぶ。
何が適切かというのは難しいし、何も正しい文法や語法のみにこだわることもないが、
常に正攻法と新しい工夫とを織り交ぜた、
いわば料理人のような感覚で言葉を紡いだ方が、
本当にその人と通じ合える気がする。

どっちでもいいじゃん、そんな誰も知らない言葉なんてつかわねえよ、
そんな風に言葉をおざなりにしていると、人との関係もそうなっていくのではないか。
言葉は識らないと、使わないと死んでしまう。
こんな気持ちはどう表現したらいいんだろう、
自分のボキャブラリーではうまくいかない、
そんな風に思う機会の多い僕にとって、いまなお新しい言葉との出会いは刺激的で感動的だ。
まだまだ、知らない言葉が多くあると思うと、わくわくする。
その意味で、言葉のプロフェッショナルであるところの、親父との会話は得るものが多い。
これからはなるべく時間をとって、彼の話を聞いてみたいと思っている。

さておき。

こないだ授業中にひとつ、出てこなかった単語を紹介しよう。
正直こんな言葉すら出てこなかったのには軽くめまいすら覚えた。
小テスト開始前に、一人だけ問題用紙を表に向けて始めようとした子に、

「おまえ、それは…あれだよ、あれ…うーん…」

出てこない。
んー、出てこない。
なぜだ。

「おい、なんだっけ、あの、100メートル走とかでさ、スタート間違えるヤツ」
「フライング?」
「そう!それ!!!」

重症だ。
絶望的に重症だ。
死期が近いのかも。

しかも、俺ときたら、こんな言葉も出てこないクセに、
日常およそ使わないようなカタカナ語がぐるぐると頭を駆け巡り、
もどかしさに拍車をかけたのである。
そのとき頭に浮かんできたのが、これ。

「トラベリング」

バスケである。
ドリブルせずにボール持ったまま歩くととられるアレである。
反則である。

つかわねー。
中学以来20年ほどつかってねー。

まったく、人間の頭の中身ってどうなっているのだろうか。