電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
◉芽
2018年3月31日
僕の寄り道――◉芽
妻が長いこと関わっていた雑誌『季刊 芽』には「子どもの未来を語る雑誌」と副題がついていた。毎年、春が来て木々の芽吹きを見るたびに『季刊 芽』を思い出す。芽は木々の未来を語っているように見えるので賑やかである。
人生が「たいへん」であるように、木々にもまた「たいへん」があるだろうし、木々で芽や花をついばむ小鳥たちもまた「たいへん」なのに違いない。
家と家の間にある人が通らない隙間に、痩せた猫を追って飛び込んで行くドラネコも「たいへん」そうだし、リードをつけられて散歩する小型犬もやはり彼にとっては「たいへん」な生涯を生きている。
みんな「たいへん」なのであり、みんなそれぞれの「たいへん」を抱えているのだけれど、やがてみんな同じように死んでしまう。その「みんな同じように」を理解して救われるのが究極の「悟り」である。
草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)、そういうありかたとの共感に至れる「者」は生きながらにして幸いであり、至れない「もの」も最後はすべてひとつになるようにできている……とかなんとか言ってみる春である。
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録画してあった「NHKドキュメンタリー ─ ETV特集 アンコール『カキと森と長靴と』」を観た。強いオスを持てた地域は幸いである。強い「ひとり」は「おおぜい」を救いえる。
それにしても高密度な映像機器と高度な撮影技術で記録を残せる「たいへん」な時代になった。2011.3.11 という未曾有の大災害によって分断された高密度の記録を見て思い浮かぶ言葉の一つは「無残」である。今もそこに「ある」ように高密度な映像が、実体としては喪われていることの「無残」さを伝えている。
先の大戦もこういう「無残」な高密度映像で記録されていたなら、この忌まわしい政治家たちを追い祓えない暗愚な現在には到っていなかったかもしれない。(2018/03/31)
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