電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【世界と残像】
【世界と残像】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 1 月 25 日の日記再掲)
「気配」は感じるけれど、「気配」とは何かを言うのは難しい。
けわい ケハヒ
(「気配」と当て字) 主に聴覚や直感により、それと感ぜられる様子。雰囲気。そぶり。きざし。品格。(広辞苑第四版より)
「直感により」という部分がどうにも曖昧で「気配」の意味がつかみにくい。
■静岡県清水松井町。巴川沿いの路上に長靴が脱いである。
広辞苑には「直感」とあるけれど「直観」と言った方がよい気もして、広辞苑で「直観」をひいてみると、非常に難しい「直観」を冠した語群が列挙されている。
ちょっかん‐ぞう【直観像】チヨククワンザウ
見たものを取り去った後でも、それがはっきり外部にあるように見える像。子供に多くみられる。(広辞苑第四版より)
「子供に多くみられる」というこの現象の記憶はない。
けれど、客が帰ったあとに残る人の気配を感じたことはあって、それはおそらく嗅覚で感じる臭いと触覚で感じる温度を混ぜ合わせたものだった。
駅のホームで人を見送ったりすると、電車が出て行ったホームにその人の姿がまだあるような気がし、それは視覚による残像と記憶の想起による感傷を混ぜ合わせたものだったりし、そういう現象は大人になった今でも変わりなくある。
■さっきまで履いていた人が蒸発して消えてしまったかのような気配漂う脱ぎ方なので自転車の老人も妙に気にしながらよけて通る。
直観像というのは「記憶の残像」のことなのだろうな、と無人になった実家の片づけ帰省をする度に思う。
目に見えるものを片づけるのは「記憶の残像の視覚的な手がかり」を消し去ろうとする行為であり、実家の片づけが終わったとき初めて真の「記憶の残像」の片づけが始まるのかも知れない。
■空中に絵が描けたら、履いていた人物を再現できそうに思えるほど濃厚に残像が残っている。
自分でも呆れ他人に話すと笑われるのだけれど、ほとんど毎日、記憶の残像に関する夢を見て、夢の中で嗚咽しているところで目が覚める。それほどに強烈な「記憶の残像」が残っている。
実家の整理が終わってもまだ「記憶の残像」が夢に現れるかどうかが楽しみ……ということにして目に見える記憶を少しずつ片づけている。
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