いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

俺にもやっと

2005-08-11 15:44:37 | Rebirth歴史資料館
夏休みが、来た。
志賀高原で4日から8日まで行われた合宿も無事終わり、
16日まで1週間の休みを得た。
バイトもバンドもなく、
1週間もの休みというのは10年ぶりくらいだろうか。
今のとこ極度に疲れていたので、
9,10日とそのほとんどを爆睡に充てて過ごしている。
「退散わんわん」以降、
余韻に浸るまもなく怒濤のようなスケジュールに見舞われ、
特に今年は塾の方で責任者的なポジションに着いてしまったため、
3週間休みナシ、しかも毎日3~4時間睡眠というジャパニーズビジネスマンな日々だった。
多眠主義の俺としては非常に厳しい毎日だったが、
それなりに充実感もあったかな。

バンドから塾というのは全くの畑違いのようでいて、実は共通点が多いのだ。
バンドをやりながら色々と考えていた理想や方法論がそのままあてはまる。
教室がステージ、生徒が観客に当たるのは言うまでもない。
音楽が勉強に、ライブが授業になっただけで、
いかに面白くわかりやすく伝えるかということに差はない。
難しい(そうにみえる)ものを得意げに語って、
自己満足を得るだけのライブが忌避されるように、
授業もまた教師の自己完結であってはならない。
芸術のベールをかぶっていない分、
その反応はよりシビアでダイレクトだ。

また、勉強はつまらない、
音楽は楽しいというのは一種の固定観念に過ぎない。
学校の音楽の授業がとても楽しいものであったという話もあまり聞かない。
音楽が好きだと言うどんな人であっても、
自分の好きでもないもの、
理解できないものを無理矢理聴かされたら苦痛にしかならないだろう。
勉強もまた、それがどんなに重要なものであっても、
自分の意に反するものである限り苦痛である。
ならばできるだけ面白く、知識欲をくすぐる形に持って行けないか。
俺が教育もひとつの「芸」だと言うのはこういうことだ。

やり方ひとつだと思うのだ。
人間という生き物は知識を得る歓びを知っている。
知識とは堅苦しいものに限らない。
生きていく上で耳目に触れるすべてが好奇心の対象になり、知識の源泉となる。
「トリビアの泉」が老若男女を問わず支持されているのはその現れであろう。
その「歓び」を覚えさせてやるような授業を提供するのが教師の役目だ。
それさえ教えてやれば、後はジャンルの違いこそあれ、誰でも勝手に勉強していくのだ。
それに気づかない教師のルーティンワークの犠牲になる形で、
いたずらに盲目的に努力を強制されるからみんなイヤになる。
勉強の持つ本質的な意味合いを啓蒙できない者に教師の資格はないのだが、
どうやらどこの学校にも「有資格者」は、ほんの数人いるかどうかのようだ。
まあ、何の疑問もなく言われるがままにお勉強を重ねて、
そこそこの成績を取って大人になり、
安定を求めて教師におなりになるケースが多いだろうから、
教師という職業に個性や人格を求めること自体無理があるのだけれど。

本当に優秀な人材は好んで教師なんかにならないことが多いからね。
俺は公立学校の教師というのは基本的に信頼できないしキライだな。今でも。
俺みたいに勉強ができることの歓びも哀しみも知り尽くしていて、
なおかつ低成績にあえぐことの苦しみも気楽さも実感として知っている、
そんな人間の方が向いているのかもしれない。
でも、あんましいないよな。
勉強は何のためにするのか、しないとどうなるのか、どうすれば面白くできるのか。
それらについて明確に答えられる人間はどのくらいいるのだろうか?
そのうち、説得力のある方法で子供たちに伝えられる人間は。

教師とはそれが職業的命題として与えられた存在だ。
しかし、ただの地方公務員の詰め所でしかない公立学校にはそれが期待できない。
塾の担う役割はもはや受験テクニック指導だけにとどまらなくなってきている。
バンドが音楽を演奏するだけの存在ではないのと同じかな。

バンド運営と塾は似ていると書いた。
ステージとなる教室の裏側に、運営という裏方の存在もまたある。
バンドの一本のライブの陰に、PAや照明や物販やメイクなど、
支えるスタッフたちがいるように、
一本の授業の裏には生徒情報の管理、ケア、宣伝、教室維持などの
地味で労力のいる仕事が多くある。
裏方の存在を忘れて、
ステージの上の自分たちだけですべてが成り立っているかのように思いこむバンドが多いように、
自分の腕一本で生徒を集めているかのように錯覚し、
裏方を一切顧みない者もいる。
よく似ているのだ、ほんとに色々と。

バンドは同じ音楽を繰り返す。素材としてはあまり変わり映えがしない。
奇抜なパフォーマンスやその人ならではのメッセージで人々を惹きつける。
そのためにはやる側にも相当の意識が必要だ。常に考え続けなければならない。
教師もまた毎年同じことを教える中で、
いま生徒の求めているものを明らかにし、与えていかなければならない。
これらをサボっていれば当然のことながら、あっという間に「動員」は落ちる。
カネのためにやっているという実感はほとんどない。
だからこそ、やりがいもあるし、
人生を切り売りしているような錯覚にとらわれることもない。
しかし、収入につながらなければ当然ながら続けていけない。
この辺の割り切り方も非常に似ているなあと思うのだ。

とはいっても、これはバンドマンすべてが実感できるものでもないだろう。
バンドは個性の発現のための手段のはずだが、
バンドやバンドを取り巻く人間には恐ろしいほど何も考えていない人間が多い。
いや、本人は考えているつもりになっている。
しかしだいたいがどこかからの受け売りや、
安っぽいシンプルな道徳観(ラブアンドピースだとか)のコピーで、
本人が悩んだ形跡がまるでない。だから説得力がない。

なのにやたらと語りたがる。
あまりにも中身がないので突っ込むと、理屈じゃないと言い出す。
ではなぜ、バンドをやるのに言い訳がいるのか。
何が後ろめたいのか。あるいは何も後ろめたくなどないのか。
俺には言い訳にしか聞こえないのだ。
本当は何も後ろめたくなどないのに、世の中が年齢やら常識やらを持ち出すから、
自虐的に自己防衛的に
「俺もいいトシしてこんなことやってて親不孝で…だけど夢はさ…辛いけど前向きにさ…」
なんて言ってみせる。
何も辛くはないはずなのに。好きなことやってるだけなんだから。

自分の人生なんだから親も社会も関係ないだろう。
そうはいかないというのならハナっからバンドなんかやるべきじゃないのだ。
中途半端なのだ。意識が。堂々としていればいいじゃないか。
「俺にはこれしかできないから、俺はこれが最高に楽しいから、やってます!」と。
とはいえ、そう言う奴のステージがその主張に値するほどのものかといえば、
そうではないことの方が多いのだけれども。
ここがまあ、現実の厳しいところだね。

バンドが一人ではやっていけないように、塾もまた一人ではやっていけない。
生徒の人気さえとっていればやっていけるというものでもない。
そこには確固とした裏付けとなるものがなければならない。
その点では、疑似恋愛すら取り込むことのできるバンド界に比べて、シビアだ。
だからこそ、ここで仕事を共にする人々には、
無責任ではすまされない重みがある。
これが俺にとっては非常に刺激になっているし、やりがいにもつながっている。

冗談みたいなところから話が動き出すのはバンドの最大の魅力だったが、
その分、誰も責任をとろうとしない致命的ないやらしさもあった。
挙げ句の果てに、無難なことしか言おうとしない、いざとなればクチをつむぐ、
そのくせ陰では言いたい放題こき下ろすという卑怯さもあった。
塾にはそれがないとは言わない。
人間の作る組織だ、大なり小なりいつかはそういう膿も出てくるだろう。
しかしそういう人間は間違いなく淘汰される。
その辺のシビアさが俺の求めていたものだったのかもしれないな、と思う。

さて。
少なくないファンの心中を代弁した形での、
ここでの俺の発言を見たある人々は、
「仲間をネットでたたいた」俺にはもう「会いたくない」んだそうです。
俺に会いたくないってんならそれはそれで結構だけども、
ファンに対しては素直に、自分の非を認めて謝ればいいじゃないか。
俺じゃなくてファンにだよ。
俺と付き合いを断つ程度のことで、納得できるのだろうか?
言い分があるのなら、堂々と、自分の主張を述べてみればいいんだ。
自分に自信があるのなら、な。
俺は、あるよ。俺は絶対に間違ったことは言ってない。

7/16のあとも、俺は確実に日々何かを自分にプラスして生きている。
「君ら」とは本質的に、違う。
10年後、勝負は自ずと明らかになるだろうから、今は笑って見ててやるよ。
Comments (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする