電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
昼休み、カメ雑感
2017年1月30日
僕の寄り道――昼休み、カメ雑感
幼いころ祖父と川べりを散歩すると、
「向こう岸に亀が這い上がって甲羅干しをしているのが見えるか」
と聞くので
「見えない」
と返事をすると足もとの石を拾ってヒューッと対岸めがけて投げ、
「ほら慌てて水の中に逃げたのが見えただろう」
と言うので
「見えなかった」
と答えると、仕方のないやつだと言いたげに苦笑いしていた。祖父はどうしてそんなに遠くが見えるのだろうと呆れたものだけれど、文字が読めなかった祖父はそのかわり遠くがよく見え、イノシシ狩りの猟師として NHK の取材を受けるほど有名だったらしい。水槽のカメを見ていたらそんなことを思い出した。
|昼休み散歩で見つけた屋外の水槽|
檻の中にいる動物は、自分は「中」に閉じ込められ、人はその「外」にいる、自分は不自由だけれど人間は自由だ、そういう認識をせず、ただ自分と人間とのあいだを隔てている柵があるとわかるだけだ、そもそも内と外の概念がないのだ、だから檻の中の生き物を可哀想に思うのはちょっとピントがはずれている、そう教えてくれた友だちががいたけれど本当のことだろうか。どうも怪しい気がする。
物心つく前の子ガメのころから水槽内で育てられたカメならそうかもしれないけれど、大きくなったカメを河で捕まえて水槽に閉じ込めたら、カメとはいえ、さぞや切なかろうと思う。
カメやワニなどは哺乳類が脳を大きく発達させたのと逆の進化をたどり、体重比で考えると驚くほど脳が小さいという。哺乳類ほど頭を使う生活を選ばなかったので小さくてもいいのだ、バカでも生きていければいいではないかとカメ擁護の論法もあろう。けれど脳の大きさなど賢愚に関わりがないのではないか。脳ではなく身体が記憶していればわが身の不幸を嘆いて涙も溢れるだろう。知性はきっと身体の外にある。
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