電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
◉おくわし
2019年8月11日
◉おくわし
このところ晩酌をしながらヴィヴァルディの『四季』をさまざまな演奏スタイルで聴いていて、昨夜はいよいよ美男子(妻談)カラヤン指揮のウィーンフィルなのでブロマイドのようなジャケット写真をスピーカーの真ん中に置いてやった。聴きながら妻が「喫茶店みたい」「聴きやすい」「映画のよう」「即興性は感じられない」などと呟くのを聞きながら、なるほどなあと思う。若いころからポールモーリアやレーモンルフェーブルやパーシーフェイスが嫌いではないので、こういうスタイルは趣味の違いによる好みが明瞭になるのだろう。
友人が書いているブログを読んでいたら見慣れた風景の写真があり、本州内陸部の高原を御同輩連れ立って旅していたはずが、一気に勢いよく太平洋岸まで南下して、なんと郷里清水で日本平に登っていた。古い蒲原時代の田中光顕の写真を見ていたら砕けた姿で大町桂月が写っていて驚いたのを思い出した。大町もざっくりと旅した勢いで光顕を訪ねたのだろう。団塊的に友人たちと連れ立って一泊二日駆け足の旅なので、清水市街地のひとり散策はできなかったらしい。残念。
本駒込 2019
ひとつの世界を生きていても世界中の 〈わたし〉 の数だけ異なった見方の 〈せかい〉 がある。自分が見慣れた町を他人がどう見たかを知ることは興味深く楽しい。歳をとると相対主義的なものの見方が自然にできるようになるのか、自分の好みに合わない見られ方に憤る傲慢な若さが失われ、みんな違うのがみんないいなあと思えるようになる。そいう意味でよいジジイになる。
ヴィヴァルディの『四季』にも演者の数だけ異なった解釈と演奏があるように、人生の『四季』にも人の数だけ異なった感じ方がある。違った四季を感じるから人それぞれが自分だけ一度限りの人生を生きる。一度限りだから人は大勢の中でも 〈ひとり〉 で、〈ひとり〉 が永遠の自由だからこそ涙も出ちゃうわけで、そういうふうにできている。それぞれの見方・感じ方があって、それぞれがみんないいなあと思えるジジイになっていく自分、それもいいかもしれないと思える今日この頃である。(4:09)
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注文した荷物が日本郵便で届くという。思ったより時間がかかるので追跡サービスで検索したら、DONGGUAN の国際交換局から昨日発送したという。DONGGUAN(ドォン グゥァン)とはどこだろうと調べたら広東省中部の東莞市だった。
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身延と清水が近いことにもビックリでした。
向暑、熱中症にはお気をつけください。