◉興津氏の居館跡を見に行く

2018年6月21日
僕の寄り道――◉興津氏の居館跡を見に行く


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清水区興津本町 363 にある宗徳院のある場所が入江氏を祖とする氏族興津氏の居館跡だというので、『季刊清水』編集会議前に、清水美濃輪町の友人と待ち合わせして歩いてみた。

入江氏の祖と言われる藤原為憲は 939(天慶 2 )年、常陸国で起きた平将門の乱を藤原秀郷に協力して平定し、恩賞として木工寮次官となり、藤原の「藤」と木工の「工」をあわせて「工藤」の姓を興した人。平将門、鎌倉北条氏の祖となる平貞盛とは互いに従兄弟となる。

この為憲の三代あとが入江氏の祖維清(これきよ)、その二代あとの枝分かれに清綱が出て岡部氏、清綱の息子が息津(おきつ)六郎であるという説がある。入江氏から分かれた吉川、船越、矢部、三沢、渋川、興津などの各分家が源家棟梁に直接奉公することで御家人化していく。

狭隘な海辺、それゆえに交通の要衝である興津郷を掌握した興津氏の経済基盤は清見ヶ関の関銭と地元船持を掌握しての海運だった。それゆえに海道を眼下に見渡せる高台の居館が必要だったのではないかと思い、実際その場所に立ってみたら雨だった。

杉並木が視界を遮っているものの、「この場所なら昔は海道によく目配りできたはずだよね」と友人と話した。「ここは何宗ですか」と聞かれたけれど激しい雨で手帳が取り出せない。山梨の天沢寺から出た明光德舜大和尚による開基が 1505(永正 2 )年だから、箱根を越えた北条早雲が相模を平定していた頃にあたる。戦国の時代が始まり、居館ではなく城が必要になったわけだ。当然武田家に縁があるので境内には武田菱が多く見られる。

ここに居館を構えた興津氏が興津川西岸に横山城を構えて居城としたのが延文年間 1356 から 61 年頃。宗徳院開基までにある約 150 年の空白期間、この場所がどうなっていたのかは知らない。数時間後の会議で、編集長に宗徳院の話をしたらよくご存知で曹洞宗だと言う。なんで知っているのかと聞いたら、愛犬の墓があるのだと言う。

雨降りでは町歩きもままならないので早々に切り上げ、編集会議のある静岡駅南口、水の森ビル前に行ってみたもののちょっと早い。傘をさして町歩きしたら「鯖大師」の文字が見え徳雲山崇福寺とある。

鯖大師ってなんだっけと記憶を辿ったら、清水にチャンチャン井戸、興津川上流に黒川の昔話があるように、由比にもやはり似たような民話があり、それを調べて鯖大師の話を知ったのだった。各地に伝わる弘法大師伝承である。

この徳雲山崇福寺は稲川町にあるのだけれど、開基は稲川村を領有していた稲川氏だという。1811(文化8)年、その稲川家の株を庵原出身の漢詩人山梨(稲川)が買い取って長男清臣に継がせ、自身も後見人として稲川村に移住し、字を玄度、名を治憲、号を稲川(とうせん)としたのだという。清水の偉人山梨稲川の名はこの場所から来ている。(2018/06/20)

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