隣接区のさんぽ帖

2016年10月17日
僕の寄り道――隣接区のさんぽ帖

10月15日、来客があるので隣接区である北区の商店街に買い物に出たら、店頭に「北区商店街さんぽ帖[保存版]」という小冊子が置かれていて、ご自由にお持ちくださいと書いてある。発行者は「北区商店街連合会」だが「北区」と冠にあって「&TOKYO」とフッターにあるので北区の商店街連合会に北区と東京都から補助金でも出ているのだろうか。そう思ってひっくり返したら、裏表紙は発行者が「豊島区商店街連合会」とあるので、北区と豊島区と両商店街連合会と東京都の相乗りになっているのかもしれない。いわゆる両方の表紙から読めるダブルノーテーションになっている。

「人間、食うことに仕事として関わっていれば食いっぱぐれはない。わざわざ電機メーカーになんか就職するやつはバカだ」
というのが就職で世話になった大学の大先輩に嫌味で言われたことだが、やはり寂れ行く商店街振興の目玉は食べ物関連の店が主体になってしまっており、中身はありがちなグルメガイド風になっている。それでもフリーペーパーによくある「掲載料を払った店だけ載せてやったよ」が見え見えの、貧困ビジネス的町おこし屋がつくったような腐臭が少ないのは、多少公共性のしばりがかかっているからだろうか。

載っている店と載っていない店、取り上げられている商店街とそうでない商店街の不公平など、楽しく眺めながらいろいろ思うところもあるけれど、ちっとも紹介してもらっていない店の店頭でも嬉しそうに配布されていたのが救いになる。大先輩の言葉を借りれば
「人間、食うことに関わっている店を盛り立ててついていけば商店街に食いっぱぐれはない」
ということを知っているのだろう。


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ハナミズキ

2016年10月16日
僕の寄り道――ハナミズキ

朝の NHK ニュースで気象予報士が赤く色づいたハナミズキについて話していた。
「渋谷はずいぶん早いのかな、埼玉の老人ホームはまだたよね」
と言ったら、毎日昼食食事介助に通っている妻が
「うん、まだ」
と言う。

バスに乗って特養ホームのある終点停留所で降り、緩やかなスロープをのぼって玄関前に着いたら、何本かあるハナミズキがみな赤く色づいていた。
「なんだ、ここもすっかり色づいてるじゃない。やはり明け方は冷え込んでいるんだね」
と言ったら
「ねえ下から見るとジャングルみたいだよ」
と答えた。意味不明な会話をしている。


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迷走光

2016年10月15日
僕の寄り道――迷走光

ガラスや光を反射する建材を使用した建物が増えたので、町なかでは日の当たるはずのない場所に光が差し込んだり、ありえない時刻にありえない角度で光と影のトリックアートができている。

近所に買い物に出た午後三時すぎ、六義園正門前に射し込む西日が、車止めのポールにあたって歩道上に影を落としていた。間違い探しのようにしてふと気づいたのだけれど、手前から三本目のポールにだけこちら向きの影ができていた。

どうしてこのポールにだけもう一本の影がてきているのだろうと辺りを見回していたら、非常に微妙な条件による現象らしく、あっという間に薄くなって消えしまった。


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観察と名前

2016年10月15日
僕の寄り道――観察と名前

女の中に男ひとり混じって自治会の会合に出たら、年上の女性が小さな花瓶に小さな花をさして持ってこられた。女性はそういう思いがけないことをし、女性たちはそういうことについてもすぐに話の花が咲く。

ひと枝に小さな花と赤い実がたくさんついており、ベランダに置いたプランターの中で咲いているという。午後三時頃に咲くので「三時草(さんじそう)」と呼ばれ、種を落としてはどんどん増えるたくましい帰化植物らしい。

別名を「花火草(はなびぐさ)」とも言い、細い枝についた赤い実が線香花火の火玉に似ているから、もしくは枝ぶりの全体が火花に似ているのでそう呼ばれるのだろう。線香花火の火玉は松葉と呼ばれる火花を飛ばすが、花火草は赤い実が弾けて種を飛ばす。

種を飛ばす時に赤い実が爆ぜるので「爆蘭(はぜらん)」とも呼ばれる。爆蘭といっても蘭ではなく、北の地方では食用にもするスベリヒユの仲間だが、見た目に蘭を想像させてその名があるのだろう。

いずれにせよこの花には、三時草、花火草、爆蘭という観察に基づいた名前がついている。近所で見かけた記憶があるので来客のための買物時に注意して歩いたら、六義園沿いの本郷通りに咲いており、確かに時刻は三時をちょっと過ぎていた。


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厄除け粽(ちまき)

2016年10月15日
僕の寄り道――厄除け粽(やくよけちまき)

家人は遠いといい、自分にとっては丁度良い散歩の距離に本郷郵便局がある。不在配達となった郵便物は、再配達を頼むと指定時刻が守られずに腹立たしいので、空き時間を見計らい、不在連絡票と印鑑と身分証明書を持って受け取りに行くことにしている。

帰り道の本郷通り沿いで珍しい厄除け粽(やくよけちまき)を玄関先に飾っている御宅を見つけた。京都八坂神社でまさにこれと同じものが配られていることは知っていたけれど、東京にもその風習があることを知らなかった。あじさいまつり期間中の根津神社で配られているのだという。



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森の生活と最小限主義

2016年10月14日
僕の寄り道――森の生活と最小限主義

混み合った電車内で携帯電話やスマホを指でプチプチ押し、熱心に文字打ちしている若い女性を見ると、こんな時と場所でも言葉で繋がっていなくてはならない世間がこの子にはあるんだな、大丈夫かいな思う。そして見るとはなしに画面が見えてしまうと、なーんだゲームしてたのか…と妙な安心をする。

スマホでゲームはしないけれど画面に落書きするのは好きだ。子どもの頃から絵を描くことはゲームだと思っていた。頭で考えたことを、手を動かして可視化することでゲームをクリアすると「やった!」と思う。「やった!」と思った絵を他人に見せ、共感される嬉しさを知ると、それを職業にしたくなり、実際にそうなった。

スマホで使える画材アプリの進化が凄まじい。 Apple もとうとうペンを採用したのでさらに加速するだろう。電話機として使わなくなった Android のスマホがあるので、絵を描くのに不要で気が散るだけのアプリ、ほとんどは言葉で他人と繋がるための道具なのだけれど、消せるものはすべてアンインストールし、消せないものはすべて設定解除して交信不能にした。そしてたくさんの画材を弄(もてあそ)ぶと感性が衰退するので、これはと感心している三本だけを残して整理した。

暮らしの全体を見直してミニマリズム、最小限主義を実践するのは難しい。けれど、スマホの中身の断捨離程度であっても、やってみればかなり風通しが良くなるのが気持ちいい。電話もメールも SNS(ソーシャルネットワーキングサービス) もない森の小屋に引っ越したような気分になるたびに、明窓浄几とはよく言ったものだと思う。

画材化したのはペンが使える古い GALAXY Note。植物の画像をテーブルに敷いてみた。
▼最上段は Infinite Design。初期の頃から使っていたけれど、たいへんな完成度に到達した。ベクトルベースのドローアプリなので、SVG 形式で Adobe Illustrator に持ち込んで描いた絵の調整できる。
▼中段はかなり昔から Mac 版、Windows 版があって、今は iOS 版も Android 版もある ArtRage 。地道に進化していて、ペイントアプリはこれ一本でいいなと思う。
▼下段はつい最近見つけた Paper Simple でベクトルベースのドローソフト。名前の通り簡素に見えるが使い込むと恐ろしく良くできている。


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高崎白衣大観音

2016年10月13日
僕の寄り道――高崎白衣大観音

幼い頃から東京清水間を東海道線で往復していたので、大船といえば観音さまを思い出すが、高崎でもやはり観音さまを思い出す。子どもの頃、高崎駅を通過したことは二往復しかないのだけれど、いまだにそう思うのは観音さまの印象がよほど強烈だったのだろう。

小学生時代の思い出といえば、高崎駅停車中にホームで熱いうどんを買って電車内に持ち込んだ人がおり、使い捨てのどんぶりを初めて見たので驚いた。1960 年代のことなのだけれど、発泡スチロールはドイツで 1950 年に発明され、日本では 1959 年に生産が始まり、日清食品がカップヌードルを発売したのが 1971 年なので、あれは大きな紙カップだったのかもしれない。持っている手が熱そうだった。

そんなことを思い出したので、映像作家の観音さま、じゃなかった、森田惠子さんが長年書き続けているブログ『春の海 ひねもすのたりのたりかな』をサイドバーにリンクした。高崎の観音さま内部を初めて見た。


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記憶の殿堂

2016年10月12日
僕の寄り道――記憶の殿堂

久しぶりに国立国会図書館へ行くことにした。どれくらい久しぶりか手帳を調べてみると、2014 年 7 月 19 日土曜日の日付が最後の訪問日になっている。2 年前のその日はマイクロフィロムで静岡新聞 1973 年 3 月の記事を読んでいたのだった。

今日の用事は 1972(昭和 47 )年 12 月 14 日付静岡新聞の記事を、朝夕刊いずれかから探し出してコピーをもらってくること。古い手帳を二冊分遡ってその日付を特定した。

学生時代はなんでも書いて覚えろと言われていたので、受験勉強もひたすら書きまくった。人間、年をとると書いても覚えなくなるもので、手帳を読み返して「書いた覚え」はあっても読むと「中身の記憶」がない。

コンピュータなどより書いた方が頭に入ると思い込んで実行してきたけれど、やはりメモはコンピュータに打ち込んだ方がいい。見つかったからいいようなものの、手帳二冊を読んで探すしかないと思ったら暗澹たる気持ちになった。結局、年をとるにつれて頼りになるのは「書いた記憶」に基づく検索になり、そして困った時の記憶の殿堂、国会図書館通いとなるのだろう



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寸法

2016年10月11日
僕の寄り道――寸法

「…とまあそういう寸法になってるってわけよ」
時代劇など見ていると悪巧みをする者たちがつかう紋切り型のセリフに「寸法」が出てくる。この場合の「寸法」はサイズではなく「段取り。もくろみ。計画。」のことだ。

商品の寸法は計画を立てて決められている。Inateck という会社がフェルト製のアクセサリー収納用ケースを出しているのを Amazon で見つけた。どういう小物を収めさせようかと検討する際に、きっと電子辞書の大きさも考慮されたに違いないと思い、599円と安いので注文してみたら、思惑通りキングジムの折りたたみ式小型ワープロ pomera DM25 にぴったりだった。

買い物ポイントがたまっていたので三省堂必携類語実用辞典(1,000円)と交換してみた。片手で引ける大きさだというのが気に入って注文したのだけれど、持ち歩いているスマホと並べるとぴったり同サイズなので妙にポケットが嬉しい。片手で扱える限界サイズで商品を作ったら、必然的にこのサイズに落ち着くという寸法になっているのだろう。


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秋のポスター

2016年10月10日
僕の寄り道――秋のポスター

マンション管理組合の理事長を引き受けて三年目になる。秋の住民交流会と同時開催する子どもたちのためのハロウィンパーティ。それらを主催する災害対策委員会の委員長も兼ねているので臨時会議を招集して概要を決め、理事会に出て予算を確保し、「ひとり広報委員」も兼ねているのでポスターを作成し、エレベーター内とエントランスールに掲示した。

住民交流会のポスターには季節ごとの六義園風景を掲載するのだけれど、いい写真がないのでベランダに出たら、早朝から開園前の掃除をされている働き者がいたので写真に撮り、早速ポスターに使用した。

掲載前に宮脇淳子さんを呼んで校正をお願いしたら、これはいつ頃の六義園かと聞くので、つい数分前の六義園ですと答えたら、もうこんなに色づいいるのかと驚き、祭日なのにそそくさと仕事に出かけて行かれた。彼女もまた働き者である。


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感度

2016年10月9日
僕の寄り道――感度

空腹だと味覚刺激に対する感度が上がり、外国に行くと日本語に対する感度が高まる。そういう言い方をされると「なるほどなぁ」と思う。

前者の感度は「係数」のようなもので、食い意地につられて味覚も敏感になる。いっぽう後者は、日本語で満ち溢れている国内では感じとれない言葉のニュアンスに対する「分解能」としての感度が上がるのだろう。

係数としての感度は自動的なもので、どんなにおいしいものでも満腹度が上がれば見るのも嫌になる。いっぽう分解能としての感度は良い経験とすれば持続可能かもしれない。

駒込富士神社

人間が感度を高めるとは、係数を上げて過敏な言動をすることではなく、分解能を上げて細やかに考えることなのだろう。


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運の善し悪し

2016年10月9日
僕の寄り道――運の善し悪し

100点満点のテストで51点「も」取った者と、50点「しか」取れなかった者という優劣のつけ方は無意味かもしれない。けれどもしその1点が合否の分かれ目だったとしたら、前者は「運」という点において優れていたと言えるだろう。

特養ホームに入所している義母の体重測定結果に娘である妻は一喜一憂している。老人があとどれくらい生きられるかは体重がひとつの指標になるという。わずか数十グラムの増加で目標体重を維持できたと大喜びするのは、そのために毎日栄養のつく補助食品を持って昼食食事介助に通っているからだ。

日本人が一日に排泄する大便の量は200グラムだが、意外にもアメリカ人は150グラムしかないそうで、食物繊維摂取量の多寡がその差になっているのだという。体重測定時が排便前だったか後だったか、体重測定日の前日に便秘気味だったか下痢気味だったかで200グラムくらいの誤差が付いてしまうわけで、たかが数十グラムのことで大騒ぎするのもどうかと思うが、大便だけにそこにも「運」の良し悪しがついてまわるかもしれない。


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森を歩こう

2016年10月8日
僕の寄り道――森を歩こう

ホルスト・ヤンコフスキーの「森を歩こう」が好きだ。なぜか雨降りを口実にして引きこもり、一日家で過ごそうなどと思う日に限ってこの曲が聴きたくなる。しかも珈琲をいれて、のんびり机まわりの片付けをするという、あまり活動的でない日に聴くと心地良い。

雨の日でも六義園正門から入園料を払い傘をさし入園していく人たちがいる。人造の小さな森ではあるけれど、雨の日のひんやりとした空気は気持ちがいいだろうなと思う。昨夜はマンション管理組合の理事会があり、毎日早朝ランニングを欠かさない理事の一人が、先週槍ヶ岳に登ったらダケカンバの紅葉が素晴らしかったという。

雨の六義園正門(2016/10/08)

六義園の紅葉はまだ早いけれど、それでも朝になると大量の枯葉が落ちている。降り積もった枯葉が雨に濡れて水分を含み、それを踏みながら歩く六義園周遊は想像するだけで気持ちがいい。そして真っ青な空にそびえる槍ヶ岳と真っ赤なダケカンバがある風景は、話を聞いているだけで感動する。

そして降りしきる雨を窓から眺めながら「森を歩こう」を聴いている

「森を歩こう」

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社会科講談

2016年10月7日
僕の寄り道――社会科講談

 

近所を散歩していたら隣りの区である北区の歴史が知りたくなり、そのとなりの荒川区、台東区、葛飾区と知りたい地域が拡大し、住んでいる文京区版を買ったのはそのあとだ。そして先週注文した豊島区の歴史が昨日届いた。こういう子どもにもわかるような、教科書副読本的に真面目で平易に書かれた郷土史書が好きだ。

 

小学校社会科の副読本で「わたしたちの23区」のようなタイトルの本を読んだ気がし、それはおそらく泉麻人「東京23区物語」のネタ本なのだけれど、残念ながら東京から清水への引越しの際になくしてしまった。「わたしたちの北区」という薄い副読本もあった気がし、その本恋しさで「北区の歴史」を買って以来、次第に興味の範囲が広がっている。

義母が埼玉の特養ホームに入所したので「大宮のむかしといま」を見つけて買ってみたら大変面白かったので、八王子市と富山市の副読本的郷土史を探して読んでみたいと思っている。どの地域のその手の本も、まず最初に地理的な地勢解説があり、そして原始・古代の郷土の姿から年代順に語られていく。その語り始めが社会科講談を聞くようで、なんともおかしくて癖になっている。


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天高く足すくむ秋

2016年10月6日
僕の寄り道――天高く足すくむ秋

 

昔から高所は苦手だったけれど、最近はベランダに近づいただけで真っ逆さまに地表へと吸い落とされそうな引力を感じて眩暈がする。以前はこんなに臆病ではなかった気がするのだけれど、加齢とともに苦手意識が進行したのだろうか。今朝もまた爽やかな秋空を見上げてベランダを歩き、身体が手すりに触れて意識した途端、眩暈がして足がすくんだ。

 高所にしろ閉所にしろ、自分で自分を不安にさせていることはわかっていて、いわばネガティブ・フィードフォワード、手すりが壊れて落下する自分のような、悪い未来予測をわざわざ想起することで心身をすくませてしまっているのだと思う。そういう意味で「あなたはあなた自身が作り出した苦しみに煩悶しているにすぎない」、もっと平べったくいえば家族から「あんたは自分からすすんで病気になっている」と責められている人の気持ちがよくわかる。わかってはいるけれどやめられない。


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