【ラジオ体操と阿部川町】

【ラジオ体操と阿部川町】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2007年 7 月 25 日の日記再掲

東京都台東区元浅草三丁目。

元浅草などというのっぺらぼうな住居表示になってしまったけれど、この街にもかつては地域の歴史をちゃんととどめた美しい地名があった。

■台東区立菊屋橋公園にて。
RICOH Caplio R2

台東区立菊屋橋公園内に夏休みラジオ体操のポスターが貼られ、地域の方が旧町名を忘れずに入れておいてくれたので、ここが郷里静岡県ゆかりの街だったことがわかる。

■菊屋橋公園内に台東区が立てた解説板。
RICOH Caplio R2

菊屋橋公園の向かい側には孫三稲荷(まごぞういなり)があり隣接する集会所を阿部川会館といい、ここにもちゃんと地域の歴史が息づいている。

■孫三稲荷神社と阿部川会館
RICOH Caplio R2

この付近は、「御府内備考」によると、慶安年間(1648~52)、川村某が駿河国安倍川(現在、静岡市域を流れる河川)の鎮守「孫三稲荷」とともに駿河から当地へ移入してきたことから阿部川町と称していた。
孫三稲荷は、当地に伝わっている伝承によると、天正年間(1573~92)、徳川家康が、「孫三」と名乗る者に馬の轡(くつわ)をとらせ、安倍川を渡ったが、後にその孫三を探したところ該当者はなく、ただ安倍川の河辺に「孫三」の名を持つ祠があり、実はこの稲荷の化身であったという霊験から、天正18年(1590)、家康が関東入府の際、自ら命じてこの稲荷の神体ごと川村某の手により江戸にもたらされ、慶安年間当地へ移したという。この伝承は「御府内備考」と年代が異なるが、江戸初期には、地域の鎮護神として信仰を集めていたようである。
現在、静岡の孫三稲荷の所在は不明であり、当地も関東大震災、東京大空襲によって、記録や社殿を失ったが、昭和26年、当町会(阿部川町、菊屋橋町会)によって社殿が再建され、毎年3月8日に例祭が行われている。(台東区教育委員会の解説板より)

「大御所四百年祭公式ホームページ」によるとかつて静岡の阿部川町には上町・中町・旅籠町・新町・揚屋町の5町あって京都伏見から遊女を移した遊郭があり、家康没後江戸に重心が移って遊郭も衰退したため阿部川町内の3町を江戸に移したという。阿部川町内3町の移転といい、「此町地主ハ皆駿河国阿部川ヨリ移リシ故ナリ」(東京府志料)「本町の地主たる幕府小人皆駿州阿部川より移りたるものに由り名とすと云ふ」(東京案内)とある浅草阿部川町の成立(1696(元禄九)年)といい、この地域は郷里静岡との縁が深い。

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