最近、出てこない。
カタカナ語が、出てこない。
ヤバイのである。
いわゆる、トシなのかもしれないのである。
それが本気で、出てこないのである。
モチベーション。
プライオリティ。
カタルシス。
ノスタルジー。
この辺が、最近すっと出てこなかった言葉たちだ。
「モチベーション」とか「プライオリティ」ってのは、
「やる気」とか「優先順位」とかに置き換えられるから、まだ、いい。
しかし「カタルシス」となると、直訳すると「浄化作用」なんてことになってしまい、
会話の途中で使うと何のことやらわからない。
「この映画はラストシーンで『浄化作用』があるよね」
「数学の面白さは難問が解けたときの『浄化作用』にある」
言いたいことは伝わらないでもないが、なんていうか、トイレの洗浄剤のようでもある。
あるいは「スっとした」と置き換えられなくもないが、
そうすると伝えたいニュアンスがちょっと異なる。
(この「ニュアンス」もつっかえたことがある)
やや、拙い感じがしてしまうのである。
「ノスタルジー」もそうだ。
「郷愁」となるとややカタイ感じがするし、
「懐かしいなーってカンジ」だと砕けすぎたカンジだ。
言葉のチョイスというのはホントにセンスが表れる。
同じ意味の言葉でも、どれを使うかというところで、
伝わり方に微妙な差異が生まれる。
それにどれほど気を配るかで、その人の人となりが表れるような気がするのである。
何も難しい言葉を並べて悦に入るのがイイというのではない。
そこら辺は受け取られ方が分かれるところだが、
言葉を知らないでいるよりは、たくさん知っていた方がいい。
難しい言葉をひけらかすかどうかではなく、表現の抽出の多さなのだ。
(たとえばこの「ひきだし」も抽出・引出・抽斗と表記が色々あるが、
僕にとっては「引く」と「抽く」とでは違う動詞、同音異義語なのだ。)
たくさん知っているけれど、相手によって伝わりやすい適切な表現を選ぶ。
何が適切かというのは難しいし、何も正しい文法や語法のみにこだわることもないが、
常に正攻法と新しい工夫とを織り交ぜた、
いわば料理人のような感覚で言葉を紡いだ方が、
本当にその人と通じ合える気がする。
どっちでもいいじゃん、そんな誰も知らない言葉なんてつかわねえよ、
そんな風に言葉をおざなりにしていると、人との関係もそうなっていくのではないか。
言葉は識らないと、使わないと死んでしまう。
こんな気持ちはどう表現したらいいんだろう、
自分のボキャブラリーではうまくいかない、
そんな風に思う機会の多い僕にとって、いまなお新しい言葉との出会いは刺激的で感動的だ。
まだまだ、知らない言葉が多くあると思うと、わくわくする。
その意味で、言葉のプロフェッショナルであるところの、親父との会話は得るものが多い。
これからはなるべく時間をとって、彼の話を聞いてみたいと思っている。
さておき。
こないだ授業中にひとつ、出てこなかった単語を紹介しよう。
正直こんな言葉すら出てこなかったのには軽くめまいすら覚えた。
小テスト開始前に、一人だけ問題用紙を表に向けて始めようとした子に、
「おまえ、それは…あれだよ、あれ…うーん…」
出てこない。
んー、出てこない。
なぜだ。
「おい、なんだっけ、あの、100メートル走とかでさ、スタート間違えるヤツ」
「フライング?」
「そう!それ!!!」
重症だ。
絶望的に重症だ。
死期が近いのかも。
しかも、俺ときたら、こんな言葉も出てこないクセに、
日常およそ使わないようなカタカナ語がぐるぐると頭を駆け巡り、
もどかしさに拍車をかけたのである。
そのとき頭に浮かんできたのが、これ。
「トラベリング」
バスケである。
ドリブルせずにボール持ったまま歩くととられるアレである。
反則である。
つかわねー。
中学以来20年ほどつかってねー。
まったく、人間の頭の中身ってどうなっているのだろうか。
カタカナ語が、出てこない。
ヤバイのである。
いわゆる、トシなのかもしれないのである。
それが本気で、出てこないのである。
モチベーション。
プライオリティ。
カタルシス。
ノスタルジー。
この辺が、最近すっと出てこなかった言葉たちだ。
「モチベーション」とか「プライオリティ」ってのは、
「やる気」とか「優先順位」とかに置き換えられるから、まだ、いい。
しかし「カタルシス」となると、直訳すると「浄化作用」なんてことになってしまい、
会話の途中で使うと何のことやらわからない。
「この映画はラストシーンで『浄化作用』があるよね」
「数学の面白さは難問が解けたときの『浄化作用』にある」
言いたいことは伝わらないでもないが、なんていうか、トイレの洗浄剤のようでもある。
あるいは「スっとした」と置き換えられなくもないが、
そうすると伝えたいニュアンスがちょっと異なる。
(この「ニュアンス」もつっかえたことがある)
やや、拙い感じがしてしまうのである。
「ノスタルジー」もそうだ。
「郷愁」となるとややカタイ感じがするし、
「懐かしいなーってカンジ」だと砕けすぎたカンジだ。
言葉のチョイスというのはホントにセンスが表れる。
同じ意味の言葉でも、どれを使うかというところで、
伝わり方に微妙な差異が生まれる。
それにどれほど気を配るかで、その人の人となりが表れるような気がするのである。
何も難しい言葉を並べて悦に入るのがイイというのではない。
そこら辺は受け取られ方が分かれるところだが、
言葉を知らないでいるよりは、たくさん知っていた方がいい。
難しい言葉をひけらかすかどうかではなく、表現の抽出の多さなのだ。
(たとえばこの「ひきだし」も抽出・引出・抽斗と表記が色々あるが、
僕にとっては「引く」と「抽く」とでは違う動詞、同音異義語なのだ。)
たくさん知っているけれど、相手によって伝わりやすい適切な表現を選ぶ。
何が適切かというのは難しいし、何も正しい文法や語法のみにこだわることもないが、
常に正攻法と新しい工夫とを織り交ぜた、
いわば料理人のような感覚で言葉を紡いだ方が、
本当にその人と通じ合える気がする。
どっちでもいいじゃん、そんな誰も知らない言葉なんてつかわねえよ、
そんな風に言葉をおざなりにしていると、人との関係もそうなっていくのではないか。
言葉は識らないと、使わないと死んでしまう。
こんな気持ちはどう表現したらいいんだろう、
自分のボキャブラリーではうまくいかない、
そんな風に思う機会の多い僕にとって、いまなお新しい言葉との出会いは刺激的で感動的だ。
まだまだ、知らない言葉が多くあると思うと、わくわくする。
その意味で、言葉のプロフェッショナルであるところの、親父との会話は得るものが多い。
これからはなるべく時間をとって、彼の話を聞いてみたいと思っている。
さておき。
こないだ授業中にひとつ、出てこなかった単語を紹介しよう。
正直こんな言葉すら出てこなかったのには軽くめまいすら覚えた。
小テスト開始前に、一人だけ問題用紙を表に向けて始めようとした子に、
「おまえ、それは…あれだよ、あれ…うーん…」
出てこない。
んー、出てこない。
なぜだ。
「おい、なんだっけ、あの、100メートル走とかでさ、スタート間違えるヤツ」
「フライング?」
「そう!それ!!!」
重症だ。
絶望的に重症だ。
死期が近いのかも。
しかも、俺ときたら、こんな言葉も出てこないクセに、
日常およそ使わないようなカタカナ語がぐるぐると頭を駆け巡り、
もどかしさに拍車をかけたのである。
そのとき頭に浮かんできたのが、これ。
「トラベリング」
バスケである。
ドリブルせずにボール持ったまま歩くととられるアレである。
反則である。
つかわねー。
中学以来20年ほどつかってねー。
まったく、人間の頭の中身ってどうなっているのだろうか。