◉彼岸過迄

2018年3月20日
僕の寄り道――◉彼岸過迄

漱石前期三部作を読み終え、後期三部作最初の『彼岸過迄』を読んでいる途中で気がつけば春の彼岸に入っていた。

「雨の降る日」と題された章では、登場人物である松本のかわいい末娘宵子が突然死んだ。思いがけず明治の葬送が写生されて織り込まれており、読むうちにその中にいる。

送るのが幼女であるので、そういうひそやかな葬列の最後尾に連なり、小説内でキョロキョロしながら物珍しげな体験をした。漱石の文章はしずかに美しい。

「あくる日は風のない明らかな空の下に、小いさな棺が静かに動いた。 路端の人はそれを何か不可思議のものでもあるかのように目送した。」(『彼岸過迄』)

東京の火葬場は落合、町屋、四ツ木、堀の内、桐ケ谷、代々幡(よよはた)の六カ所がある。本駒込からは黒い服を着て町屋まで出かけることが多いが、一昨年友人を送る際は初めて落合に行った。漱石の時代の落合、その風景描写が記憶と重なって興味深く感じられた。

雨の六義園、20 日開園直後。しだれ桜は三分咲き。

武蔵野の風景は当然ながら今とは違うだろう。それでも斎場のすぐ周辺は変わりようがないかもしれない。民営である博善の火葬場に炉の等級付けがあるのは今も変わらない。骨上げの箸が銘々持ちで木と竹のワンセットであるのが物珍しい。薪での焼き上がりは今とちょっと違って、この世に思いを残したように色味を帯びて遺族の前へ現れる。なつかしい「おんぼう」さんが登場した。

「車の上で、切なさの少し減った今よりも、苦しいくらい悲しかった昨日一昨日の気分の方が、清くて美くしい物を多量に含んでいたらしく考えて、その時味わった痛烈な悲哀をかえって恋しく思った。」(『彼岸過迄』)

明日 21 日はひとり清水まで墓参りに行ってこよう。

……と未明の日記に書いてみたけれど、朝の気象予報士が、彼岸中日の明日は関東地方も寒の戻りで雪がちらつき、箱根はもちろん相模原あたりでも積もる可能性があると言う。小田急が止まるほどではないだろうし、清水で雪は降らないにせよ「雨の降る日」の墓参は辛い。というわけで少し日延べしようと思い始めた。(2018/03/20)


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