離れ・裏座敷・隠居所

2015年1月7日(水)
離れ・裏座敷・隠居所

01
高浜虚子「漱石氏と私」を読んでいたら、中学校教師として松山に赴任した漱石が住んでいた下宿の話があった。

02
「漱石氏は一番町の裁判所裏の古道具屋を引き払って、この二番町の横町に新らしい家を見出したのであった。そこは上野という人の持家であって、その頃四十位の一人の未亡人が若い娘さんと共に裏座敷を人に貸して素人下宿を営んでいるのであった。裏座敷というのは六畳か八畳かの座敷が二階と下に一間ずつある位の家であって漱石氏はその二間を一人で占領していたのであるが、子規居士が来ると決まってから自分は二階の方に引き移り、下は子規居士に明け渡したのであった。」(高浜虚子「漱石氏と私」)

03
漱石は一年近くこの裏座敷一階に住み、肺病療養のため松山に帰省した正岡子規に譲って二階に移り、子規は夏から秋をここで過ごした。

04
そういう話ではなく、虚子の「裏座敷」という言葉に興味を惹かれた。この裏座敷の持ち主だった上野氏の姪から虚子に届いた手紙には
「あの離れはたしか私たちがひっこしてから、祖父の隠居所にといって建てたもののようです。襖ふすまのたて合せのまんなかの木ぎれをもらっておひな様のこしかけにしたのを覚えています。」(高浜虚子「漱石氏と私」)
とある。略していう「離れ」は「離れ座敷」のことであり、「隠居所」という文字を読むと自分が子どもだった頃のことが思い出される。

05
東京下町で暮らした小学生時代、庭のある立派な家では裏手に離れがある家が多く、離れにはたいがい隠居した年寄り夫婦がひっそりと暮らしていた。おじいさんは中風で寝たきりになっていることが多く、わがアパートの大家もそういう家で、いつも「ばあさん!ばあさん!」と叫ぶ声が真っ暗な家の奥から聞こえた。遊んでいるとおばあさんに声をかけられ、
「お菓子をあげるから上がっておじいさんのそばで食べてちょうだい。そうするとおじいさんが喜ぶから」
と言われて上がりこむことがよくあった。薄暗い部屋に敷いた布団で寝たきりになったおじいさんが嬉しそうに笑っていたのを今でも覚えている。それは虚子が言うように、離れや隠居所というより「裏座敷」がふさわしい光景だった。

06
「遠野の山口という小さな集落があります。集落は、小さい沢に沿ってあって、その片側の山の中腹にダンノハナという小さな村の墓地があって、ダンノハナのちょうど向かい側に蓮台野という台地がある。山口集落では六十歳になった老人たちを蓮台野にあげたというんです。でもすぐには死なないから、日中は降りて畑を手伝ったりする。それで一食の夕飯をもらって、また夜は蓮台野にあがっていく。そうしているうちにだんだん弱って死んでしまうんでしょう。その蓮台野にいる老人たちは、毎日毎日、対岸にあるダンノハナの墓地を見て暮らした、というすさまじい伝承が書いてあるんですよ。」(『考える人』No.39特集ひとは山に向かう、池内紀との対談より湯川豊)

07
離れ・裏座敷・隠居所というのは山里から町に降りてきた人々にとって、蓮台野のような役割を持った場所だったのではないかといまになって思われ、それは都市化、高齢化、住環境劣化の進展とともに病院や老人施設などによって肩代わりされているのかもしれない。

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