酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

ポール・オースター著「幻影の書」~無と終焉が織り込まれたラスト

2024-09-05 17:23:47 | 読書
 王座戦第1局は後手の藤井聡太王座(七冠)が挑戦者の永瀬拓矢九段を破り、防衛に向けて好スタートを切った。プロ棋士も攻防に隙のない完勝に感嘆していた。両者はVS(一対一の練習将棋)で互いを高め合っており、終局後は和やかに感想戦を行っていた。〝将棋学徒〟はさらなる高みを見据えている。

 ポール・オースターの死を知ったのはゴールデンウイーク明けだった。遅ればせながら、希有のストーリーテラーの死を心から悼みたい。紀伊國屋書店で訃報を伝えるポップの下に代表作が並んでいて、「幻影の書」(2002年、柴田元幸訳/新潮文庫)を手にした。オースターは1980年代から活躍していたが、なぜか縁がなく、読んだのは「ブルックリン・フォリーズ」、「ムーン・パレス」、「幽霊たち」に次いで「幻影の書」が4作目である。

 併せてWOWOWで放映された「スモーク」(1995年、ウェイン・ワン監督)見た。ハーヴェイ・カイテルとウィレム・ハートの共演で、ブルックリンのたばこ屋を舞台に、人々の絆が優しく紡がれていた。原作は「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」で脚本もオースターが担当している。オースターは90年代、複数の映画製作に関わったが、その成果の表れというべきが「幻影の書」だ。

 大学教員のデイヴィッド・ジンマ-は飛行機事故で妻子を亡くした。孤独と絶望の淵で喘ぎ、漂流するのがオースター作品の主人公の常だが、他者との扉を閉ざしていたデイヴィッドの再生のきっかけになったのは、サイレント時代の映画だった。監督のへクター・マンは12本を撮り終えた後、姿を消している。デイヴィッドは国内だけでなくヨーロッパにも足を延ばし、映画のコピーを入手する。

 オースターの小説を20作以上翻訳している柴田元幸氏は、本作におけるヘクター作品の分析の巧みさを、オースター自身が関わった映画製作の精華と綴っている。へクターの作品は全て短編のドタバタコメディーで、主演も務めている。へクターはラテン系の色男で、業界ではプレーボーイとして鳴らしていた。失踪後のへクターについて手掛かりがなかったデイヴィッドの元に、へクターの妻を名乗る女性から手紙が届く。そして、へクター夫人の使いとして訪れたアルマとの数奇な出会いが物語を加速させていく。

 アルマはヘクター監督作で撮影を担当した男の娘で、へクター夫妻とは旧知の関係にあるだけでなく、同じ農園で暮らしている。サイレント以降、へクターが撮った映画には母親が出演しており、へクター夫妻とは強い縁で結ばれていた。出会った夜に恋人になったアルマに誘われ、デイヴィッドは死の床に伏すヘクターの元に向かう。失踪の理由とその後の人生が、伝記を綴っているアルマに、そしてヘクターの一人称で語られる。へクター・マンとは、デイヴィッドとアルマを紡ぐ糸のような存在だったのだ。

 映画を含めオースターの作品には5作しか接していないから、全容を語るのは無理がある。〝ストーリーを積み上げて予定調和的なカタルシスに至る〟というイメージを抱いていたが、本作は当てはまらない。ラストで全ては崩壊し、へクターの記憶も記録も灰の中に埋もれていくのだ。無と終焉が滲んでいたが、デイヴィッドは希望を捨てていない。

 オースターを読んでいると、言葉の塊が脳内で破裂し、溶け落ちてくるような感触を覚える。読書の愉楽に痺れ、ページを繰る指が止まらなくなるのだ。膨大な数の未読の小説を、折を見て読んでいきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする