電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
トウモロコシの王国
十二人の子どもたちを育て上げて昭和三十年代の祖父母はすでに現役を退き、できることをして跡継ぎ夫婦を手伝い、ときには孫たちの世話をしながら平和に暮らしていた。
決して豊かな人生とはいえなかったけれど、祖父は自転車で行ける程度に離れた場所に小さな畑も買って持っており、遊ばせておくのももったいないと思ったのか、手間のかからない自家用野菜を植えていた。叔父が運転する軽三輪トラックに乗って収穫に行くと、夏の畑は一面ザワザワと揺れるトウモロコシの王国になっていた。
それは家族全員で毎日食べなければ追いつかないほどの実りであり、トウモロコシというのは収穫直後ぐんぐん味が落ちるので、夕方近くになると叔父と二人で毎日もぎに行くのが日課だった。収穫して持ち帰るとさっそく祖父母と一緒に土間にしゃがみ、皮をむいてヒゲを抜き、七輪に炭火を熾して金網をのせ、醤油を塗りながら大量の焼きトウモロコシを作った。
祖父はむいたトウモロコシの皮を集めて折りたたみ、束ねた根元を皮で縛ってぎゅっと結び、葉脈に沿って葉をほぐし、トウモロコシの葉で簡便なブラシを作った。そのブラシに醤油をつけてトウモロコシに擦り込み、もうもうたる煙と香ばしい匂いをたてさせ、それを何度も繰り返して醤油焼きするのを手伝った。
出来合いのブラシではだめで、トウモロコシにはトウモロコシのブラシでないと、美味しい焼きトウモロコシにならないというのが祖父の持論だった。子どもの頃は、なるほどと感心し、おじいちゃんは何でも知っていて偉いなぁと尊敬もしたが、大人になってみれば、トウモロコシのブラシで醤油を塗ると焼きトウモロコシの味が上がるなどという、ちょっと信じがたい話を真に受けることはなくなった。けれど、孫でもいたら
「出来合いのブラシじゃだめなんだ、トウモロコシにはトウモロコシのブラシでないと、美味しい焼きトウモロコシにならないんだぞ」
などと言って、まことしやかなことを教えてみたいと今でも思う。
よい大人になるということは、理屈に合わないこと、科学的に証明できないことを笑ったり、取り合わなかったりする知恵を身につけることではなくて、理屈に合わない非科学的なことだけど、笑って切り捨てるには惜しい大切な教えが潜んでいるということを、理解できるようになることなのだ。流行り言葉で「リスペクト」などとカッコつけて言う必要はなくて、年寄りはもちろんのこと、どんな生き物にたいしても、敬意をもって接することができる大人がカッコイイ大人なのだ。
トウモロコシを中心とする農業を主体にして、誇り高い独立性をもって生きるホビ族のことを、中里さんの絵を見ていて思いだした。
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