電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【菊幸(きくこう)刃物店】
【菊幸(きくこう)刃物店】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 6 月 30 日の日記再掲)
毎月、郷里清水に帰省しては身辺整理をしている母だけれど、見ているとまったく合理的ではなく、結論から言えば捨てられないモノを再確認しているに過ぎない。そして、息子が迎えに来たら「こんなモノが出てきた」と見せるのを楽しみにしているらしい。実は僕もそういう片づかなさが好きだ。
『へるんやいづ行』という美しい豆本を取り出して「これはどうか」と母が見せるので、箱から出して読み始めたらなかなか面白い。紙木美会(しきみかい)という地元の美術愛好者の会があり、版画家の前田守一氏が主宰されている。その紙木美会が発行する山葵田(わさびだ)文庫の一冊であり、歌人東良子の歌に前田氏が版画を添えた手作り限定 60 部の私家本である。
清水辻町在住小林靖男氏の造本が美しく、この人は製本の専門家なのかと母に聞くと、そうではないという。清水は、玄人が舌を巻くような仕事をする素人が 掃いて捨てるほどいる不思議な町なので、驚くにはあたらないと思いつつも感心してしまう。
書名にある「へるん」とはラフカディオ・ハーンのことであり、ハーン( Hearn )が自らを名乗る時、地元の日本人には「へるん」と聞こえたのだと言い、ハーン自身も「へるん先生」と呼ばれることを好んだらしい。そのへるん先生こと小泉八雲が焼津の海を愛し、夏になると家族を伴って毎年必ず訪れていたという。
水泳が得意だったへるん先生は、最初に訪れた舞阪の海が遠浅で気に入らず、深くて荒い焼津の海がことのほか気に入っていたらしい。
母が清水駅前銀座商店街、『手芸用品のマツナガ』で買い物をしたいというので、アーケード内の縁台に腰掛け、『菊幸(きくこう)刃物店』の店頭をぼんやり眺める。
「打刃物司」の4文字を見ているうちに、そうかこの店は刃物を自ら製造して売っていたんだよなぁと改めて気付き、裏手さつき通りを渡って旧東海道方向に行ったあたりが、かつて鋳物師町や鍛治町と呼ばれていたことを思い出す。
そういう地名さえ残っていれば、郷里のこの場所に立派な刃物店がある理由にも容易に思いが至るわけで、地名というのは大切なもので安易に捨てるのはもったいないなぁと思う。ほとんどの生活者が合理的な背番号のごとき地名に改悪するのを嫌うはずなのに、そういう思いはいつも経済的合理性に勝てない。なぜ勝てないかというと、非合理的であるが故の価値という「人間なればこそ」当たり前に理解できそうなものを説明してもわからない人間がいて、そういう人間が常識世界で食い詰めて、人を教え導くなどという大それた職業に就きがちだという現実に呆れ、一から説明し直す気力も失せて、呆れて口をあんぐり開けているうちに、世の中が悪夢のように悪い方に転がっていくのだ。
そんな事を『菊幸(きくこう)刃物店』店頭の出刃包丁を眺めて考えつつ、カバンに入れてきた『へるんやいづ行』を読むと前田氏が前書きで引用する小川国夫「小泉八雲の夢」という一文が胸にしみる。
八雲が魂送りのぼんぼりを追って、焼津の浜から沖へ泳いでいく随筆は君も知っているだろう。「焼津にて」だったね。僕も浜の魂送りをよく知っているから、この随筆によって、八雲はなつかしく、八雲と僕は深く共感し続けているように思えるんだ。お盆のころ焼津には人肌の霞が立ちこめ、その底に松の炎が柔らかく、しかし明々とゆらいでいた。
今や電光が氾濫し、その炎もぼんぼりも失くなったね。月の光まで消え失せたかのようだ。だから、八雲のように、死者たちのいる国に泳いでいくこともできなくなってしまった。
(山葵田文庫『へるんやいづ行』より)
焼津の町も漁港整備などの合理的理由のもとに、かつて八雲が腰掛けて海を眺めたであろう石垣も、とうに取り壊されてしまったらしい。昔なら誰もが当たり前に知っていた「死者たちのいる国に泳いでいくこと」ができるという大切なことを、人の上に立ったつもりでいる輩に教えてやることが困難であるという皮肉な現実こそが、今の社会の根っ子にある困難さかもしれない。
菊幸刃物店の美しい打刃物を見ていたら深くて荒い、それでいて優しい焼津の海を思い出した。
写真小上:『へるんやいづ行』の表紙。
写真大上:菊幸刃物店の打刃物。
写真大下:『へるんやいづ行』に掲載された小泉八雲『焼津にて』の一文。「怖い」と心からの思いを口にした途端、一息に呑み込んで「死者たちのいる国」に連れて行ってくれるほどに、海は優しい。
写真小下:清水駅前銀座商店街『菊幸(きくこう)刃物店』店頭。
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