【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』―追分編―】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』―追分編―】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 22 日の日記再掲)

東海道江尻宿を抜け、巴川にかかる稚児橋を渡り、そのまま府中宿の方に向かう途中に追分がある。

追分というのは道がふたつに分かれる分岐点なのだけれど、どうふたつに分かれるかというと、東海道から清水湊への道が分岐するのであり、「是より志三づ道」と刻まれた道標があることで、辛うじてそれとわかる。

追分というと追分節を思い出し、幼い頃は素人が民謡の腕前を競うテレビ番組なども多かったので、その長く尾を引くような哀調を帯びた歌声を聞くたびに、追分という言葉の意味は知らなくても、追分というのは哀愁のこもった場所なのだろうと思ったものだった。

別れというのは哀しいもので、人の別れはもちろんのこと、道が分かれていくのも哀しいし、考えようによってはズボンが左右二股に分かれていることさえ哀しいといえば哀しい気もするのだ。


春夏冬の休みの間、郷里静岡県清水の祖父母の元に預けられて過ごした小学生時代、清水から東京に戻る際に必ず買い求めたのが 1695(元禄 8 )年創業の老舗菓子店が販売する銘菓『追分羊羹』である。竹の皮に包んで蒸した羊羹は独特の風味があって僕は大好きなのだけれど、そのパッケージの赤から白へ長く尾を引くようなグラデーションがいかにも追分風で、昔も今も見ただけで切なくなり、口の中に竹の香りが広がったりする。

清水市内を歩くと追分羊羹の長く尾を引くようなグラデーションがあちらこちらで目につき、とくに本店のある東海道追分付近にはそれが多い。

追分羊羹の本店を過ぎて少し行くと「春まだ浅き文久元年( 1861 )正月十五日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った…」と解説板を添えられた都田吉兵衛供養塔がある。

「その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ…」と続くように、この場所が都田吉兵衛にとってこの世とあの世の追分だったのである。

大沢川にかかる金谷橋を渡り真っ直ぐに進むと JR 東海道線と静岡鉄道を横切る踏切がある。静岡鉄道入江岡駅付近から並行して仲良く走るふたつの鉄道路線が、この踏切の先、静岡鉄道狐ヶ崎駅を過ぎると二手に分かれていくわけで、ここにもまた追分があるという多重構造になっている。

写真小上:東海道に追分ムードを醸し出す電柱の看板。その先は国道1号線大曲交差点。
写真小下:追分羊羹本店。
写真大上:さくら幼稚園向かいあたりに手作りの草履や箒を作っているお店がある。
写真大下:追分の先の踏み切り。住所は清水有東坂になる。
写真小下:都田吉兵衛供養塔。

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